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2005年 06月 24日
『 喪失と獲得 』 ― 進化心理学から見た心と体
ニコラス ハンフリー 垂水 雄ニ 紀伊国屋書店 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4314009683/qid=1119612332/sr=8-1/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/249-2961303-5568303 P42 ふたつの極端な考え方が可能で、これまで、それが受け入れられてきた。ふつうの庶民に自己とは何かを尋ねてみれば、ろくに考えずに返ってくるのはおそらく、個人の自己というものが実際に、ある種の実在物だという答えだろう。すなわち、彼の頭のなかに生きている幽霊のような監督者、彼の思考を担っている者、彼の記憶の収納庫、彼の価値観の持ち主、意識をもつ内なる「私」といったところだ。今なら、きっと「魂(ソウル)」などという単語を使ったりはしないだろうが、心の中にもっているとされる魂という古くからの考えに非常によく似ているだろう。自己(あるいは魂)は、肉体に実行させる力と、永続的な独自の特性をもつ実在の実体なのだ。自己についてのこの現実主義的イメージを、「本来の自己(proper-self)」の観念と呼ぶことにしよう。 けれども、一部の精神分析家や心の哲学者たちのあいだで人気が高まっている修正主義的な自己のイメージは、これとは対極にある。この見方によれば、自己はそもそもモノなどではなく、説明のためのフィクションだというのである。誰もその内部に魂に類似した主体(エージェンシー)など実際にはもっていない。私たちは、彼らの行動(そして、自分自身の場合には、自らの個人的な意識の流れ)を説明しようと試みるときに、この意識をもつ内なる「私」の存在を想像するのが実用的であることを知っているだけなのだ。実際には、自己はどちらかといえば、一連の伝記的出来事や傾向の「物語的重心」に似たものと言っていいかもしれない。ただし、物理的な重心と同じように、実際にそういうモノ(質量や形や色をもった)は存在しない。自己についてのこの非現実主義的イメージを、「仮想の自己(fictive-self)」の観念と呼ぶことにしよう。 (中略) P44 一見したところ、これは筋の通った意見には思えない。頭の中にあるものが何であれ観察するのは難しいとしても、「幽霊のような監督者」について語るのが間違いであるかもしれないとしても、にもかかわらず、そこには確かにある種の監督者がいなければならないはずだ。監督する脳のプログラム、中枢管理者(コントロ-ラー)、あるいはその他なんでもいいのだが、そうでなければ、誰であれ、合目的的で、比較的よく統合された主体(エージェント)として、いったいどうして機能しうるのか――ほとんどの人間は明らかに機能しているではないか。 生物学および人工知能研究の両方から提示されつつあるその答えは、多数のサブシステムがそれぞれのなすべきことをするだけで、中枢的な監督者などいなくとも、複雑なシステムは完全に「合目的的で統合された」ものに見える仕方で実際に機能するというものである。中枢的な管理者をもっているように見える(そして、それをもっているとして記述するのが有効な)この世のほとんどのシステムが、実はもっていないのだ。シロアリのコロニーの振る舞いは、そのことについての驚くべき実例を提供してくれる。コロニーの全体は精巧なシロアリ塚を築き、自分たちのなわばりを知り、食物探しの遠征を組織し、他のコロニーに対して襲撃部隊を送り出し、等々のことをする。集団の団結と協調はきわめて目覚しいものがあり、頭の固い観察者たちに、コロニーの「群れの魂」の存在を仮定させることになってきた(マレーの『シロアリの魂』を参照)。しかし、実際には、こうした群れとしての智恵は、いくつかの異なるカストに分化した無数のシロアリの一匹一匹が、それぞれの個体としての仕事をすること――お互いに影響を及ぼし合うが、いかなるマスタープランからの影響もまったく受けない――の結果として、生じるものにほかならない。 (中略) P46 このアナロジーの主旨は明快である。要するに、人類もまた、内なる名目上の元首が必要なのではないか――とりわけ、人間の社会生活の複雑さを考えれば――ということだ。たとえば、ダニエル・デネットという生きた身体を考えてもらいたい。もし、私たちがデネットその人に付与している様々な精神的特質のすべてをもつ元首モジュールを彼の脳の内部に探し回らなければならないということになれば、私たちはがっかりするだろう。それにもかかわらず、社会的な次元でデネットと交渉をもたなければならないときには、すぐに、私たちも彼とともに、誰か――誰か名目上の元首――を彼の代弁者、そして実際のリーダーとして認めることが不可欠であると気づくだろう。かくして一巡りして、少し弱まった形ではあるが、本来の自己という観念に戻ってきてしまう。これは、幽霊のような監督者ではなく、彼自身および世界に対してその人間を代表することにおいて、限られたものとはいえ、真の因果的(=行動や態度を生み出す)役割をもつ「心の元首」に、より近いものであろう。 (中略) P48 かくして、人間は単一人格あるいは多重人格として人生を始めるわけではない。人間は心の元首などまったくもたずに出発するわけである。正常な発達過程を通じて、ゆっくりと「意味をなす」さまざまな自己の可能性について、一部は自分自身の観察を通じて、また一部は外部からの影響を通じて、知るようになっていくのである。たいていの場合、多数派を占める一つの見方が現れ、「ほんとうの自己」という一つの候補(ヴァージョン)に強力に肩入れし、選出された心の元首として腰を据えるのは、この候補なのである。 (4章 自己について語る――多重人格障害の評価 ダニエル・デネットとの共著)
by nbsakurai
| 2005-06-24 21:36
| エリア6 (生物学的発想)
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