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2004年 09月 22日
三浦俊彦氏のエッセイ『シミュレーションが現実を虚構色に染め上げる(比喩ではない!)』
(『岩波講座 文学8 超越性の文学』月報 (月報9、2003年8月)) http://members.jcom.home.ne.jp/miurat/simulate.htm について、これまで、氏の掲示板で約40回のメッセージ交換を行ってきました。 (『この世は虚構か』 03年 9月28日 ~ 『宇宙は進化した』か 03年10月23日。) 電子掲示板 http://8044.teacup.com/miurat/bbs 過去のログ http://members.jcom.home.ne.jp/miurat/bbs-2003.htm その結果、私に見えてきた、この議論のあら筋と私の感想を報告します。 1 「シミュレーション・アーギュメント」(SA)の論理構造 氏の説明によると、SAは「仮説(確率のさほど低くない憶測)をいくつも重ねて、その間の論理関係を吟味し、一番確率の高い仮説を採用してゆくという方法」です。そこでは、その論理構造が出来ていればよいのであって、とりあえずこの論理構造さえ受け容れれば、その結論やそこに至る過程はそれほど大事というわけではありません。 その論理構造とは、私の理解するところによれば次のようなものです。意識のシミュレーションが可能であり、それが意識の圧倒的多数を占めるならば、われわれの意識がシミュレーションである確率≒100%である。意識には①現実の生の意識と②シミュレーション意識とがあるとして、前者①と比べて後者②が圧倒的多数である場合には、その総数(①+②)に占める②の割合≒100%になる(ただし、その確率の値は科学的発見次第である)、ということです。 これは、A(圧倒的多数)ならばA(確率が高い)であるというトートロジーであって、論理的に否定することが決してできない推論です。そこでは、現実に確率が一義的に限定される必要はありません。所与の数値が仮に決定すれば、答えの確率の値も決定する、というだけです。その確率を実際にどう見積もって、(4)の確率をどのような計算で求め、またその確率はいくつで、その精度はコンマ何桁なのか、というようなことは、SAの問題とするところではありません。その確率が実際にはどの程度なのか、それが圧倒的多数なのかということは、SAの問題ではなく、科学の問題だということです。その確率≒0((4)の否定)でも、≒1((4)の肯定)でも、SAはそのまま維持されるということです。その確率は科学によって決められるのであり、科学で結論がまだ出ていないとするなら、「科学的発見次第」によっては(4)かもしれない、ということが結局は述べられている、というわけです。 2 「意識のシミュレーション」ではなく「世界のシミュレーション」 このエッセイでは、一見したところ「意識のシミュレーション」が問題にされているように見えますが、「意識を生み出せるような世界のシミュレーション」が、実は想定されています。「生の現実の中にシミュレーションで意識を作る」のではなく、「意識を生み出せるような世界をシミュレーションする」ということです。つまり、まず世界をシミュレーションし、その中で意識を多数生じさせるというわけです。そうすると、世界をひとつシミュレーションするたびに、そこには多数の意識が生まれることになります。「大多数のデジタル意識体は、シミュレーターの恣意の届かない所で勝手に発生するでしょうから(シミュレーション世界内の法則にただしたがって)」というわけです。これが、シミュレーション意識が圧倒的多数を占めるということの、大きな根拠になっているようです。 ただし、意識のシミュレーションとは具体的にどういうことかという点については、氏にはいくばくかの曖昧さがあり、「シミュレーションが生物学的意識を圧倒する仕方は何通りも考えられる」としております。そして、「人間の脳を操作して夢を見させるタイプ」という別の方法も述べられています。この場合には、「生の生物のようなハードな物質」を使うのですから、「アナログ情報よりもデジタル情報のほうが効率がよく、なまの生物のようなハードな物質よりも、デジタル情報の方が移動も増殖も自由自在だということを考えれば」シミュレーション意識が圧倒的多数になると「すんなり納得できる」、というわけにはいきません。これが、議論を混乱させるひとつの要因にもなっているように見えます。 3 氏の意見(憶測) 氏は、以上の前提(憶測)の下に、シミュレーション意識が意識の圧倒的多数を占めると憶測し、ある意識がシミュレーションである確率≒1として、「(4) あなたは、コンピュータ・シミュレーションで作り出された意識である。」と結論(憶測)しています。(なお、「憶測」というのは氏の認めた表現です。) これは憶測なのですから、そんなことは実証されていないだろう、根拠はないだろう、などと非難してはいけないというのが、氏の考えです。すべては、「科学的発見次第」なのです。できることは、互いに憶測を述べあうか、その憶測の確からしさについての憶測を述べあうことです。これは「クイズ百人に聞きました」の世界です。社会学としては興味があるとしても、(自然)科学でも論理でもありません。 4 『虚構色』の論理の難点 (1)(2)(3)を否定することによって直ちに言えるのは、生の意識のほかにコンピュータ・シミュレーションによる意識がありうる、というところまでです。それがどれくらいの数になるのか、圧倒的多数になるのかというような結論を、そこから直ちに引き出すことはできません。氏も認めているようですが、意識のシミュレーションには幾つものやり方が考えられます。そのうち、上記の「意識を生み出せるような世界をシミュレーションする」方法なら、それが可能だと仮定すると、(4)のような結論もあながち不当だとは言えません。しかし、「人間の脳を操作して夢を見させるタイプ」という別の方法では、そういうことは言えないでしょう。 「意識のシミュレーション」をどのようなものと想定するかによって、それが圧倒的多数派になるかどうかという点は、少なくともニュアンスが異なってくるように思います。意識のシミュレーションを、実質的に意味・内容のある意識にするためには、「現実」と「相互介入」させることが必要かもしれません。氏も、”私が「相互非介入」と言ったのはちょっと不正確でして、因果的には介入があっても当然だと思います。”としています。あるいは、外の「現実」に依存するというのが、意識の本来的なあり方なのかもしれません。シミュレーションによって意識を作り出すことができるとしても、それは、シミュレーション外の「現実」に何らかの形で依存する形でのシミュレーションに、必然的になるのかもしれません。仮にそうだとすれば、結論は必ずしも(4)にはならないでしょう。外の「現実」に依存する形でなければ意識のシミュレーションができないとすれば、それが多数派になるのは相当に困難、ということにもなりそうです。「物質よりビットの方が圧倒的低コスト、圧倒的シェアを持つのは必然」で・・・、ということにはならなくなりそうです。シミュレーション意識を造るためには、何らかの物理的・生物的実体が必要不可欠かもしれません。それを造るのには相当のコストがかかるかもしれません。したがって、人工意識が必ず多数派になるとは限らない、と私は思います。 (1)(2)(3)(4)すべてを肯定すれば矛盾しますが、すべてを否定しても必ずしも矛盾するとは言えません。レベルD文明は、コンピュータ・シミュレーションによって、若干名の「クリアな意識」を作り出すが、あなたが、コンピュータ・シミュレーションで作り出された意識である確率は低い(確率判断によればそうではない)ということになるかもしれません。(4)であるとするためには、(・)シミュレーション意識は多数派にはならない、という命題も否定する必要があると思います。 5 氏の憶測の検証可能性 氏の述べられていることは、科学的に認められた理論でも、確立された科学(理論)でもありません。仮に科学的な仮説だとしても、それはいまだ検証されていない仮説であり、検証にかけるべき予言を出していない憶測です。科学活動に憶測は大事ですが、それは仮説を造る段階でです。科学理論は、最初は憶測だとしても、仮説の予言が検証にかけられます。そして、検証でふるい落とされた仮説は、もはや科学(の理論)ではなくなり、あるいは科学的に間違った理論とされるでしょう。いまだ検証されていない仮説は、まだ憶測です。反証されればそれまでです。科学の歴史を振り返ると、反証された憶測が山をなしています(氏と同様の論理に従うなら、検証されていない憶測が反証されて捨てられる確率は、少なくとも相当に高いと言えるでしょう。)。 氏は、一般に、直接的な因果関係がなくとも、確率的に検証または反証されうる(そういうことがありうる)、としています。そして、SAは既に科学的な検証・反証ができる予言をしている、あるいはしつつある、ということをほのめかしているようにも見えます。この点を指して、「科学バージョン」という言葉を使っておられようです。その予言がどのようなものなのか、それを検証・反証するとは具体的にどういうことなのかは、残念ながらよく分かりませんが。 しかし全体の状況を見てみると、そのような考え方が「専門家」の大勢を占めているようには見えず、この意見に組されている方は少数派のように思われます。氏には、「自分の考えは正しい、これと違う人は・・・」というような表現をされるところがありますが、大勢に受け容れられない少数者の意見が過激に表現されることがある、という視点に立つと、ご愛嬌として容認すべきものと考えることができるかもしれません。 6 意識がシミュレーションだと「現実を虚構色に染め上げる」ことになるか 氏は次のように述べられています。―― ここが虚構であるというのは、ここ全体が虚構であるという意味ですから、ここ内部の諸部分の間で見れば、相対的にはお互いに現実です。虚構であるとは、「存在しない」という意味ではなく、「私たちが今まで信じていたのとは別の形で存在している」という意味です。今まで現実にあると思っていたものは変わらずに依然としてあるのですし、それらを私たちは認知し続け、怒りも悲しみも尊重し続け、倫理的なルールも守り続けるのですから。 そうすると、この「現実」を「虚構」と言ってみても、実質的にはあまり意味がないように思えます。「虚構」が「現実」だとするなら、それを「虚構」と呼んでみても仕方がないのではないでしょうか。「虚構」である「現実」と、「虚構」でない「現実」に、何か意味のある違いがあるようには、今のところ私には思われません。 7 私の意見・感想 「意識を生み出せるような世界のシミュレーション」が低コストで可能でかつおもしろいと仮定すれば、(4)のような結論が導かれるというのは理解できないこともありません。しかし、意識とは一体何なのか、意識をシミュレーションするとはどういうことなのか、という点については、氏に格別のご意見はないようにも見えます。意識体が圧倒的多数に増えるであろうメカニズムや、シミュレーションが生物学的意識を圧倒する仕方、生物のようなハードな物質の意識がどうやってデジタル情報にすべて還元できるのか、というようなことにはあまり興味がないようです。意識のシミュレーションを考えるなら、「意識をシミュレーションする」とは本当はどういうことなのか? ひいては、シミュレーションの対象であるところの、「意識」とは一体どういうものなのか?、という疑問に突き当たります。私はこちらのほうに、むしろ興味があります。これについて、氏はあまり厳密とは言えない曖昧で素朴な理解のまま、あまり確かとは思えない別の原理を基に思弁的な推論や演繹を行って、意識について(4)のような帰結を引き出されたもののように見えます。少なくとも、意識や意識のシミュレーションについて地道な研究をされ、それに基づいて結論を出したものではないようです。 そんなことは何でもいいから、シミュレーション意識が圧倒的多数派になるかどうかだけを憶測しろ、というのであれば、いささか乱暴な議論のようにも、私には感じられます。コンピュータ・シミュレーションによってクリアな意識を作り出すことができるか否かが、目下の哲学論争の中心テーマなのだとしたら、それを中心テーマにしておくだけで今のところは充分なのではないかと私は思います。それが解決しないうちに、あえて(1)や(3)に言及したり、さらに『平凡の原理』を持ち出す必要があるとは思えません。このエッセイが、(4)の可能性を本気で考えてみてははいかがか、と呼びかけているのだとしても、憶測の憶測を述べることに私はあまり興味がありません。意識や意識のシミュレーションがどういうものかということを脇に置いたまま、(4)を認めるか否か自分の憶測を述べよ、と強いられてもちょっと困ってしまいます。(4)の結論自体に直ちに賛成・反対を憶測で表明したいとは、私は思いません。 私の意見は次の通りです。生物学的な生の人間にしか意識は宿らない、という確かな根拠があるとは思えません。そういう「生の意識」以外にも、意識はありうるだろうと私は思っています。しかしそれが、ここで述べられているような形で圧倒的多数になるような、シミュレーションやビットデータでできるのかどうかということについては、大いに疑問が残ります。今のところ、意識をシミュレーションする工学的な原理はもちろん、その技術の具体的なイメージすら、充分に明確になっているようには思えません。例えば「人工知能」について言えば、一時はもはや時間の問題だと主張されたこともあったようですが、現在の専門家はずっと慎重のようです。要するに、どのようにすれば実現できるのか、ほとんど途方にくれていると言ってもいい状況のようです。氏が述べられているような形で実現される保証はありません。したがって、「あなたは、コンピュータ・シミュレーションで作り出された意識である」、という可能性がまったくないとは思わないが、今それを憶測の憶測で述べてみても仕方がない。その結論が「科学的発見次第」だとすればそれを待ちたい、と私は思います。 8 『虚構色』の記述の仕方は適切か SAを「ここはシミュレーションの内部である」という主張と受け取った人がいるとすれば、その人がたんに不注意なだけという話しである、という意見がありましたが、確かにその通りかもしれません。SAをよく理解している方から見れば、確かにそうなのかもしれません。ただ、これが哲学者ではなく『岩波講座文学』の読者向けのエッセイだとするなら、向けられている相手は、主にSAを知らない、私のような素人ということになるのではないでしょうか。 そういう読者を相手にした場合、”この科学バージョンの凄味は、「この世は虚構?」と憶測をめぐらすだけでなく、「この世が虚構である確率は高い!」と言い切ったところなんです”という言い方は、誤解を招きかねない表現だと思います。あたかも(4)が科学的事実かそれに近いものとして主張されているようにも感じられます。『コペルニクスの原理』が科学の大原則、というのも、私にはちょっとうなずけません。確率的判断という論理ないし数学の大原則というのならうなずけますが、少なくともそれ自体が検証され受け容れられた科学の原則ではないと思います。また、「これが論理というもの」「証明終わり」という言い方が、SAの論理構造を指すのではなく、(4)があたかも論理的必然であるかのような言い方だと誤解されても、必ずしも相手ばかりは責められないと思います。 少なくとも、一見して(4)が憶測だとは見えない、そのようには書かれていない、と私は思います。私が『虚構色』を読んだ印象としてはそうではなく、最初のこの印象を払拭するのが、なかなかに困難でした。(4)の結論は、それ自体が科学(の理論)でも論理(の帰結)でもありません。SAの論理と(4)の結論の区分、及び、(4)は憶測だということがもっと明確にされていれば、と私は思います。 9 SAや『虚構色』の議論がもつ基本的な性格 「私ゃ断然、(4)ですけどね」と、なんでそんなにSAや(4)の結論ににこだわるのか、ということです。そもそもこれは、これに興味を持ち、これをよく理解し、これを受け容れ、さらには、これにこだわりを持つ人のためのもの、という位置付けなのかもしれません。あるいは、読んだ人にそうなってほしいというメッセージなのでしょう。私はかつての発言で、「ボク(たち)の好きなシミュレーション・アーギュメント(虚構ではない!)」と述べましたが、この印象は今でも拭えていません。”「あんな子のどこが好きなんだ」なんてケチつけたって、アバタもえくぼ、ってなわけです”、というような意見もありました。 こういう発想や考え方によって、将来、何らかの重要な発見や成果に結びつく可能性が、まったくないとは私も思いません。氏のお考えは、このエッセイに表現されていることよりもずっと根が深く、相当に広いもののようです。しかし、既に何らかの結果を出しているとか、出しつつあるというようには、今のところ私には思えません。結論はこれからの研究成果を待たなければならないが、なかなかおもしろい視点だな、とか、なんとなくワクワクとさせられるな、とか。これが、(良くも悪くも、というか、良いか悪いかは別にして)、SAや『虚構色』の議論のもつ、基本的な性格を表しているように思えます。当面はあまりこれに首を突っ込まないで、その研究の成果が出るまでは「専門家」の議論を見守りたいと、私は思っています。 10 結論 その後も数回のメッセージをやり取りしました。(『Re:もっと血の気を!』 03年10月26日 ~ 『Re:再び厳密味で申し訳ありませんが』 03年11月 2日)。その結果、氏から次のような決意のメッセージが出されました。―― SAを含む人間原理的議論の布教と新規開発に大いに努めねばという意を新たにしました。 氏は、これが確立された科学理論や論理的必然ではない憶測であることを、(おそらく)充分に自覚しながら、それをとりあえず脇において、「これは憶測ですよ、などという留保口調で書」くのではなく、「責任感を、確固たる論理構築と口調に込め」、意図的にあたかもそうであるかのように述べたもののようです。『虚構色』の基本的性格は、例えば次のようなものと考えるのが、もっとも合理的と考えられます。 ・ 人の耳目を集めるための拡声器でのコマーシャル ・ 胸にこみ上げる熱き思いの表明文 ・ 確固たる自分の信条の街頭演説 ・ 自分の思想を布教するためのプロパガンダ ・ 麗しき同好の志募集の張り紙 ・ 目くるめくSA教への入信を呼びかけるチラシ ・ 自分への投票を呼びかける力強い声明文 ・ 威勢よく顧客を呼び込むメッセージ ・ 魚を呼び集めるためのおいしそうなまき餌 ・ テレビショッピングの楽しいセールストーク ・ 人をたぶらかす魅力的な毒饅頭 ・ 人を目覚めさせるありがたいお言葉 これが以上のような性格のものである以上、仮に、多少の誇張があったり、厳密さにかけるところがあったり、ツジツマの合わないところがあったり、都合の悪いことを見て見ぬふりしていたり、論点をずらしたりしていても、それは当然に予定されていることなのでした。そんな些細なつまらないことに拘るよりも、”意外さ”や”面白み”を演出することが、ここではまず大事なのです。これを契機としてSAや人間原理に興味を持ち、それについて勉強したり考えたりするように読者を啓発・覚醒させることが、ここでの大切な目的なのですから。 「感想でも要望でもご意見でも、何でもどうぞ」、とはされていますが、真剣に意見や感想を聞き、それに基づいて丁寧に説明したり、まともに意見を交換したり、詳細を議論したりするつもりのものでは、初めからなかったと考えられます。そんなことをして、舞台裏がここでバレちゃ困るのです。外形的なもっともらしさは、なんとしても護らなければなりません。これをそのまま議論の対象として、意見や感想を述べればそれに応じて誠実な対応が期待できると素朴に考えるのは、こちらからすればそもそも大きな勘違い、お相手からしても大きなお世話で、ありがた迷惑なことなのでした。商品は既に後ろに用意されているわけなので、予定されている対応としては、これを受け容れて買うか、そうでなければ買わないで通り過ぎるか、そのいずれかです。すべては買った後のことなのです。素通りされないよう、氏は一生懸命に、声をからして呼びかけているわけです。 氏は以上のような意図で、それをなんとしても実現すべく、「思想を公にする人間の義務」として、誠意を持って熱心にやっておられるわけで、その切実な事情をよく理解し、その上でしかるべく対応すべきものだったのでした。買うか買わないかをいつまでもグズグスと決められずに、威勢の良い売り口上にあれこれとイチャモンをつけてみても、なんとも仕方のないことなのでした。私には不覚にもそこのところがなかなか飲み込めず、これまでソートーにヤボなことをしてしまいました。ホントにごめんなさい。深く反省。
by nbsakurai
| 2004-09-22 14:02
| エリア3 (ロボットの心)
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