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2004年 09月 22日
記述の便宜として、【 世界(客観・客体)=Ⅹ 】、【 私(主観・主体)=Y 】とします。
人間には、二つの目があります。 左の目は、客観的な観察者の目です。(Ⅹ) 右の目は、対象に主体的に関わる目です。(Y) 人間にはどちらの目も必要ですし、二つの目は有機的に絡み合い、相互に補完し合います。ただし、この二つは原理的にまったく違った機能を担っており、混同すると混乱する恐れがあります。 左の目で見るときに、右の目で見た思いや感情移入をしすぎると、誤る可能性があると思います。逆に、右の目で見たものを、左の目で見たかのように客観的なものだと思うことは、単に誤る可能性があるだけではなく、危険な場合もあると思います。自分や自分の属する共同体の見方のみが正しく、間違いや悪はすべて外部にある、というような発想は、左の目で見ることを忘れたところから出てくるのではないかと思います。 人間は、二つの立場にいます。 客観的な観察者として、観客席にいます。(Ⅹ) 主体的な行動者として、人生の舞台にいます。(Y) 人間にはどちらの立場も必要ですし、二つの立場は有機的に絡み合い、相互に補完し合います。ただし、この二つは原理的にまったく違った立場であり、混同すると混乱する恐れがあります。 人間は観客席にだけ居ることはできませんし、それだけでは、おそらくつまらないでしょう。逆に、舞台にだけずっと居続ければ、ついには自分を見失って、舞い上がってしまうかもしれません。周りや自分を客観的に見る目がまったく必要ない、とは思えません。 私が『科学的世界観』において述べているのは、観客席から、左の目で見た世界です。そこでは私は、できる限り観客席に留まろうとし、極力、左の目だけで見ようとしています。自分の人生の舞台から、右の目で見た世界を、ここで述べようとは考えておりません。むしろ極力、排除しようとしております。それらを含めてしまえば、主観的な世界観、個人的な世界観にはなっても、科学的な世界観ではなくなってしまうでしょう。 右の目で科学を見た場合、人生の舞台における科学の位置づけとしては、次のようなことがありうると思います。(1)科学的に世界を理解したり、新しい発見をすることは、楽しいことです。胸躍るロマンがありえます。(2)科学的知識を利用して、世に役立つこと、人類や社会のためになることをするのは大切なことです。技術としての科学です。(3)しかし、科学的知識や見方自体に人生の楽しさや幸せはありません。それらは科学では扱えません。―― 私のここでの立場は、(1)です。(2)や(3)の要素は含まれておりません。 ここで述べたことは、人生の舞台において、何か大切なものを得たり、人生を豊かにしたりすることには、直接的にはつながらないと思います。(間違った、あるいは見当はずれな判断を犯す危険を、多少は少なくする効果はあるかもしれませんが。)この中に、そこから先に進もうとする推進力はないでしょうし、それは、ここでは期待されておりません。何のための世界観か、もっと大切なことがあるのではないかという批判は、もっともです。それは、ここには人生の舞台における右の目がないという、正しい指摘です。これが「序章」だとすると、「本文」は書かれておりません。人生の舞台における、指針や生き方や当為は、書かれてはおりません。 この『科学的世界観』が、人に勇気を与えることはないかもしれません。しかし一方で、奪うこともないと思います。この世界観と生きる勇気との間に、直接的な関係はありません。「述べられていない」ということと、「ない」ということとは違います。したがって、必ずしもニヒリズムにつながるものではありません。ニヒリズムは、人生観という右の目で見た世界での話です。ただ、人が独断や偏見や、思い違いや思い込みによって、情熱的・行動的になり、結果として何かを成し遂げる、ということはありうると思います。(望む結果にならないことも多いのでしょうが。)『科学的世界観』を受け容れることによって、そういう可能性は減少するかもしれません。寒い、味気ない、舐めると鉄の味がする、という印象や感想は、ここに、人生の舞台における右の目を要求しようとするから、そう感じるのではないかと思います。 世界観は、生きる指針を示すものでなくてはならず、環境や資源、教育や人権、平和と民主主義、人類の幸福・・・の課題に応えなくてはならない ―― 『世界観』にこれらのことを求めるのは、あるいは当然なのかもしれません。そうだとすると、私の『科学的世界観』は、世界観としては半分でしかありません。私は、特にどうということのない人生を送ってきた、ありふれた人間です。特異な体験をしたとか、何か社会的に有意義なことを成し遂げたとか、科学的な大発見をしたとかいうようなことは、何もありません。世界観の残りの半分、自分の人生の舞台で右の目で見た世界観を、何か語るべきものとして、私は特に持ってはおりません。 右の目で見た世界は実に様々のようです。その中には、科学的・客観的には誤った前提に立ったものもあれば、注目すべきものも大いにあることでしょう。しかし、私がここで試みているのは、そういうものではありません。私の思い、自我、個性、価値、自己表現・・・は、できる限り排除しようとしました。私はここで、科学や世界を、観客席から、左の目で、客観的・論理的にのみ見ようとしております。私と同じ姿勢や発想で見る限り、誰がやっても同じ結果になるもの、を目指しております。そして、それが、人生の舞台で世界を右の目で見るときの基盤や基礎になるのはないか、と考えています。そこから先は、主体的な世界観、個性的な世界観であって、各人の選択です。誰がやっても同じになる、というようなものではないと思います。『科学的世界観』の出る幕ではありません。人の(熱い)思いは、科学では扱えません。 ただ、個人的に私は、物事を判断したり決断したりする場合には、その前に、客観的な事実を確認し、事実関係を論理的に整理して積み上げてみることが大切だとは考えています。(事実は必ず確認できるとか、確認できなければ判断しないと考えているわけではありませんが。)『科学的世界観』の中では、必ずしも具体的に明確には述べておりませんが、そういう態度は自ずからにじみ出ていると思います。このような態度は、観客席から左の目で見ただけのものではなく、自分の人生の舞台での右の目の一要素、と言えると思います。世の中には、何が目指すべき価値か、人はどうすべきか、という感性がまず大切なことで、事実関係の細部や論理はどうでもいい、というふうに考えておられる方もいるようです。そういう立場を、私はとりません。
by nbsakurai
| 2004-09-22 10:22
| エリア4 (問題の所在)
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