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2004年 09月 22日
『ロボットの心―7つの哲学物語』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061495828/ref=sr_aps_b_/250-5507976-2103426 この↑本の書評です。私が何か述べるよりも、こっち↓の方がずっと出来がいいと思われるので、・・・ 中原紀生氏 ORION 不連続な読書日記(2001.12) ☆柴田正良『ロボットの心──7つの哲学物語』(講談社現代新書:2001.12) http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/dokusyo/29.html ―― から全文をそのまま引用します。(読みやすいように適宜、改行をした以外は、原文のままです。) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 下倏信輔『〈意識〉とは何だろうか』(1999)、信原幸弘『考える脳・考えない脳』(2000)に続いて、現代新書版「心脳問題」叢書(?)に魅力的な新顔が加わった。これからも年に一度、知的スリルを味わわせてほしい。 ──本書の戦略と構成はとてもシンプルで分かりやすい。ベースにあるのは記号論一般に関するモリスの三分類(64頁)、すなわち統語論(シンタックス)と意味論(セマンティックス)と語用論(プラグマテックス)である。本書の戦略を乱暴に整理してしまうと、統語論vs.意味論(なめらかな会話vs.主観的意未体験)という図式では心脳問題は解けない、そこに文脈を、つまり身体と環境世界(「思考するには身体が必要だ」し「意味は環境世界にあるのだ」)を持ち込み語用論に訴えなければならない、というものだ。 この基本戦略に基づいて本書の構成を大雑把に要約するならば、チューリング・テストをめぐる話題(第1章・第2章)で統語論を、サールの「中国語の部屋」の思考実験(第3章)で意味論を、そしてフレーム問題の状況認知面と行動判断面の分析(第4章)を通じて語用論を導入し、さらに状況認知面に関してコネクショニズム(第5章)を、行動判断面に関して「野生の考慮」としての感情とクオリアの機能(第6章)をそれぞれ論じるという具合だ。(私はこの感情とクオリアの機能を論じる第6章が本書のハイライトだと思う。 著者が一番書きたかったのも「感情の人工的実現に関する哲学的問題」だったのではないか。そういえば、かのパースも『連続性の哲学』第一章で「魂の実質的部分をなしているのは本能であり感情である」「理性はその最後の助けを感情に求める」云々と「わたしの哲学的な感情主義」について語っていた。さらにいえば、藤原新也氏の『全東洋街道』に出てきた「人間は肉でしょ、気持ちいっぱいあるでしょ」という、たしかトルコの娼婦の言葉を思い出す。)このように乱暴かつ大雑把に整理要約したところで、周到に叙述された各章の緊密な関連性は見えてこない。ましてや、こうして第1章から第6章へと至る螺旋階段が一周し、さらにエピソードで次なる螺旋階段が素描され、さらにさらにプロローグでより高次の螺旋階段が予告されるといった、著者が手塩にかけて練り上げたに違いない大仕掛けはとても味わえない。ぜひ実地に見聞されたい。──著者の基本的立場も明確で分かりやすい。 一人称の世界、つまり「内側から」しか経験できない主観的意識体験(神のみぞしる「超事実」)を原理的にわれわれの手に届かないものとする「素朴な物理主義」、そして意識や心の多重実現の可能性を認める「柔らかな行動主義」の立場に立って、三人称の世界(「見なし事実」の世界)を「きっぱりと認める」(213頁)こと。したがってロボットが心をもつこと、正確に言えば、ロボットの心を「工学的に」作り出すことは原理的に可能であると認めること。《しかし、もちろん、こうして作られた掛け値なしの心的性質が当のシステムによって〈内側から〉どう体験されているのかは、われわれには知り得ない〈超事実〉である。われわれが知りうるのは、まずは、自分たちが工学的手段によって、われわれにとっての意識や感情やクオリアの機能を果たす〈心的な何か〉を実現したということだけである。しかし、われわれは次にこの〈超事実〉を〈素朴な物理主義〉に許された〈見なし事実〉という形でやすやすと(?)乗り越える。それは、新たなタイプの存在者に対するわれわれの抗いがたい傾向、つまり「柔らかな行動主義」の命ずるままに、意識や感情やクオリアがあるように見える存在者とは、まさに意識や感情やクオリアをもつ存在者なのだ、と〈見なす〉ことにほかならない。》(215頁) ──こうして「一人称複数」の世界(われわれの社会=共同体?)へのイニシエーション・テスト(感情やクオリアへと拡張されたチューリング・テスト)をパスしたロボットは、「自然環境のなかで生きのびる知性」から「社会と文化の環境のなかで生きる人格」(238頁)へとその存在様態が更新される。著者は最終章で「善悪のクオリア」(感覚、感情に次ぐ第三のクオリア=幻覚のクオリア?)の可能性を論じつつ、ロボットを組み込んだわれわれの社会の倫理と自由の問題(真正のフレーム問題?)をめぐるカント的議論を展開しているのだが、これは本書のハイライトに添えられた後日談であり、おそらくは「ロボットの心」とは別の問題である。 《最後にここで、われわれにとって大変気になることを一つ述べておきたい。それは、〈善悪〉のクオリアがこのように高階の認知状態から生じている[引用者註:著者は、善悪のクオリアが感情機能の調整を行う第三階のクオリアではないかと示唆している]とすれば、それと結びつく善悪判断の〈内容〉は、客観的である必要はないどころか、ますます主観的、もしくは恣意的でありうる、という点である。(中略)もっとも、もう一歩踏み込んで私の予想を言わせてもらえれば、恐らく妥当な道徳的原理というものがたった一つは存在しており、それは、自由裁量相互の調整に関する参加原理、つまり、「他人の自由裁量を最大限尊重せよ」というような形式的な原理になるだろうと思われる。》(240-241頁)──本書を読み終えて、スピノザの『エチカ』をなぜか懐かしく思い出した。(なぜだろう?) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 私はまだ読んでいないのですが、・・・ ”一人称の世界、つまり「内側から」しか経験できない主観的意識体験” ―― Yとしての心 ”意識や心の多重実現の可能性を認める「柔らかな行動主義」の立場に立って、三人称の世界(「見なし事実」の世界)を「きっぱりと認める」” ―― Xとしての心 ”ロボットが心をもつこと、正確に言えば、ロボットの心を「工学的に」作り出すことは原理的に可能であると認めること。” ―― Xとしての心は作り出せるのではないか ”こうして作られた掛け値なしの心的性質が当のシステムによって〈内側から〉どう体験されているのかは、われわれには知り得ない” ―― 造り出されたXとしての心は、Yではない ・・・っていうような気が私はしているのです。
by nbsakurai
| 2004-09-22 09:51
| エリア3 (ロボットの心)
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