記述の便宜として、【 世界(客観・客体)=Ⅹ 】、【 私(主観・主体)=Y 】とします。
何をすべきで何をすべきでないかは、科学の問題ではなく、人間の問題、社会の問題です。それは、客観的・科学的に答えを出すべき問題ではないし、出せる問題でもないと思います。地球温暖化とCO2の関係を科学的・客観的に論ずることはできても、人類社会がそれにどう対応すべきかを客観的・科学的に論ずることはできません。後者には、その人のおかれた立場、利害関係、主観的な価値判断、・・・の、Yの要素が大きく作用します。仮に単純化して(単純化できるという意味ではありませんが)、問題が、「地球温暖化を我慢して車を使い続ける」と「車を我慢して温暖化を防止する」の二者択一だとします。これを客観的・科学的に判断・選択することははできません。これらについて何かを主張し、それを客観的だと思っている人がいるとすれば、勘違いをされているのだと思います。自分の主観的なYを、科学的・客観的な事実だと言い張る人は、確かにいるようです。しかし、(客観的な)科学それ自体は、それほどのものではありません。この意味で、科学を恐れる必要はありません。
目的、目標、あるべき姿、希望、価値判断、善悪、好悪・・・等は、Y=自分(主観・主体)の問題であって、Ⅹ=世界(客観)の問題ではありません。世界や社会に対する人間の主体的な態度というようなものは、本質的に客観的なものではなく、それ自体は科学の対象とはなりえません。社会の本来あるべき姿、人類社会の目標のようなものを打ち立て、それに向かって邁進する、それに反するものを批判する、というような態度は、本質的に客観的なものでも、科学的なものでもないと思います。(決して大事ではないという意味ではありません。)社会問題の解決を、(自然)科学だけでやろうとしても、それは無理です。科学のできることは、判断の基礎として、それまでに分かっている事実関係を示すことだけ(まで)です。そして、やるべきことが決まった場合、それをやる手段・方法を提供することです。科学では、価値の判断や、当為の判断はできません。科学はⅩにとどまり、Yに立ち入ることはできません。
嫌い、嬉しくなる、連帯を求める、良いなあと思う、生き甲斐、満足、安心する、進歩する、食えるかどうかを問題にする、もっと車に乗りたい、嫁さんを愛する、努力する、未来を思う、生活のためにあくせくしている人を見下げる、軽蔑する、人間は様々だとぼやく、しぶしぶと認める、エネルギー問題に答える、見解がぶつかる、邪悪と言う、・・・・これらは、Ⅹの客観現象でも、(自然)科学的に解明すべきものでも、(少なくとも現在のところ)ありません。これは、Yです。