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2004年 09月 22日
『ユーザーイリュージョン―意識という幻想』
トール ノーレットランダーシュ (著) 柴田 裕之 (翻訳) 紀伊国屋書店 この本は決してムズカシイー本ではないのですが、500頁を超える厚さがあり、読んでからしばらく経っていることもあって、付箋はいっぱいついているのですが、うまく要点をまとめて、要領よく紹介することが私にはできません。ってコトで、アマゾンのお世話になって、手抜きをしましょう。ツイデに、紀伊國屋書店。さらに次のBK1。 どうも、コレによると、 ・ 意識が関与しないところで、ほとんどすべての「現実」が起きている。 ・ 意識はその「現実」にたいへん多くを依存している。 ・ 意識はよく怠けたり、サボったりしている。 ・ 意識は、最大でも数十ビット/秒の低速・低容量システムである。 ・ 意識は「現実」のごく僅かな部分のシミュレーションをしている。 ・ 意識は「現実」のたいへん粗雑なシミュレーションをしている。 ・ 意識がしているシミュレーションは、あんまり「現実」と似ていない。 ・ 意識はほとんど「現実」を知らない。 ・ 意識はほとんど「現実」に関与できない。 ッテコトのヨウなのです、ドウモ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 同著 第三部 意識 第十一章 ユーザーイリュージョン ユーザーイリュージョンとしての意識 P354から (抜粋) ユーザーイリュージョンという概念は、著名なコンピュータ科学者アラン・ケイが書いた論文に登場した。 今、私はこの文章を、アップル社のマックで書いている。画面には言葉が並び、余白にはシンボルがいくつか表示されている。そのシンボルを使えば、ページをスクロールさせることができる。だがユーザーには、今この瞬間にタイプしている単語がどうやってコンピュータに保存されているのか、正確なところはまったくわからない。それでも、必要なときに言葉が画面に表示されるかぎり、そんなことはお構いなしだ。 もちろん、大勢の技術者やソフトウェア・プログラマー、設計者が、この単語を保存するために、巧妙な仕掛けをコンピュータにたっぷり組み込んだのだが、ユーザーにしてみれば、そんなことなどどうでもいい。コンピュータがきちんと動作してくれさえすればいいのだ。 つまりユーザイイリュージョンとは、ユーザーが描くコンピュータのイメージだ。このイメージは、筋の通った妥当なものでありさえすれば、正確かどうか、あるいは完璧かどうかは、実のところ問題ではないことに、ケイと同僚たちは気づいた。たとえ不完全で比喩的であっても、コンピュータがどう作動するかというイメージがあるほうが、まったくないよりはましだ。 したがって、大切なのは、コンピュータがどう作動するかをユーザーに説明することではなく、首尾一貫した適切な作り話をでっち上げることだ。それも、コンピュータではなくユーザーの立場に立って。現在この単語を記録しているコンピュータは、ユーザーである私に対して、デスクトップのフォルダに整理された一連のテキストを表示している。私は、出来の悪い章をドラッグして右下のごみ箱に放り込む。一つの章が長すぎるかどうか知りたいときは、机の引き出しのアイコンから電卓を取り出して使うことができる。 しかし、コンピュータ内にはフォルダもごみ箱も電卓もない。大量の0と1が並んでいるだけだ。その量たるやとても書き表せるものではない。コンピュータには何千万という0と1が入る。だが、ユーザーはそんなことはまったく気にかけない。ユーザーにとって必要なのは、原稿が仕上がったとき、それをコンピュータから引き出すことだ。ユーザーは大量の0と1に無関心でいられる。ユーザーにとって興味があるのは、ユーザーイリュージョンが示すもの――書きかけの章、完成した章の入ったフォルダ、未解決の事柄やメール、出来そこないの文章、未整理の考えなどが収められたフォルダ、といったものだけだ。 ユーザーイリュージョンはメタファーであり、実際の0と1など相手にしない。そのかわり、0と1が全体として何ができるかを問題にする。そう考えると、ユーザーイリュージョンは、意識というものを説明するのにふさわしいメタファーと言える。私たちの意識とは、自己と世界のユーザーイリュージョンなのだ。 意識は、世界全体や自己全体のユーザーイリュージョンではない。自己が影響をおよぼせる世界の諸側面と、意識が影響をおよぼせる自己の一部の、ユーザーイリュージョンだ。 このユーザーイリュージョンは、まさに自分独自の自己の地図であり、自分がこの世界に関与する可能性を示している。イギリスの生物学者リチャード・ドーキンスが言うように、「意識が生じるのは脳による世界のシミュレーションが完全になって、それ自身のモデルを含めねばならぬほどになったときであろう。」 しかし、個人のアイデンティティとして、また、行動の主体として経験される<私>だけが錯覚なのではない。私たちが実際に経験しているものもまた、ユーザーイリュージョンだ。私たちが見たり、注意したり、感じたり、経験したりする世界は、錯覚なのだ。私たちの周りの世界には色も音も匂いもない。それは私たちが経験するものだ。だからといって、世界がないということではない。実際にある。だが、世界はただ存在するのみなのだ。人が経験しないかぎり、世界には何の属性もない。少なくとも、色や匂いや音のような属性はない。 私は、視野の中に広がる光景を見ているが、それは私の感覚器官に届いたものと同一ではない。感覚が受け取ったものの再現であり、シミュレーションであり、プレゼンテーションだ。解釈であり、仮説なのだ。 ➡️ 当Blog の総 括 https://nbsakurai.exblog.jp/i13/ の 『意識 (自己) というイリュージョン』
by nbsakurai
| 2004-09-22 11:53
| エリア5 (様々な発想)
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Comments(0)
Tracked
from 慙愧の念
at 2007-05-25 14:26
タイトル : 心頭滅却すれば火もまた涼し!!ふんっ!!
つーことでどうも。携帯の画像と電話帳のバックアップをとろうと思い、miniSDを購入。 256MBと値段の誤差はあまりないのですが、そんなに動かすデータは多くないので、128MBで無問題と判断。 どれくらいかといいますと、200万画素ファインモードの画像が130枚ほど、動画(320..... more
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