記述の便宜として、【 世界(客観・客体)=Ⅹ 】、【 私(主観・主体)=Y 】とします。
1 物は、客観です。科学の法則に従います。唯物論的に考えます。法則の世界です。Ⅹです。
2 心は、ある意味では物理・化学現象です。すなわち、脳の中の電気化学的現象が、そのまま心です。しかしこれは、他人の心を外部から見た場合です。自分が今まさに内的に感じていることを、外部から見るように、客観的にみることはできません。外部に表象される、姿かたち、表情、その他から、推測することはできても、その内的な実体それ自体を、外から直接知ることはできません。それは、原理的に、客観的には知りえません。自分の心の中そのものは、客観的、科学的に測定、観察、実験をすることができません。すなわち、これは、客体・客観ではなく、主観・主体です。これが、Ⅹではない、Yです。
3 生は、生命現象です。これも、法則に従います。核酸やたんぱく質が関係しますが、それは、化学で説明します。これは物理・化学現象です。生物は食物を獲得しようとし、生きようとし、異性を求め、子孫を残そうとします。そのことは、進化で説明します。そのような性質が他との比較で劣るものは、進化の過程で生き残れず、あるいは子孫を残せず、絶滅してきました。その結果、自然淘汰を現在までサバイバルしてきた生物の種は、自然科学の原理によって、生きようとし(生命現象と呼ばれる物理化学現象を維持しようとし)、かつ、子孫を残そうとします。そのように創られています。種としてそのようでないものは、既に淘汰されました。したがって、生物が生きようとするのは、科学的な原理によってです。生への意志は、進化により、いわば生物の種に強制されたものです。生は科学の法則に従います。唯物論的に考えます。法則の世界です。生物はⅩであり、それが生きようとするのも、Ⅹです。生はⅩです。
生と、死は、物理化学現象です。客観現象です。これはⅩでの出来事です。生と死を、物理化学現象と区別して、特に大事にする理由はありません。もしありうるとすれば、それは、生がYの基礎条件である、という意味においてです。
人間は、生物としてはⅩです。人間の身体はⅩです。人間の脳もⅩです。脳内の電気化学的現象もⅩです。自分のこれらのⅩを、外部から客観的に観測することは、原理的には可能です。自分の体は、Yではなくて、Ⅹです。しかし、自分の主観それ自体を、客観的に測定したり、数量化したり、観測したりすることは、原理的にできません。これが、Yです。
他人は、基本的にⅩです。他人の姿かたち、動作、表情、脳内の現象、これらはⅩです。しかし、他人の心の中の実体を、外から知ることはできません。他人の主観は、私の主観Yではありません。したがって、仮に他人にYがあるとしても、そのYを、自分の主観として、自分のYとして感じることはできません。他人のYを、あたかも自分のYのように感じることはできます。しかし、感じるということは、自分のYの内容であって、相手のYとは違います。他人のYは、仮説です。原理的に証明することができない仮説です。永久に確認することができない仮説です。
だからこそ、他人のYを思いやる心が大切なのです。他人のYを思いやれることがすばらしいのです。・・・と、私のYは言います。