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by nbsakurai カテゴリ
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★★ 目 次 ★★ 『科学的世界観』のBlog エリア1 (科学の周辺) エリア2 (客観Xと主観Y) エリア3 (ロボットの心) エリア4 (問題の所在) エリア5 (様々な発想) エリア6 (生物学的発想) エリア7 (「空」・「唯識」) ☆ 参 考 図 書 ☆ 未分類 最新のコメント
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このBlogについて
このBlogの原点というか出発点は、・・・ 『 科学的世界観 』 ―― 科学的知識に基づく世界の統一的把握とその帰結及び限界 ―― という、既に公開されている本です。その本の趣旨については、この下の箇所で述べているとおりです。 このBlogは、その公開後において、様々な方と議論し、様々な本を読み、そこで考えてきたことを述べてみようという趣旨のものです。それを整理・編集して、ここに再現したもので、概ねこれまでの時間経過に従っています。 今後は、随時、読んだ本のことや、考えたことを、その都度、ここに述べていければと思っています。自分のこれまでの、そして今後の考えの経過を記録し、整理していくとともに、見ていただいた方からコメントがつくことも、期待しているものです。 ........................................ ★ 科学的世界観の掲示板 コメントをどうぞ ........................................ ★ 『科学的世界観』 ―― 科学的知識に基づく 世界の統一的把握と その帰結及び限界 ―― http://www.geocities.jp/nbsakurai/ われわれの住むこの宇宙は、どのようにして始まったのであろうか。そのなかで生命はどのようにして生まれ、人類はどのようにして誕生したのか。自分はどこから来てどこへ行くのだろう。自分の生きているこの世界はどのようなものであり、そして自分とは何なのか。……。 私がここで試みたのは、科学的な知識や事実をもとにした、世界の統一的な把握である。私はここで、科学的な知識を一定の方針のもとに収集し、それをある枠組みを使って整理し、集約し、体系化し、そうすることによって世界についての総合的な理解を得ようと試みた。 現代の科学は、様々な個別科学に分化して研究されている。細かく分化することによって、それぞれの科学はより深く、より精密になってきた。しかしながらその結果として、その間の連絡は疎遠になり、世界の体系的理解からは次第に遠ざかってきた。個別科学が、その対象とする領域でいかに精密な理解に到達したとしても、個々の分野を理解するだけでは、世界全体を相互に関連した整合性のあるものとして理解することはできず、世界観として不十分である。細かく分けられたそれぞれの分野で得られた個々の知識を統合することによって、はじめて、世界の包括的・統一的な理解が可能となるであろう。 三つの小世界についての科学的な知識の集約は、科学的知識の単なる要約には留まらず、やがてわれわれをある総合的・統一的な世界の理解へと導く。それぞれの個別科学のもつ意味や意義は、世界の全体についての首尾一貫した見方を持ったうえで評価するのでなければ、正しく理解されたことにはならないであろう。そして世界についての統合的な理解は、われわれにある一定の帰結をもたらす。 最後にわれわれは、そのようにして得られた世界についての体系的・統一的な理解とその帰結とが、どのような意味をもち、どのような根拠によって正しいのかを検討する。科学的世界観の正当性を検討するために、そこでは「科学的知識に基づいた理解」という枠組みが取り払われる。世界についての統一的な理解は、最後には科学的な知識によるという制約からも自由になる。そのようにして批判的に検討されることによって、科学的世界観はより一層広い地平に立つものとなるであろう。 ........................................ 意見・批判・指摘・感想等をお寄せいただきたい。関心のある人との議論を通じて、さらに内容を深化・発展させていくことができれば幸いである。 ライフログ
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2010年 12月 31日
2010年 12月 30日
Blogは、最新の投稿から遡って読んでいくのに便利なようにできており、全体を一覧したり、カテゴリーごとに順を追って読んでいくのにはちょっと不便です。
そこで、全体を見渡せるようにし、最初から順を追って読めるようにと、「目次」をつくってみました。 なお、 ← 左の「カテゴリー」の「未分類」 の中に、 未整理の最新投稿 (とりあえず) また、参考図書の目録も作ってみました。 ★★ 目 次 ★★ 000 このBlogについて 001 『科学的世界観』のBlog 149 blogを始めて約2月 099 時系列で整理した『科学的世界観』 144 世界でいちばん美しい物語 146 ガリレオの指 147 人類が知っていることすべての短い歴史 151 ビッグバン宇宙論史 101 私の意図 011 「世界観としての科学」 102 若干の補足説明 エリア1 (科学の周辺) 002 事実とは1 003 事実とは2 004 事実とは3 005 実在論とモデル論 006 量子論の多世界解釈 098 量子論の解釈問題 007 科学と哲学の関係 008 古代の偉大な思想と現代科学の世界理解 009 科 学 の 誕 生 010 世界を説明する統一理論 096 万物の理論(究極の統一理論) 152 万物の理論? 118 現代科学の宇宙論 158 宇宙論の現在 012 決定論と予測可能性 150 「決定論」と「自由意志」(―― は両立する) 110 科学の限界 エリア2 (客観Xと主観Y) 013 客観と主観、世界と私、ないしはXとY 014 物と生と心 015 Ⅹとしての生や心と、Yとしての生や心 016 意識し、実感する心Yとしての「私」 017 人間の二つの目、ないしは、観客席と舞台 018 右の目で見た世界、ないしは、橋もないし川もない 019 主観・主体・Yと内的知覚 020 世界認識とその根拠 021 自由意志 022 当為-何をなすべきで何をなすべきではないか 105 事実と価値 133 進化生物学――科学と価値のあいだ 134 事実認識と価値判断 153 科学は善悪を問うことができない 023 世界観と私1 024 世界観と私2 025 唯物論と観念論 026 Y が認識した理論の体系、 X 027 全ての基本は客観Xか 028 客観、X は実在するか エリア3 (ロボットの心) 029 心の物語 - ロボットの心 030 ボクの夢 031 知的ロボ開発へ 032 触ると感じる新型ロボット 033 日本ロボット着々前進 034 不気味ですか? 「人間そっくり」 035 心をもつロボットについての雑感 036 機械の心 037 心を持つロボットを作ってよい 038 ロボットの心はバックアップできるか 058 『虚構色』について 059 ボトムアップ知能という発想 060 人はチューリングマシーンではないという発想 061 人の心はシミュレーションでは実現できないんではないかな? 062 やっぱ答えなんて無理かという弱気 092 心のメカニズム創造のアプローチ エリア4 (問題の所在) 039 心の物語 - クオリア党宣言 040 「私」というミステリー 041 人間の二つの目 042 人間の二つの目、ないしは、観客席と舞台 043 当為-何をなすべきで何をなすべきではないか 044 対立やブンレツをドウする 045 Ⅹとしての生や心と、Yとしての生や心 046 意識し、実感する心Yとしての「私」 047 主観・主体・Yと内的知覚 048 客観的世界と主観的世界 049 心が認識する客観的世界 050 Y が認識した理論の体系、 X 051 全ての基本は客観Xか エリア5 (様々な発想) 052 科学的知性と文化的知性の統合という発想 053 「情報流」の一部としての私たちという発想 054 心は<プロセス>という発想 055 主客の分裂という近代の余計な自意識という発想 056 クオリア・マニフェストという発想 057 ユーザーイリュージョンという発想 064 四つの象限という発想(1) 065 四つの象限という発想(2) 066 四つの象限の統合という発想 067 観想の眼、悟りという発想 091 心についての新しいパラダイムの提案――活動選択 095 スピリチュアル・マシーン 109 物と心についての様々な考え方 119 物理主義 120 生活実践のための要請される、素朴心理学、心の素朴実在論 121 世界内存在としての心 122 中央参謀本部としての心 124 社会情報処理装置としての脳 125 進化しすぎた脳 126 身体としてある行為 127 自己の無根拠性 128 自由意思、自己のない行為から真の自由が生じる 131 物理的記号系仮説、ないしは、コンピュータと脳とのアナロジー 132 意識 ―― 世界をシミュレートする脳 148 現実世界のモデル エリア6 (生物学的発想) 063 認識装置が欠けているという発想 068 人の心は進化の産物という発想 069 自己意識は対人関係から生まれたという発想 070 『心の理論』と『ミラーニューロン』 071 天性の心理学者という発想 072 心は最も強力な実践理論という発想 073 精神→身体のつながりという発想 087 承前というか事後的補足というか 094 人間の本性を考える[上] 097 心の仕組み 100 進化心理学という発想 103 進化論的な視点で人間を見る 104 モジュール脳構造 106 進化の傷跡 107 脳と心の地形図 111 脳は美をいかに感じるか 112 意識的な自己の支配は幻想という発想 - 意識は潜在意識の産物 113 「ほんとうの自己」と「仮想の自己」 114 心に関する「進化的機能主義」 115 脳の進化の歴史 116 情動の力 141 生き残るために有効なバーチャル・リアリティ 143 自己とは? 145 チンパンジーの心 154 意識の探求 156 まず意思決定、理由は後付け 157 自我はどこに存在するのか エリア7 (「空」・「唯識」) 074 nb釈 「空」という発想 076 付録 - 空を悟るための修行 079 「私」と「全体」の関係 084 ようやく<中観>を読んだゾ 085 どうにか<唯識>も読んだゾ 093 「空「と「唯識」 117 縁起・空・中道 123 「無常観」と「空観」 129 中道 130 慈悲 135 縁起・無自性・空・中道 の関係 136 空の論理 ―― 無自性 137 唯識(の識) と 分別知 138 アーラヤ識 : 遺伝子 139 無我 と 非我 142 唯心 と 唯識 077 おまけ 分別知の限界という発想 078 おまけの反論 080 唯識は非科学 081 禅の実践をnbがしない理由 082 輪廻からの解脱? 083 人間の脳は四層構造 075 唯物から「空」に至る道 086 進化の過程を生き延びてきた生物としての人という発想 088 もう少し説明 140 「空」と「唯識」の核心 未分類 2008年 07月 20日
私の『科学的世界観』に書かれている宇宙論は、単に不十分なもであるというだけではなく、現時点から見れば明らかな誤りを含むものであり、最新の宇宙論の実際を反映したものとはまったくなっておりません。もしもできるものであれば全面的に書き直したいところではありますが、現在の私にはそれだけの意欲もパワーも出てきたりはしません。
最新の成果を基にした何か簡潔な宇宙論の解説書が出ないだろうかと思っていたところ、今回、その期待に応えられると思われる本が見つかったので、せめてものこととして紹介しておきたいと思います。 以下に、「はじめに」からの抜粋を掲載します。 この本ではその第1部の「宇宙の創生そして未来」において、宇宙の創生から現在に至る宇宙の進化、さらに宇宙の未来について、今日までに描き出されてきた宇宙像が簡潔に述べられています。これで、最新宇宙論の全体をざっと概観することが十分にできるでしょう。さらに、現時点でどこまでがどのくらい確かなことして言えるのか、宇宙論のどこからが未だ検証されていない単なる仮説にすぎないものなのか、いまだ謎として残されているのはどういうことか、そういう全体の感じも掴むことができるものと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 『宇宙はこうして誕生した』 佐藤 勝彦 ウェッジ選書 16 私たちの往むこの世界には、始まりがあったのてしょうか? もし始まりがあったなら、それはどのように始まったというのでしょう? 始まりの前はどうなっていたのでしょうか? 私たちの往んでいる世界、つまり、あらゆる物質的存在をすべて含む宇宙の始まりについての疑問は、人類の歴史が始まった頃から神学や哲学の課題として問われてきたものです。 (中略) 今日、私たちは二十世紀の爆発的な物理学の進歩と宇宙の観測技術の進歩によって、これらの問いかけに対して、科学的に答えることができる時代になりました。「私たちの往む宇宙は”無”から生まれた。無から生まれたミクロの宇宙は、インフレーションと呼ばれる急激な膨張によって、私たちが住むことのできるようなマクロ宇宙になった。インフレーション中に仕込まれた物質の凸凹が成長し、銀河や星が生まれ、私たち人類の存在をも含む、多様で美しい現在の宇宙が造られた」 この宇宙創生と進化のシナリオは、かつてはアインシユダインの相対性理論や、ミクロの世界を支配している量子論などによって描き出された理論でしたが、二十世紀末からハイテクを駆使した宇宙の観測によって、大きく裏付けられるようになってきました。 (中略) 今、宇宙の誕生から現在に至る進化のようすが、過去の宇宙の写真が撮られることによって描き出される時代となっているのです。その中でも究極のすばらしい観測は、米国NASAの宇宙背景放射観測衛星、COBE(コービと読む)によるものです。1992年、COBEは宇宙が生まれてまだ30万年しかたっていない宇宙の姿を描き出しました。そこには現在の銀河や銀河団など、宇宙の構造物になる種(たね)、物質の凸凹がはっきりと観測されました。2003年2月、COBE衛星の後継機であるWMAPは、さらに細かなこの始まった頃の宇宙地図を描き出したのです。そのデータの解析から、宇宙の年齢を137±2億年と測定するなど、大きな成果を挙げました。COBE衛星やWMAP衛星の観測結果はほとんどすべて、インフレーション理論を含む現在の標準理論と見事に一致するものでした。私がインンフレーション理論など宇宙初期の研究を始めた20数年前にはなかったような観測の進歩です。嬉しいことに、いまや宇宙論の研究は観測主導の時代となってしまいました。 しかし同時に、観測が進めば従来の理論を支持するものばかりではなく、新たな謎も生まれてきます。現在生じている最も大きな謎は、私たちの宇宙を構成している物質・エ不ルギーの96%が正体不明であるということです。宇宙の構造や進化は理論と見事に一致しているにもかかわらず、実は宇宙を構成している物質のほとんどは暗黒物質、暗黒エ不ルギーという正体不明のものであることが明らかになってきました。私は、この新たな謎が生じたことを喜ばなければならないと思います。科学は矛盾や謎を解くことによって進みます。これらの謎は二十一世紀宇宙論への鍵といえるでしょう。 2008年 07月 20日
私たちに、ある映像が見えるのは、映像情報を処理すべく脳の神経細胞が活動するからです。では、映像を見ている「わたし」はどこにいるのでしょうか。
目という窓を通して世界を見ているように感じていますね。「わたし」が目の後ろにいるかのように。 でも、わたしの自我そのものは物質世界には実在しません。視覚や聴覚、体の位置、平衡感覚からの信号を総合することによって、「わたし」が目の奥に存在するように感じられているのでしょう。 ところが脳の側頭葉と頭頂葉の境界部に障害があると、「わたし」の場所が変わってしまうことが報告されています。自分が身体から抜け出してしまったように感じられるのです。 脳のこの部分で視覚情報と自分の身体の位置情報を伝える信号が合流して「わたし」の位置を計算します。障害で信号のバランスが崩れると「わたし」の位置がずれてしまうのです。 「わたし」とは世界を解釈するために都合の良いように作り上げられた虚構に過ぎません。この虚構を生み出すメカニズムを脳という物質から明らかにする研究が進んでいます。 (坂井克之・東天啓教授) ―― 朝日新聞 2008年7月8日 意識 十五章 ⑪ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ う~ん。「わたし」とは世界を解釈するために都合の良いように作り上げられた虚構に過ぎない、なんてなんか随分とすごいことがやけにアッサリと書かれている、っていうような感じですね。 2007年 12月 23日
(前略)
たとえば、冷蔵庫を開けてビールを取り出したとする。単純な意思決定に見えるが、脳の中では、さまざまな情報が行き交い、神経細胞が活動している。「疲れた」「のどが渇いた」といった体の状態や、CMで見たビールの画像、水を飲んだ記憶……。情報のほとんどは記憶されない。 最終的にそれらの情報の何かが引き金になって行動が始まる。意志決定の過程で意識できることは一部しかなく、行動の本当の原因はよくわからない。 それでも困らないのは、「自分が決めたこととして頭の中で呼び起こせるから」と、渡辺克己・東京大学先端科学技術センター准教授は言う。脳には自分の行動の結果を見て「意思」を後付する仕組みがあるらしい。 意思決定の仕組みを探ることは、脳科学の一つのテーマとなっている。意識にのぼらない脳の活動が、意思決定にかかわることを示す証拠がさまざまな形で示されている。 (中略) ヒトが自分の行動をよくわかっているつもりでいるのは、脳の一部が自分の行動をモニターして、言語を使って解釈をしているという見方がある。 (中略) なぜ、わざわざ後付けの解釈をするのか。 「自分の行動は、自分の意思に基づくものだと、言語で解釈する。解釈は一つなので、自分は何をやっているのか、一貫性をつけることができる。それは悪いことではない」と理化学研究所脳科学総合研究センターの田中啓治グループディレクターは指摘する。 脳は外界からの刺激に対して適切な行動をとるための制御装置だ。その行動を後から自覚的に説明すれば、そう信じることができ、長期的な行動計画も可能になるという。 (後略) ―― 朝日新聞 2007年12月23日 日曜ナントカ学 2006年 12月 02日
『意識の探求』―― 神経科学からのアプローチ (上) (下)
クリストフ・コッホ 土谷 尚嗣 金井 良太 岩波書店 この本は、確かに標題のとおり、神経科学からのアプローチによる、「意識の探求」についての本である。 ただし、意識の探求と言っても、感情とか、意思とか、意図とか、自由意志とかいうような、ある意味で哲学的な?問題は、扱われてはいない。扱われているのはただ知覚のみであり、そのなかでもほとんど視覚のみ、というきわめて限定されたごく狭い領域である。 神経科学についての、実に面倒で、細々とした、ごく専門的な内容が、延々と書かれている。素人が安易な気持ちで、簡単に手を出せるような内容のものではない。残念なことに、通読が私にはできなかった。 で、その探求の結果、意識について何が分かったのかというと、そういうことはほとんど何も書かれていない、と言ってもそれほど間違いではないだろう。この本は、意識の科学的研究の成果を、一般の部外者向けに整理して述べた、というような本ではない。 この本はその筋の専門家に向けて、今後、意識を探求するに当たって、どんな姿勢で、どんな戦略でもって、どんな作業仮説のもとに研究を進めるべきかという、意識の科学的研究活動についての著者の宣言、マニフェストなのであった。 科学的な世界観という視点で、意識というものをどう考えるかという観点からみると、残念なことには、内容的に得るものはほとんどなかった、ということになる。もし何かあるとすれば、それは次のようなことであろう。 意識というものについて、現在のところ、科学的には何も分かっていないし、何が分かっていないのかもよく分からっていない。何をどう分かればいいのかも分からない。問いの立て方すらも、実はよく分かっていない。 この本に述べられている具体的な研究戦略が、考えうる他の戦略と比べてどれほど妥当なものなのかは、私には判断のつけようもない。でも、現状を考えると、まずは著者のように禁欲的、自制的な態度で研究を始めようというのは、妥当なものとしてうなずけるところがある。 研究はまだ始まったばかりである。こういう地道な研究をこれからズーッと続けていただくことによってしか、意識の解明なんか望みようがないのであろうとは思われた。残念だけどこれはしょうがない。というか、これがマットウな態度というもんなんだろうと思う。無責任な部外のヤジウマとしては、ぜひとも頑張っていただくしかない。 意識や脳に関する事実を集大成した決定版! 意識にからむあらゆる仮説を論評した決定版! 哲学、脳科学、心理学、さらには物理、計算機も含め、これまでの意識研究のすべてを精査・評価し、独自の見解を明快に述べた労作。 クオリアや自由意志など、さまざまな意識に関するキーワードの意味を知るガイドとしても役立つ。 これ↑が帯の謳い文句なんだけど、これではちょっと誇大かな? なお、サンプルとして ・ フランシス・クリックによる序文 http://www.emotion.caltech.edu/~naotsu/crick.pdf ・ まえがき http://www.emotion.caltech.edu/~naotsu/prefaceKoch.pdf ・ 訳者まえがき http://www.emotion.caltech.edu/~naotsu/preface.pdf ・ 目 次 http://emotion.caltech.edu/~naotsu/Site/TOC.html ・ 第1章 意識研究入門 http://www.emotion.caltech.edu/~naotsu/QFC1.pdf ・ 第20章 インタビュー http://www.emotion.caltech.edu/~naotsu/QFC20.pdf が、訳者のホームページ http://emotion.caltech.edu/~naotsu/Site/Translation.html で見られる。(サンプルなので、図や注は入っていません。実際の本は縦書きで、字句も多少異なっています。) 2006年 10月 13日
(いただいたご批評)
○ 科学を離れ、宗教や神学に入っていくことによってはじめて、一般的な価値や道徳、善悪について語ることができるようになるのである。 ⇒ 『科学的世界観の限界』 (第4章 第2節 1) そんなことはない。科学を離れる必要はない。 進化と遺伝子、適応からその安定状態を探り、それによって、人が何をどのように価値とし、道徳とし、善悪としているかを語り、真の安定した社会の在り方、人々の望む世界への道を語ることができる。 ○ 人間の愛を生物学的に説明しても、それで一体何を理解したことになるのだろうかか。 ⇒ 『「私」の存在』 (第5章 第1節 1) もちろん、愛への理解を深めることができる。悠久たる140億年の宇宙史の中で、愛がどのように生まれたのかがわかる。生物進化の歴史を追い、その展開をひもとくことで、愛、勇気、希望、憎しみ、嫉妬それらの相互関係を知り、愛の構造と発達とひろがりを理解することができる。 (科学に語れること) 善悪とは、あることがらは「どのようなものか、どうなっているか」と説明し理解するというようなことではなくて、「どうすべきか、すべきでないか」というものである。善はすべきこと、押し進めるべきことであり、悪はすべきでないこと、阻止すべきことである。そういう善悪の判断というものは、すぐれて文化的・歴史的・相対的・主体的・主観的・個人的なものであって、万人に通用するような普遍的・一般的・超越的・絶対的・客観的な善悪というようなものは本質的にありようもない。 確かに科学は、人が何を望み、何を価値とし、何を道徳とし、何を善とし悪としているか、ということを語ることはできるかもしれない。しかしながら、科学は、人が何を望むべきか、何を価値とすべきか、何を道徳とすべきか、何を善とし悪とすべきかを語ることはできない。死の回避といったものが、感情、本能であり、進化生物学の観点から、遺伝子が生み出す行動の傾向として説明されるということがたとえあったとしても、それは、そのようになっていると説明し理解するということではあっても、そうすべきという意味で善悪を語るのもではない。 善悪について科学に語れることがあるとすれば、それは次のようなことであろう。 ・ ある時あるところのある人々が、何を善とし悪としているか、どのようにしてそれをしているか。 ・ それらのことが、人という生物種のもつどのような本性に根ざしたものか。 ・ 科学以外のところで、人々が何かを価値のあるものとした場合に、それを実現するためにはどのようにすることが妥当で望ましいか。 (科学と検証) 科学の仮説は検証されなければならない。科学には検証というという作業が待っている。以上のような意味での善悪の判断を、いったいどのようにすれば検証しうるのか。そもそも、科学的に検証された善悪の判断、というものがありうるのか。そういう善悪の科学的検証というものを、私はいまだかつて見たことも聞いたこともない。 環境問題の科学研究で、地球環境を破壊すること、例えば、オゾン層の破壊や地球温暖化につながることを、すべきでない悪として語ることはない。環境の科学そのものは、環境破壊で人類が滅びてはいけないとまでは語らない。そういう問題を研究している科学者が、そういう問題意識を持ち、そういう主張をされることは大いにありうることである。しかしながら、それは科学者個人の主張であって、その意見自体が科学の中身であるわけではない。 みんなが環境破壊を悪とすべきだ、と科学は語ることができない。そういうことを科学が語ったとしても、その仮説は科学的に検証のしようがない。これは科学的には検証できないものだ、科学では原理的に扱えないものだ、という意味で、科学が語れることはではない。環境を破壊すべきでない、と科学は語ることができない。たとえ語ったとしても、それは既に科学ではない。 ただし、環境破壊がどのように行なわれているかとか、それをくい止め、地球温暖化を回避するためにはどのようにすべきか、というような研究は科学的に行ないうる。 (結論) 科学は、人が何を望むべきか、何を価値とすべきか、何を道徳とすべきか、何を善とし悪とすべきかを語ることはできない。科学は善悪を決定しないだけでなく、決定することができないし、そもそも追求することすらできない。 「何を善とし悪とすべきかを語る」ものは、もはや科学ではない。科学は、原理的にそういうことは語れない。科学的な外見をもって善悪を語るのは、そのこと自体が既にエセ科学のまぎれもない兆候であると私は考える。 ・ 『当為-何をなすべきで何をなすべきではないか』 http://nbsakurai.exblog.jp/320081 ・ 『事実と価値』 http://nbsakurai.exblog.jp/1828183 ・ 『進化生物学――科学と価値のあいだ』 http://nbsakurai.exblog.jp/3812068 ・ 『事実認識と価値判断』 http://nbsakurai.exblog.jp/3824659 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ これは、一時非公開にしていた、ご批評をいただいた方とのやりとりを、改めて整理してみたものです。 こんなふうにまとめてしまうと、発言時の言葉の流れや勢いというものが失われ、味も素っ気もないつまらない感じのものになってしまって、残念なことではあります。しかしながらお相手の方は、ネット上では議論というものを一切しない方針ということで、このエントリーの削除を希望され、ご自分の文章の部分だけでも削除してほしいというご希望ですので、これも止むを得ません。完全にはご希望にそえませんでしたが、私の発言に対する批判の趣旨は、必要最小限残させていただきました。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 2006年 10月 06日
『科学にわからないことがある理由』 ― 不可能の起源
原著副題 ― 科学の限界と限界の科学 ジョン・D・ バロウ (著), 松浦 俊輔 (翻訳) 青土社 http://www.amazon.co.jp/gp/product/4791758102/ref=sr_11_1/503-7596531-4364769?ie=UTF8 P119 自然法則を知ることと、その法則の結果を知ることとはまったく別である。自然法則の結果はその法則そのものよりもずっと込み入っている。(中略) この<宇宙>は、見えているとおり、ごくわずかな数の単純な対称的法則に支配され、しかも様々な複合的で非対称的な状態や構造を見せることができるのだ。(中略) このように科学的展望を法則と結果に分ければ、あれほど外観が異なる科学の分野がある理由も納得しやすくなる。素粒子物理学者に、世界はどう見えるか尋ねれば、とても単純だと答えるかもしれない――ただし「正しく」世界を見ていればのことである。すべてはわずかな数の基本的な力に支配されているのだ。しかし同じ問いを、生物学者や物性物理を研究している学者に向ければ、世界は非常にややこしくて、非対称的で、でたらめだと答えてくれるだろう。素粒子物理学者は、基本的な力をその対称性と単純さについて調べているが、生物学者は自然法則の非対称的な結果による入り組んだ世界を見ており、そこでは対象性が破れていたり成分は単純でも組み合わせがややこしいのがあたりまえである。(中略) この宇宙は基本法則の数と素粒子の種類の多さという点では非常に単純なものかもしれない。これらの力の論理的に整合的な記述に達することができるかもしれない。この種の完成が「万物の理論」(セオリー・オヴ・エヴリシング)と呼ばれることがある。しかし、これは英語の誤用であることを認識することが大事である。部外者からすれば、「すべて」はすべてである――余すところがないのだ。しかし物理学者がそんなことを考えているわけではない。すべてについての理論は、自然界のいろいろな力(今のところ四つだけだと思われている)を統合しようというものである。副産物として、他にも同時に見事なことをするはずだ。たとえば、物質にもっとも基本的な粒子は何か、その正体と、さらにはその特性を予測できるかもしれない。特性まで予測できれば、観測によるテストにかけられるような非常に明瞭な予測をもたらすはずだ。 しかしそのような理論にあまり多くのことを期待しないように気をつけなければならない。宇宙に見られるあらゆること、一つ一つについての説明を、正しく見れば分かる他のすべての事物のリストと合わせて打ち出してくれる宣託ではない。物質とエネルギーの組み合わせによって生成しうる、いろいろな複合的な構造の数には限りがないかもしれない。わかっている中でももっとも複雑な例の多く――脳、生物、コンピューター、神経系――には、万物理論が手に入っても明らかにはならないような構造がある。そういう構造も、もちろん、そのような理論によって存在することは可能だ。しかしそうした構造は、その下位成分のまとまり方によって可能になる複合的なふるまいを示すことができる。万物の理論を得ることと、その解をすべて見つけることとはまったく別のことなのだ。それは無駄な心配ではない。今のところこのすべてを包括するものとして好まれている候補――ストリング説(超ひも理論)――は、物質の素粒子についてあらゆる種類の情報を含んでいるように見えるが、これまでのところ、その情報を引き出すためにこの理論をどう解けばいいのかは、誰にも分かっていない。そこにある数学は、現時点では我々の能力を超えている。 P121 近年、素粒子物理学の展開では、究極の「自然法則」の探求に関心を集めている。 P146 法則は数が少なく単純でも、結果は膨大で複雑である。いわゆる「万物理論」という物理学者が求めているものの意味を考えると、自然法則(それが「万物理論」だ)を見つけることと、その法則から出てくる複合的な結果の理解とは、慎重に区別しなければならない。 2006年 09月 18日
『ビッグバン宇宙論』上・下 サイモン・シン 青木 薫 新潮社
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4105393030/sr=8-2/qid=1158573405/ref=sr_1_2/503-7596531-4364769?ie=UTF8&s=gateway 看板に偽りあり。この本は、「ビッグバン宇宙論」それ自体を正面からテーマとして、書かれた本ではない。 読み始めるといきなり、あまり興味のわかない宇宙の創造神話の数々が述べられている。続いて古代ギリシャでの話。これらが延々と続くのですぐに飽きてしまい、やがては飛ばし読みになり、ついには読むのを投げ出してしまった。 その後、最後の「エピローグ」を読んでみたら、これが読めるので、続いて第Ⅳ章から逆に読み始め、第Ⅱ章までは読み進(退?)んだが、第Ⅰ章はやはり斜め読みになってしまった。 この本は、人が自分の住むこの世界全体・宇宙をどのようにをみてきたかという、宇宙観の変遷を述べた、歴史物語というような構成でできているる。最後はビッグバン宇宙論に至るわけだけども、それも最先端の話題にまでにはあまり届いていない。 それらを項目として、書かれてる順に適当に拾い出すと、次のようなことになる。 ・ 世界創造の神話 ・ 古代ギリシャの宇宙観 ・ 地球中心モデル ⇔ 太陽中心モデル ・ エーテルの不存在とアインシュタインの相対論 ・ 宇宙を静的にする宇宙定数 ⇔ 動的なフリードマン宇宙 ・ 唯一の天の川銀河 ⇔ 膨大な数の銀河に満ちた宇宙 ・ 永遠で静的な宇宙 ⇔ ハッブルの膨張宇宙 ・ 軽い元素の存在比 ・ 定常宇宙モデル ⇔ ビッグバン宇宙モデル ・ 宇宙の年齢、重い元素の合成、クエーサー、宇宙背景放射 ・ パラダイム・シフトの完了 ・ エピローグ (総括、インフレーション理論、ダークマター、加速膨張、ダークエネルギー、 人間原理、マルチバース、ビッグバン以前・・・) これはまず、神話からビッグバンに至る宇宙論の科学史であり、科学革命史のようである。 さらに、各時代のそれぞれの科学者らがどのように宇宙論と取り組んだのか、科学はどのように進展したのか、また、科学とはどういうものか、ということにも充分な目配りがされている。むしろこっちの方が、メインのテーマだったりして。 もしもこの本の内容をそのまま表現するとするなら、題名はたとえば次のようにすべきか? 『人類の宇宙論史――科学の革命』 『科学と科学史の演習――宇宙論を題材として』 こんなふうにみてみると、目の覚めるような新奇なことが述べられているわけではないが、逆に言えば至って堅実で、なかなかによくできた本ではあるように思う。 それに、宇宙をどのように観るかというのは世界観の重要な部分でもあるだろうし、ビッグバン宇宙論はやっぱスゴイし。 2006年 09月 11日
『脳の探求』 ―― 感情・記憶・思考・欲望の仕組み
スーザン・グリーンフィールド 新井康允 中野恵津子 無名舎 P268 私たちは毎日、昼食は何にするか、どの生命保険が有利かといったことを意識的に判断して生きている。しかし、実際にコントロールしているのはいったい誰なのか。あなたか、それともあなたの潜在意識なのか? もちろん、自分では意識的に体を動かそうと判断していると思うだろうが、ほんとうにそうなのか、確かめられるのか? 前述のベンジャミン・リベットはそれを確かめようとした。 リベットは、私たちが動こうと決めたときに脳の中で何が起きるのかを探った。意識的な決定が先か、無意識的な運動の実行が先か。最近、ロンドン大学のユニバーシティ・カレッジの生理学者パトリック・ハガードが、リベットのこの実験を再現した。実験はとても簡単だった。パトリックの実験動物になった私が言うのだからまちがいない。私の頭蓋に取りつけられた電極が、脳の運動皮質の電気活動を監視する。運動皮質は運動の生成に関与する皮質の一部である。私がなすべきことは、いつでも自分の好きなときにボタンを押して、それを押したいと思った時間を正確に告げることだった。 リベットは、動きたいという意識的欲求が先に起こり、それから脳の運動野が活動をはじめると思っていたが、まったく逆だということを発見した。動こうという決断は、運動野が行動の準備を始めてから約一秒後にやってくる。あなたの脳は、潜在意識のなかで既に動く決断をしており、「あなた」はその動くプロセスが作動したとたん、その存在に気づくにすぎないのである。 この発見が意味するところは途方もなく大きい。何かしようとする意図が、脳がそれをすでにしようと決めてしまったあとにくるとしたら、もし「あなた」が決める前に脳が決めてしまうとしたら、私たちの行動は自由意思ではなく、潜在意識が処理するプロセスに支配されるわけである。「あなた」という感覚(あなたのなかにある個人)は、おそらく、脳が仕掛ける最もみごとなトリックということになる。脳はどういうわけか、意識的な自己が自分の動きを支配しているという幻想をつくりだす。ところが本物の支配権は潜在意識がにぎっているのである。 私たちを操る不気味な生物学的なプロセスが脳のなかにある――アメリカの哲学者ダン・デネットは、それを「自己的自己」と呼ぶ――とは、どうにも心休まらない考えだ。しかし、私たちの意識的思考が無意識的なプロセスからきているなら、その考えは正しいと言わざるをえない。意識は潜在意識の産物なのだ。客観的な脳という点から見ると、意識的にコントロールしているという感覚は、神経生物学的な信用詐欺なのである。こういう考え方は異端のように思われるかもしれないが、実はそれほど異端ではないのではないか。結局のところ、無意識的だろうと意識的だろうと、私たちの思考や行動はすべて脳から出ているのである。意識と無意識は二つの存在(自己と脳)ではなく、統合された全体の部分を成している。それぞれの人生が描く軌跡によって個人化されるとはいえ、「あなた」をつくっているのはすべて脳なのだ。 意識や自由意志が幻想にすぎないとしたら、個人の責任や釈明義務はどうなるのだろう。犯罪はそれを犯した人間の無意識の力から出てきたものだから、彼らにその責任を負わせることはできないということになるのか。ニューヨークのフォーダム大学法学部教授デボラ・デノは、脳についてのこうした見解で困るのは、「心のなかの人格」、すなわち判断を下し、自分の行動に責任を持つ個人という概念を捨てなければならなくなることだと指摘する。しかし、意識的であれ無意識的であれ、私たちの行動すべてがニューロン集合体の伸縮に還元できるならば、そういう私たちの行動がどこまで自由だと言えるだろう?(・・・略・・・) しかし私たちは、神経細胞のネットワークや神経伝達物質や無意識のプロセスについて、さまざまなことがわかったにもかかわらず、やはり、自由に選択する意識的な自己は存在すると思われる。私たちのそうした心のなかの自己を考える能力は、人間の意識の重要な特質をはっきり見せてくれる。つまり、私たちは世界やまわりの出来事を意識するだけでなく、自分自身をも意識する。私たちには自己意識があるのだ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 『自由は進化する』 ダニエル・C・デネット 山形浩生 NTT出版 ⇒ 「決定論」と「自由意志」(―― は両立する) 訳者解説 P447 デネットはこれを第8章で徹底的に批判する。要するに、意識的な決断が意識に認識されるまでにだってちょっとは時間がかかるんだから、決断より先に行動が起きているように見えるのは、その遅れが検出されているだけじゃないの、ということだ。意識というのは一枚岩じゃなくて、いろんなモジュールが競合しているような存在なんだから、モジュールの間で多少の差が出るのは当然だ。(中略) だからこの話だって、おもしろいけれど自由意志の否定にはならない。
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