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2023年 11月 14日
この blog の構成・順序 ◎ 『追記1: 自然法則・予測可能性・自由意志』 ◎ 『追記2: ヒトの現状 ・ ヒトの近未来』 ◎ 『追記3: 「自由意志と責任ある主体」という虚構』 ◎ 『追記4: 「自己」という幻想・ 量子論と「空」』 ◎ 『補足1: 仏教哲学と瞑想実践』 ◎ 『補足2: ヒトは象使い ・ 形而上学的な問い は 疑似問題 ?』 ◎ 『補足3: 人工物による生命・意識の実現性の問題』 ◎ 『補足4: 自己の物語り』 ○ 『休眠中』 ( 約 14年間 ) ○ 『科学的世界観のBlog の 目次』 ○ 『引用した参考図書の目録』 ◯ <・ それ以前の個々の記事 ・> (2008.7 以前) #
by nbsakurai
| 2023-11-14 09:22
| ★ ★ 総 括 ★ ★
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2022年 10月 13日
赤いリンゴを見て、それが赤いリンゴであると知覚する。 光の波動である電磁波には、振幅の激しいガンマ線から、波長の長いAM波まで、実に膨大な帯域幅がある。 そのうちヒトに感覚できるのは、可視光と呼ばれる極めて狭いごく一部分に過ぎない。 その(赤い)リンゴは、届いた電磁波を透過・吸収・反射するのみである。 分子・原子・素粒子と光の量子である光子とが、ミクロレベルで相互作用している。 ヒトの目の錐体細胞には三種類あり、それぞれが受けた可視光を電気化学的な信号に変換して視神経に送る。 そこで行われている生理現象も、物理・化学的な相互作用にほかならない。 以上のどこでも「赤さ」には関知していないという意味で、赤はイリュージョンである。 文字通りの意味では、色も音も臭いも味も、自分の外の世界のどこにも存在していない。 これらの物理・化学的な相互作用と、このようなイリュージョンとはどのような関係にあるのか。 理解不能な驚異のミステリー、随伴現象説、ホムンクルス・デカルト劇場、脳細胞のマイクロチューブル説、量子の未発見の属性、多数のエージェントの競合、モジュール仮説、多元的草稿モデル、社会的脳、ソマティック・マーカー仮説 高度なネットワーク、コネクショニズム、創発説、ニューロンの発火同期、物理的記号仮説、統合情報理論、グローバル・ワークスペース理論、・・・。 様々な理論や説明が提唱されてきてはいるものの、それらの全体を見通しよく整理することもなかなかに困難な状況。 根本理論は確立されていないようであり、そのような理論が原理的にありうるのかも、五里霧中。 素粒子物理学における標準模型、分子生物学におけるセントラル・ドグマのようなものは、意識についてはできていない。 誰もがそれぞれの発想で、もっともらしいことを好き勝手に言える状況にある、と口の悪い人なら言うかもしれない。 これを、意識のハード・プロブレムと呼んで、重大視する立場もあるようである。 それでも、そこに赤いリンゴがあるという認知は、ヒトの実践という点で大いに有用である。 この世界の膨大で雑多な情報の中から、ヒトの生存に役立つ情報をうまく拾い出している。 赤外線をみるのが適応的なマムシのような生物は、それを感知するように進化したし、紫外線を見るのが有利なモンシロチョウのような種は、そのように進化した。 ヒトが見ている世界と、コウモリがみている世界は、もちろん違うだろう。 音や臭いや味等についても同様である。 生物としてのヒトは、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、皮膚感覚、体性感覚、内蔵感覚等から、時々刻々、電気化学的な信号として、ビット数換算で実に膨大な情報を得ている。 ヒトは、それらの情報すべてを一ヶ所に集め、統合して瞬時に処理するような、超高速・超高度の集中処理機能はもたない。 そのような中枢処理センターは、ヒトの身体や脳のどこにもない。 いかなるトップダウン式のコントロール・センターもない、並列分散処理のシステムになっている。 脳の中にたとえ精霊やホムンクルスがいたとしても、中央制御室に陣どって采配を振るうようなことはできない。 ヒトの意識は、統合された単一のプロセスではないし、確固たるひとすじの流れでもない。 情報のほとんどは多元的に各所で、多層的に、自動的・無意識的に処理されている。 ヒトのほとんどの判断、決定、行動は、慎重な検討のうえで意図的にではなく、無意識のうちになされている。 いわゆる心のおもむくまま直感的に行われ、どうしてそうしたのか自分でも実はよくわかっていないが、問われると後付けでもっともらしく理由を答えて納得したりする。 ヒトは必ずしも、常に充分な熟慮に基づいて行為を選択する、合理的行為者ではない。 かつての正統派経済学が前提としていた、合理的経済人という仮設も、心理学的な行動経済学によって、すでに粉砕されている。 それらの処理され行われたなかの、限られたごく一部が、断続的に意識に昇る。 意識しない方がうまくやれることは多々あり、 意識を統一して何かに集中しようとしても、次々と雑念が勝手に浮かんできて、まるでコントロールできなかったりする。 ヒトは途方もなく複雑な機構で構成されており、その込み入った詳細に直接アクセスして、見たり感じたりすることはできない。 それらが選別・捨象・解釈・補完・加工・要約・圧縮・簡略化されて、創作された模式的・象徴的な構築物が得られるのみである。 意識に昇る際には都合のいいように編集され、補正され、忘却され、後付けで作話されたりもする。 自分の特別で個性的な独自の判断・行動をしているつもりでも、よくよく遡って検討してみると、 生物進化や社会の文化的進化、教育や学習や経験、さらには広報・宣伝やプロパガンダその他の情報操作等によって、 自己のあずかり知らないところで、実は(外部からも)動機づけされて、判断・行動しているかもしれない。 意識は、身体・神経系・脳の活動を漠然とモニターして得られる、単純で曖昧な粗いイリュージョンである。 まず世界がソコにあって、それをヒトが認識するというのではなくて、そうやって意識が造り出したものが、ソコにあるかのようにヒトに認識される。 内分泌器官から放出されるステロイドのようなホルモン、神経末端から放出されるオキシトシンのような神経内分泌からも影響を受けている。 知覚は、生物としての生存に適するよう、近づく・避ける、好き・嫌い、快・不快、渇望・忌避というような情動と絡み合って、ヒトの認知になる。 ヒトの世界はそのようにして構成されるものなので、個々のヒトによってその中身が異なってきても仕方がない。 ヒトは、同じ世界に住んでいるのに世界の見方が異なるというのではなくて、それぞれが構成した別々のイリュージョンの世界の中に、それぞれが住んでいると思っている。 自分が住んでいる(と思っている)世界では、これが正しいこと(正義)だと思っても、アノヒトが住んでいる(と思っている)世界では、そうではないかもしれない。 イリュージョンどうしを比べて、どっちが正しいかと問うてみてもあまり意味はない。 でも、ついついそれをやってしまう。 それらのイリュージョンには、リアリティーがあり、実用的価値もある。 それを持たないと、事実上、社会生活を円滑に営むことができない。 ヒトが誕生して一人前の成人に発達するには、自我の確立も欠かせない。 自分探し、自分らしさ、自分を大切に、自己に忠実にとか、自己実現と言われるようなこともある。 自伝的記憶、ツジツマのあった自己の物語りが要請される。 それがたとえ、リアリティーのある、フィクションないしはファンタジーであったとしても。 また社会的動物であるヒトは、回りの他者にも、自己と同じように人格をみて、心的状態を類推して理解する。 他者の知識、信念、思考、感情、意図、目的などを直感的に推定し、それに基づいて、他者の行動を予測したり、協力したり妨害したり、操作しようとする。 ヒトは進化的に、他者の心の状態を推測・理解する能力である、素朴心理学・通俗心理学を授けられている。 これは学問の世界で、″心の理論″と呼ばれているようだ。 こうしてヒトは、自己という幻想、自己の周りの世界についての幻想、自己を意図的にコントロールしているという実存幻想、をもっている。 このような自己意識には、自然淘汰を潜り抜け生存・繁殖に資する、進化的価値があるらしい。 進化は、生物の福利厚生や幸福それ自体には関知しないが、生存・繁殖に役立つ特性を事実として可能な限り、自然選択によって実現していく。 ヒトの遺伝的・文化的進化によって、意識はホモサピエンスに造り付けになっている。 これらは造り付けになっているので、その内容にたとえ不合理なところがあったとしても、ヒトはそれから完全に逃れることはできない。 むしろあまりに当然に思えるので、疑問の余地のないものとして、それに反する発想を無条件に排斥したりする。 さらにヒトは、現象的意識を持つことを満喫する、自分が現象的意識をもって生きている世界を愛する、現象的意識を持っている自己を尊ぶ、ということができる。 自我のアイデンティティー、センス・オブ・ワンダー、オンリー・ワンの自尊感情。 生きる喜び、生きる意味、より良く生きようとする意志、勇気と希望か湧いてくる。 そういうことができれば、それができないよりも、自然淘汰・進化的に有利なことがある。 よって、そのような現象的意識、生の讃歌が、ミームとして繁殖しがちになる。 生きてるって素晴らしい。 科学がなんと言おうと、それらの尊厳を守り抜こうと。 以上は、現象的意識の楽天的なところである。 それらがうまくできれば、まことにおめでたい。 しかしヒトは、常時そのようにしていられる、恵まれた成功者ばかりとは限らない。 そのようにできないものは結果として淘汰される傾向にある、ということを、これは含意している。 ヒトは、そのようにポジティブであったり、その対極のネガティブになったりする、ということもある。 普通は、鬱の人は物事をネガティヴに考え過ぎている、と思われている。 ヒトの、自己を肯定的に知覚し、自己の将来を楽観的に構想し、自己のコントロール能力を高く評価するこの傾向は、ポジティブ・イリュージョンと呼ばれているようだ。 物事を前向きに、ポジティブに考えていれば成功のチャンスは増すかもしれないが、 ポジティヴな自己の物語りが破綻して、人や自己に語れなくなったとき、人生の危機を迎えるのかもしれない。 現象的意識が、不安、憂鬱、絶望、暗い闇、実存の苦悩をもたらすということがある。 またそこには、科学的な世界観とうまく整合しない、様々な哲学的難問が生じる。 クオリア、物質と精神、脳と心、心身二元論、客観と主観、自然法則と自由意志、非物質的な不滅の魂、・・・。 現象的意識と科学的な自然観には不整合が生じ、なかなか両立させがたい。 そうではあるが、そのリアリティーや、生きていくうえでの実用性は、科学に勝るとも劣らない。 例えば、次のように考えていても、支障なく生きることはできるだろう。 この世には上下があり、下には不動の大地、上には天の世界がある、 天の太陽は地上の生き物に恵みをもたらすために東から昇り、夜に休息をもたらすために西に沈む、 物は静止いているのが本来のあり方で、動かしても力を加え続けなければ静止する、 物は持ち上げても地に落ちようとし、重いものほど早く落下する、 この世は、地・水・火・風の4元素でできており、それとは別に、生き物には生命力があり、ヒトには魂がある、 この世には創造主がいて、すべての物事に何らかの意味や目的がある、 その中でヒトはある種の特別な、特権的地位にある、 でも悪いことをすると、バチが当たる、・・・。 また科学・工学の成果を利用するのに、科学的な世界観を受け容れる必要はない。 むしろ最新の情報機器が、新たにイリュージョンの生成・模倣・複製・繁殖を助長したりもする。 非科学的な幻想・信念のもとでアクティブに科学的活動に取り組み、成果をあげるということもあるようだ。 ヒトは、多かれ少なかれ、意識という幻想による、それぞれのバーチャル・リアリティーの中に生きている。 幻想にまみれた、五感、知覚、感情、想い、人生経験、概念、意味、評価、常識、正義、人格、自由意志、責任、人生観、魂、老、死、神仏、あの世、死ぬと星になる、千の風になる、・・・。 それらと、科学的な自然観・宇宙観とに折り合いをつけていくのは、至難の技かもしれない。 ヒトはおそらく、そういう自己の物語りを更新しつつ、常に現象的意識をもって、実存的に、生きていく以外に為すすべがないのだろう。 そしてそれで、日常の生活に特に大きな問題も生じさせず、どうにかうまくやっていける。 ヒトの創造主である進化にとっては、とりあえず生存・繁殖さえできれば、それで差し支えない。 ヒトは、真の実在を知覚するように進化したのではなく、適応的な行動に繋がる、有用な知覚が得られるように進化してきた。 その中身がたとえ錯覚や虚構であっても、生存・繁殖に役立てばそれで構わない。もしも害になるものであれば、いずれ淘汰される。 現在のヒトは、そうやって生き残ってきた生物の子孫である。 また、進化ではマッサラな状態から新たに設計し直すことはできず、既にあるものにアドホックに変更を加えたり継ぎ足したりしていくことになるので、 ヒトの脳神経系もツギハギだらけで、スッキリとした構造できれいに機能を果たしている、とは言えないようなものになってもいる。 そのせいでごちゃごちゃしており、リバースエンジニアリングも困難である。 この世界は、ヒトが見たり感じたりしている、その通りのものではないが、 当面する事態にすぐには役に立たない、真実の追求にじっくりと時間やコストをかけたりしていては、生存・繁殖に不利になり、淘汰されかねない。 生物進化に、長期的視点にたった、深慮遠謀はない。 完全でなかろうと、混乱していようと、虚構であろうと、論理的に一貫せずに矛盾していようと、さらには、大いに苦悩しようとも。 その場その場の状況に応じて、結果的に適応的な振る舞いができれば、それで足る。 進化は、適応的行動を導くようにヒトの知覚を造ってきたのであって、真実を見るようにではない。 創造主にあえて逆らう必要も、ないのではないか。 真実など追求しなくとも生きていけるし、知らないでいる方がむしろ生きやすく、気分も軽快で楽しいかもしれない。 イリュージョンでもバーチャルでも、そんなことは気にせずに、まさに見たり感じたりしているその通りの世界の中で、 自己の物語りを大切にしつつ、真摯に生きて楽しく過ごせれば、まさにそれが適応的で充分に満足できる、充実した人生というものなのではないか。 実感・素朴・常識的な世界の見方で幸せに楽しく人生を過ごせるなら、周りがとやかく取り沙汰することもないかもしれない。 それでも、それらが移ろいやすいイリュージョンであることに変わりはない。 そこに実体・本質・それ自体・イデア等を認めて問いをたてても、答えはやはりイリュージョンの世界の中でのお話し、ということになりかねない。 仏教哲学にも、無我とか無常とか空とかいうことがあるようだ。 自己や世界の事象を実体とみる、無明に基づく戯論。 そういうものに執着することが、苦を招くとか。 〇 『裸のサル―動物学的人間像』 デズモンド・モリス 1969/11/1 〇『偶然と必然―現代生物学の思想的問いかけ』 ジャック・モノー 1972/10/31 〇 『利己的な遺伝子 』 リチャード・ドーキンス 1991/2/28 旧 『生物=生存機械論―利己主義と利他主義の生物学』 リチャード・ドーキンス 1980/3/1 〇『脳のなかの幽霊』 V・S・ラマチャンドラン 1999/7/30 〇『生存する脳ー心と脳と身体の神秘』 アントニオ・R・ダマシオ 2000/1/1 〇 『デカルトの誤り 情動、理性、人間の脳 』 アントニオ・R・ダマシオ 2010/7/7 文庫版 〇 『科学にわからないことがある理由 ― 不可能の起源』 ジョン・D.バロウ 2000/4/1 〇 『人はなぜ感じるのか?』 ビクター・S.ジョンストン 2001/6/1 〇 『身体化された心―仏教思想からのエナクティブ・アプローチ』 フランシスコ・ヴァレラ 2001/8/10 〇 『意識する心―脳と精神の根本理論を求めて』 デイヴィッド・チャーマーズ. J 2001/12/1 〇 『ユーザーイリュージョン―意識という幻想』 トール・ノーレットランダーシュ 2002/9/1 〇 『自我が揺らぐとき―脳はいかにして自己を創りだすのか』 トッド・E. ファインバーグ 2002/11/27 〇 『マインド・タイム 脳と意識の時間』 ベンジャミン・リベット 2005/7/28 〇 『心は遺伝子の論理で決まるのか-二重過程モデルでみるヒトの合理性』 キース・E.スタノヴィッチ 2008/12/19 〇 『つぎはぎだらけの脳と心―脳の進化は、いかに愛、記憶、夢、神をもたらしたのか?』 デイビッド・J.リンデン 2009/9/1 〇 『〈わたし〉はどこにあるのか: ガザニガ脳科学講義』 マイケル・ガザニガ 2014/8/28 〇 『超越と実存 「無常」をめぐる仏教史』 南直哉 2018/1/26 以上のような見方は、大多数の人々にとっては常識に反し、なかなかに受け容れ難いもののように思われる。 ちなみに、私見では、 現在の科学的な世界観には、次のような興味深い課題があるようだ。 ・ 多世界解釈のような量子論の解釈問題、 ・ 超ひも理論のような相対論と量子論を統合する万物理論の問題、 ・ ダークマター・ダークエネルギーの正体ような宇宙論の問題、 ・ インフレーション宇宙論から導かれる泡宇宙としてのマルチバース、 ・ 地球上での生命誕生の経緯及び地球外生命、 ・ それに、意識のハード・プロブレム、 ・ ついでに言えば、人工物による生命・意識の実現性の問題。 これらの問題はいずれも、見通せる近いうちに解決される見込みがあるようには見えない。 それでは、これらが解決されると、世界観が実質的にどう変わることになるだろうか。 科学的な世界観にとって、世界についての追加的な理解が得られるという以上の、どの程度の重要性があるのか。 これらに深い興味を持つ研究者等にとっては、大きな謎・重大な問題、かもしれないが、 それまでの世界観がひっくり返るような事態が、起こりうるのだろうか。 世界観に、コペルニクス的転回のような、そんな大きな変更が生じるようには思えない。 特別な大問題扱いをして、大いに気にするほどでもないように思われる。 科学的な世界観は、もうある程度の成熟期に入っていて、より深くなったり豊かになったりすることはあっても、相対的には些細な変更にとどまるような気もしている。 科学の仮説は言いっぱなしではなく検証されることが必要であり、間違っていることが判明すれば否定・排除されることになっているが、 相対論や量子論、宇宙論や進化論が根本から間違っていた、などということは起こりそうもない。 この世界の見方のフレーム・パラダイムが、革命的に変革されるようなことにはならないのではないか、という気がしてきている。 それらにどう決着がつこうと、本質的・根本的には世界観にあまり影響しない。 それが解けると、何かとても素晴らしい世界が顕れてくることを期待できるような、神秘的な光の射す魅惑的なな謎、というわけではないと思う。 ヒトが普通に思っている実感物理学・素朴心理学・常識世界観の上に建てられた、かつての思弁的な哲学や人文学は、実は既に科学によってすっかり足元を崩されてしまっていて、 過去の歴史的遺物として研究する対象という以上の意味は、世界観としてはないように思う。 これこそ探していた究極のものだ、というような賢者の石、錬丹術、聖杯伝説は生まれそうもない。 進化的適応としてのヒトの認知能力との関係について、 ヒトの世界の見方のどこまでが進化というヒトの創造主の支配の範囲内なのかといえば、ニュートン力学の絶対空間・絶対時間あたりまでは、あるいはそうかもしれないとも思う。 しかし、微積分学、非ユークリッド幾何学や相対論の時空、ここまで来ると、生物としての適応という範囲内に収まると、果たして言えるのかどうか。 さらに、クォークや量子論、ビッグバン宇宙論やダークエネルギー、DNAや分子生物学、進化心理学や認知科学、ニューロンや脳神経科学、情報理論や情報工学。 ここまで来ると、ヒトの元々の認知能力が生物進化の賜物ではあるとしても、もはや生物としての進化・適応という範囲内に押し込めておくのには、ちょっと無理があるのではないか。 現在の科学が世界をしっかり正しくとらえているとまでは言えないかもしれないが、少なくともそれに近づいてきているとは言えるのではないか。 ヒトの日常生活の相当部分において、その知覚や認識が、生物としての進化的適応の範囲から大きく出ていないのは確かだとしても、 少なくとも現在の科学的な世界観は、そこにそのまま留まったままではないように思う。 ヒトが進化の過程でこれまで身に付けてきた行動傾向等(狩猟・採集生活時代には適応的であったようなもの)が、 現在の激変した環境世界においても、果たして適応的なのかどうかということも、今では検討されるようになってきている。 例えば、糖分や脂肪分、塩分を摂ることができる貴重な機会を逃さずに貪る必要はなくなっているし、補食動物や毒を持った蛇を常に警戒する必要も既になくなっている。 それでも、しない方がいいことを、分かっちゃいるけど止められなかったり、知らないうちにいつの間にかしていたり、気づいたら陥っていたり。 ヒトは、そのような意識が、創造主によって与えられたイリュージョンであることに、気づくことができる。 ヒトは、真実の追求にウツツをぬかしても、生存・繁殖に差し支えないほどに文化的に進化し、それを活用してこれほど大いに繁栄している。 むしろ、最近の科学技術のまるで魔法のような目覚ましい進展は、科学的世界観の有効性・妥当性を示している、とも言えそうである。 ヒトは、進化という創造主の専制支配に抗うことが、決してできないというわけではない。 自由意志というのは、自然法則を破って奇跡を起こす力のことだろうか。 それとも自由とは、自己と世界というイリュージョンの中で、その欲することを為しうることであろうか。 ただただ心の赴くままフィーリングで行動することが、自由だと考えるとすれば、 それは、遺伝的・文化的進化という創造主に与えられた、造り付けの意識に支配・操縦される操り人形として振る舞うことが、自由だと言ってることに等しい、 自分の意識に巻き込まれないで、少し離れてじっと観察してみると、へぇー、自分の意識ってこんな風にうごめき、過去や未来にさ迷っていていたんだ、ってことに気づくかもしれない。 格言的に言うならば、『心の師とはなれ、心を師とせざれ』とでもいうところか。 また、幻想の積極的機能について、 自己という幻想は、社会生活でなくてはならないほどに機能している。 ヒト以外の生物は、権利も義務もない、モノである。 したがって、首輪で繋いだり、檻に入れて展示したり、実験動物として自由に使ったりしてもよい。 ヒトを監禁すれば罪になり、人体実験は人道に反し、倫理的に許されない。 かつてはヒトの一部も、奴隷として、使用・収益・処分の対象となる、モノであった。 本来のヒトは、モノではない特別な何かである、と思われている。 民法では個人の意思表示が法律行為の基本で、意思能力がなければ、例えば認知症高齢者や未成年者の場合のように、法律行為が無効になったり制限されたりする。 刑法では個人の自己制御が責任能力の前提で、心神喪失状態にあれば免責され、さらに故意の有無が問題になる。 ヒトに自己という実体がなく、豚がそう思われているように、遺伝や環境や自然法則に従っていると考えることにすれば、そのような前提が崩れてしまう。 ヒトのどんなことも、例えば、遺伝子異常の DNA 検査結果を示したり、脳の fMRI 画像を示したりして、それはこのためであると説明するようになったらどうだろう。 脳にできた腫瘍により、扁桃体が圧迫・刺激されて犯罪行為に走っていた者が、 悪性腫瘍を手術で取り除いたら、元の正常な状態に戻ったとした場合、行為の責任を問うべきだろうか。 自然法則に基づく世界観を受け容れると、それまでの常識的な世界観における自由意志の概念は、それをそのまま維持するのが困難になる。 科学的な世界観を受け容れた哲学者等の中には、自然法則と自由意志をなんとか両立させようとしている者もいるようだが、 それらの新たな自由の概念が、はたして充分にうまく機能していると言えるのかどうか。 社会生活を成り立たせ、未成年者や高齢者を保護したり、社会に不都合なものを、排除したり隔離したり教育したりすることは必要かもしれないが、 自己というヒトの人格に対する非難や称賛は、イリュージョンに基づくということになる。 まず道徳というものを社会的に構築し、道徳的に正しくない行為をするヒトを非難に値するものとし、模範的に行為するヒトは称賛に値するものとみなす。 それによって社会の秩序を維持しようとする。 でも例えば、胎児の生まれてくる権利を守るのが道徳的なのか、妊婦の自己決定権を尊重するのが道徳的なのか、一意に倫理・道徳を決めることができるだろうか。 同性愛や死刑制度、安楽死についても、歴史的・文化的に揺れがある。 そうすることが、問題や矛盾を抱えているとしても、ヒトという生物にとって適応的である、とは言えるかもしれないが、 ヒトは、そういうバーチャル・リアリティーの世界に生きている、ということも言えるだろう。 それでは、マネー、会社、株式、巨人軍、家族・親族、仲間、世間、ルール、民族、国家、主権、・・・は、どうか。 そういうものが存在するという前提で、人の社会が機能し、協力関係を築いて発展してきた、という面があるようだ。 Qアノン、大東亜共栄圏、英連邦、・・・などは、幻想っぽい。 ドル、EUヨーロッパ連合、UN国際連合、・・・などは、どうか。 Amazon、ニューヨークシティ、国民国家日本、・・・などは、実在っぽいかもしれない。 クレジット決済やネットバンキングで使われる日本円と、バーチャルな仮想通貨の間に、何か本質的な違いはあるか。 これらをバーチャル・イリュージョンとしてとらえたとしても、それらが何らかの機能を果たしていることは、認めざるを得ないのではないか。 ただ、人の命は地球より重い、とか、地球に優しく、とか、我が巨人軍は永遠に不滅です、とかいうような、ある種ほほえましいとも言えるもの以外に、 神の似姿に造られたヒトが神と新たな契約をしたとする、新約聖書の思想、 キリスト教徒が約200年に渡って聖地奪還のため東欧・中近東に遠征した、十字軍、 帝王の権威は神に基づくという、王権神授説、 白人には野蛮人を文明化する責務があるとする、白人の明白な使命、 ヒトには生まれながらに他の動物等にはない神聖・不可侵の権利があるとする、天賦人権思想、 各国には独立した至上で恒久的な絶対の支配権威があるとする、国家主権思想、 偉大なローマ帝国による平和、パクス・ロマーナ 太陽の没することのない great Britain、大英帝国、 ギロチンを活用した自由・平等・博愛の、フランス革命とナポレオン戦争、 優秀で高貴なアーリア民族が世界的使命を達成する、ドイツ第三帝国、 万世一系の天皇を擁する尊い国体の、神国日本、 Yes We Can はともかく Make America Great Again、 世界に冠たる歴史ある、偉大な大国ロシア、 漢民族のクニは天下の中心であるとする、中華思想、 ・・・などということになると、ちょっとどうなのか。 ヒトの社会は、多くのバーチャル・イリュージョンのうえに成り立っている。 それらは機能を果たしているとしても、イリュージョンであるという認識を、頭の片隅に置いておくのもアリかもしれない。 ヒトが生まれて育っていく世の中での日常生活から自然に身に付いてきて、当然で当たり前だと思ってしまっている、 実感物理学・素朴心理学・常識世界観は、実はイリュージョン・フィクションであり、 それがヒトのデフォルトで造りつけになっているものであっても、それを疑うことが難しくても、生活実践の場で役に立つことがあっても、 それはバーチャル・リアリティーなのかもしれないと、頭の片隅に置いておくのもアリではないか。 堅固な実体として当然にあるものではないので、守りたければそれなりの覚悟や知恵や労力がいるが、 何か特別な本質のある実体とみなし、かたくなに固執したりすると、煩悩として混乱や惑いや苦悩が生じ、悲惨な結果を招くこともありうるだろう。 ついでに、メタバースについて、 これは、universe (宇宙) をmeta (超) で造ろうというつもりのものなのか。 発想としては、サイバー・スペース、VRバーチャル・リアリティ、一時話題になったセカンド・ライフなどというものの二番煎じとでもいうべきもので、特に目新しい革新的な概念だとも思えない。 これが首尾よく技術的・商業的に大いに発展して、臭いや味や触感等も魅力的に再現できるようになって、バーチャルな世界が大いに繁盛したとする。 そこでは、V交流やV恋愛、Vエンターテイメントだけではなく、V企業に登録して好きなときに働くことができ、Vマネーを使って、V商店街で買い物ができ、V不動産投資も、V株式投資もできる。 V科学者がいて人々の願望を次々にかなえ、V心理療法師もV宗教家もいて、VジャーナリストやV哲学者、ネット依存症のV治療医まで、いるかもしれない。 もちろん、エセバースではないので、V飲食店もVトイレもVホテルもあり、V飲食もV排尿・排便もV子造りも、できるようになっている。 ヒトがそこで大いに遊んだ後、ヘッド・マウント・ディスプレイをはずして「現実」の世界に戻ったとき、どういうことが起こるのか。 ここも実はバーチャルな世界なのではないか、ということに気づくことになるかもしれない。 大部分の時間をVRで過ごすようになり、VRのリアリティーの重みが増していって、それ以外の時間はほとんど寝るだけ、ということになったりすると、 メタバースが社会的批判もものともせず、叡知を結集してそこまで懸命に頑張ってくれれば、 さらにおまけの付録として、この世界・この宇宙の遠い未来について、 ・ 太陽系 太陽はやがて燃え尽きて白色矮星になり、太陽系は暗く静かでまるで目立たない、存在感のないものになる。 ・ 銀河系
これだと、意識(自己)ばかりでなくあらゆることが、究極的にはすべてつかのまの、はかない夢幻のようにも。 逆に、これまでの宇宙の歴史について、人中心の視点で年表を作るとすれば、
地球ができた当時の地表は高熱のどろどろに溶けた状態であり、 大きな惑星の衝突(ジャイアント・インパクト)により吹き飛ばされたカケラとガスから衛星である月ができ、 石炭期には今よりずっと酸素濃度が高くて10倍の大きさのトンボが飛んでいて、 大地は最後の超大陸パンゲアから現在の大陸配置になり、 隕石の衝突による恐竜の大量絶滅等もあり、 地球全体が氷床や海氷に覆われたスノーボールアースのこともあり、 現在は最終氷期が終了した間氷期・後氷期と考えられており、 中世には温暖期と小氷期と呼ばれる数世紀にもわたる寒冷期があった、 ・・・ということである。 長い目で見れば、ヒトの都合のいいように気候や環境が安定している、と期待するのはムシが良すぎで、むしろヒトの基準からすれば激変する異常気象、というのが地球の通常の姿なのかもしれない。 ヒトが地球に優しくしてもらいたいと思うことはあっても、少なくとも、ヒトに優しくしてもらいたいと地球が思ってる、なんてことはないだろうな。 アフリカでチンパンジーとの共通祖先から別れた後、人類には20種とも言われる多数の種が生まれたが、現生人類以外の種はすべて絶滅してきたという。 互いに交雑できないというのが種の定義だとすると、ホモサピエンスと交雑した証拠があるというネアンデルタール人やデニソワ人が、別種なのか亜種なのかという疑問は残るが、それは些細なハナシ。 多くの大型動物等と同じように、いくつかの種はヒトが絶滅させた、という見方もあるようだ。 生物全体を眺めてみても、これまでに実に膨大な種が絶滅してきており、現在ではヒトのせいで大量絶滅が起きていると言われている。 駆除されたり絶滅させられたりする生物にとってみれば、ヒトの急激で地球全体を覆うような異常な繁殖は、大災害というしかないだろう。 植民者・開拓者によって征服され、崩壊されたり絶滅されたりした、南北アメリカ先住民のように。 品種改良されて、家畜やペット、飼育・栽培食物としてしか生きられなくなった種にとっては、どんなものだろうか。 ヒトも自己家畜化してきた、という見方もあるようだが。 もしもヒトが今でもアフリカで狩猟・採集生活をしていたら、地球や他の生物にとってはもっと平和で自然だったんじゃないか、とも言えるかもしれない。 ホモサピエンスが生物進化の最終段階、というわけではない。 ローマが亡んでもヒトの歴史は続き、ヒトが亡んでも宇宙の進化の歴史は続く。 SDGs 持続可能な開発目標ということが最近になって言われて、なんかやってる感がでてきているが、そんなことで果たしてなんとかなるような、ものなのかどうか。 特に日本については、現在の異状な財政状況が持続可能と、ホンキで考えているヒトがいるのだとすれば、その思考がどうなっているのか、フシギ。 現在生きているヒトは、当面の短期的な損得勘定のことで手一杯で、そんな先のことまで心配するまでもないのかもしれないが、 このまま貪欲に利潤追求や株価上昇を目指し、ビジネスチャンスをめざとくつかもうとし、経済成長を加速して追い求め続けていくのだとすると、 喧伝されている、iPhone や SNS、メタバース、SDGs 、・・・も、表向きの建前とは、見える景色が違ってきて、 このままではいずれ手遅れになる、あるいは既に手遅れになっている、という見方があっても、それほどおかしくはないかもしれない。 ヒトが滅んだ場合、地球や他の生物が悲しむというイリュージョンと、喜ぶというイリュージョンのどちらに、よりリアリティーがあるだろう。 原発事故でヒトがいなくなった地域では、野性動物が繁殖して、大いに自由を謳歌していたようにも見える。 歴史的にみて、ヒトは相当に愚かなこともやってきたように見えなくもないが、それに学んで賢くなってきたのだろうか。 一方で、ヒトは豊かに平和に暮らせるよう進歩してきたんだという評価もあり、そういう面が確かにあるとも思うが、 ヒトは、自称しているような、万物の霊長、英知に優れた賢い人(ホモサピエンス)なのかどうか。 ヒトは、この社会全体、さらにはこの地球全体をうまく管理できるような、そんな高度な知性を持っているのか。 あるいは、これがもっとも壮大な、ヒトのポジティブ・イリュージョンなのか。 そしていずれは、思ってもいなかった事態にようやく気づき、危機を迎えて絶望することになるのか。 ヒトには、様々に想定されている輝かしい未来が待っているのか、それとも、それはイリュージョンに過ぎないのか。 世の中的には表面的には楽観論が通例の落ちになっているようだが、それにはどんな根拠があるのだろうか。 また、以上のような自己中の視点を離れて、改めて宇宙全体という視点で眺めてみれば、
・ 万葉集 ・ 平家物語 ・ 西行法師 ・ 方丈記 ・ 奥の細道
なお、 このblogは、科学的な世界観に関する、個人的な読書・思索ノートのつもりです。 十数年間、まったく更新せずに休眠していました。 一旦はここらで終了・削除しようかと思い、記事を非公開にしたりもしました。 ちなみに元になったウェブサイト等は、既に抹消・消滅しています。 今般、時間ををかけて、現時点での総まとめのようなつもりで、その後の読書目録も含め、記事を書いてみました。 こうして文章化して改めて眺めてみると、ただこれだけのことなんだな、というような感想です。 これは、blogを再開したということではなくて、今後も多少の加筆・補完等をすることはあっても、特に何の事情も生じなければ、また休眠状態に戻るつもりでおります。 (・・・という、これはひとつの自己の物語りです。) #
by nbsakurai
| 2022-10-13 00:00
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