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2004年 09月 22日
ここでは、「物理的実在」(Ⅹ)と「意識・主観」(Y)のほかに、「人間が認識した理論の体系としての物理的実在」(Ⅹ’)を付け加えて考えてみたいと思います。つまり、議論の仮定として、次のような図式で考えてみます。(記号を使うのは記述の便宜のためです。)
――――― ――――― ---------- |意識・主観| ―(1)→ |理論の体系| ---- ¦物理的実在¦ | Y | ←(2)― | X’ | ---- ¦ X ¦ ――――― ――――― ---------- ・ 「物理的実在」(X) ・・・ 本当の世界、真実の世界の実在。 ・ 「意識・主観」 (Y) ・・・ それを認識する主体。 ・ 「物理的実在」(X’) ・・・ Yが認識した理論の体系としての物理的実在。 まず初めに、「Xという実在ありき」とします。Xがそれ自体で、確かに真に実在する、というような根拠があると考えているわけではありませんが、その存在ををまず仮定として置く、ということです。次に、「Yという実在ありき」、とします。Yが真に実在する、というような確かな根拠があると考えているわけではありませんが、Yはない、としてしまえば、一切何も認識したり発言したりすることができなくなるとも思われますので、すべての経験や認識や意見や発言の前提として、Yはあると無条件に前提することにします。 ・ Yが物理的実在Xを経験し、観察し、実験し、認識している姿が、「―(1)→」で表現されています。矢印の向きが、YがXを認識している姿を表しています。 ・ Yが物理的実在Xを基礎とし、それに従い、それによって成り立っている姿が、「←(2)―」で表現されています。YがXによって成り立ってると理解されていることを示しています。 ・ X’とXの間の矢印が、「X’----X」と点線になっているのは、この間の関係が分かっていない、ということを表しています。Yは、世界について素晴らしい理論を造ってきましたが、その科学の理論X’は、Yが認識したものとしての物理的実在、人間が構築した理論の体系、世界を説明するためのモデルであり、それがそのままXであるかどうかは分からない、ということです。 以上のように、Ⅹ’というものを想定してみると、人間の考えている「物理的実在」は、Ⅹではなく、Ⅹ’であることに気づきます。Ⅹ’は人間が構築した理論であり、Ⅹ’はYの認識としてあるわけです。ⅩをⅩ’として認識しているのはYです。ある人間(例えばnbsakurai)は、Ⅹについての理論なり認識なりを、ひとつひとつ自分で理論付け、検証し、確認してきたわけではありません。他の人(科学者)がこうだと言っているⅩ’を、見たり聞いたり読んだりして、それを受け容れているわけです。つまり、(ある)Yが受け容れたものがⅩ’だ、とも言えることになります。Yの中に、Yの認識として、Ⅹ’が生じることになります。 X’はこれまでに人間が構築してきた理論の体系なのであり、それがXそのものを正しく認識しているという保証はありません。このX’は、各時代、各文化、各個人によって様々な内容のものです。ある時には正しいと思われていたことが、後になると間違いとされることも少なくありません。現在では、基本的な部分は大方の同意が得られているとしても、細部では、基本的考え方についてさえ専門家の間でも意見が分かれているものと思われます。日々の研究によって新たな概念や理論が取り入れられ、X’の世界は変化していきます。極端なことを言えば、X’は歴史上の人の数だけあり、時間と共に変化してゆくものだと思います。X’は、客観世界に存在するのではなく、人間の意識・主観Yの中に存在するものです。 (X’ではない)Xが、本当に実在しているかどうかは分かりません。物理的実在(X)は、実在するかもしれませんが、あるいは実在しないかもしれません。Xが世界に実在しているのかどうかということは、確かめようがありません。科学は、世界の究極理論を構築しようとし、少しでもXに近づいて行こうとしていますが、Xが実在するというのは、研究に際しての方法論的な前提というようなものであり、それ以上の根拠があるものではありません。Ⅹが世界に実在するというのは、人の信念ないしは思い込みであり、そこに確かな根拠があるわけではない、と私は思っています。 Ⅹ’は人間が構築した理論であり、ⅩはYの認識としてあるわけです。ⅩをⅩ’として認識しているのはYです。以上のようなX’の性格から考えて、現在のX’がXとすっかり一致している、とはとても思えません。何かが実在し、それを科学が発見できるということは、科学で言えることではないと思います。今後、科学が研究を重ねていった結果、将来、万物の理論、世界の究極理論が発見され、X’がXと一致する日は来るのでしょうか? その日が来た時には、どのようにして、X’がXと一致したと、確認できるのでしょうか? そのような確認の方法があるようにははとても思えないし、したがって、一致したと確認することは遂にできないのではないか、私にはそう思われます。Ⅹ’は、人間が造った、世界を理解し説明するためのモデルであり、それが客観世界を正しく反映し、Ⅹを真に正しく把握している、と言うことができるものではないと思います。 「物理的実在」というのは、人間がそうだと思っているものX’で、それが=「物理的実在」Xだとは言えません。(もしかすると、幻影や仮想現実なのかもしれないわけです。) 科学は、Xが実在するという方法論的前提で研究し、Xにできるだけ近づこうとしているわけですが、Xが「実在する」という確かな根拠がもともとあるわけではなく、もし、Xが実在しないとすれば、現在のX’はXを近似的に反映している、と言うこともできないと思います。(実在しないものの近似ということはありえません。) どこまで行っても、これでX’がXと一致したと確認することはできないものと考えられ、したがって、そもそも、Xが「実在する」かどうかということは、最後まで科学では分からないのではないか、と思います。
by nbsakurai
| 2004-09-22 10:27
| エリア4 (問題の所在)
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