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2004年 09月 22日
『宇宙のたくらみ』
J・D・バロー (著), 菅谷 暁 (翻訳) みすず書房 P1 新しいアイデアに対する反論は通常三つの段階を経由する。「それは正しくない」から「正しいかもしれないが重要ではない」へ、そして「正しく重要だが新しいものではない――われわれは最初からそれを知っていた」へと。 ―― はやらない金言 P2 われわれの精神と肉体の複雑さは、世界の本性とそこに居住する他の者に対する繊細な適応が、長い間積み重ねられたことを証言している。人類は好悪の感情や感覚や感受性をすべて備え、すでにできあがった形で天から落ちてきたのではない。種の歴史の刻印を帯びていない精神と肉体を持って誕生したのでもない。われわれの能力と感受性の多くは、時を選ばず使える一般的知性の個々の現れというよりは、太古の環境が投げかけた問題に対する特殊な適応なのである P5 われわれが特定の型の宇宙の中で進化してきたという事実は、われわれが何をどのように考えるかを、思いもよらない方法で束縛している。どんなゲームやパズルにわれわれは意欲をかきたてられるのか。なぜわれわれは一定のタイプの美術や音楽を好むのか。なぜわれわれはパターンなど存在しない所にパターンを見る傾向があるのか。なぜこれほど多くの神話や伝説には共通の要素があるのか。それらは時間と空間についてのわれわれの経験や天の外観に、どのように影響されているのか。われわれに特有の寿命――非常に短くもなく非常に長くもない――が、われわれの世界観やわれわれが生命に付加する価値にどのような影響をもたらしているのか。どんな哲学的問題に興味をそそれれるかを、われわれの精神構造はいかにして決定するのか。なぜある種の姿は人間の目にこれほど魅力的なのか。 P8 何世紀もの間、哲学者はわれわれの世界像は信頼に値するのかという問題にひどく苦しんできた。それでも彼らはなぜわれわれが世界像を持つのかとか、それは何に由来するのかという問題はあまり気に留めなかった。われわれの精神は既製品として天から落ちてきたのではない。それには環境の本質と深いつながりを持ってきたという歴史がある。精神が発達してきたいくつかの目的と、それが適応しなければならない環境の範囲を明らかにすることにより、われわれはその精神がもちうる思考に新しい光を投げかけることができる。のちに見るように、われわれの「環境」はこれまで考えていたよりも広範囲に及び――われわれの思考の方向に刻印を残し、われわれ自身をどう考えるか、われわれが存在する宇宙をどう見るかを規定しているのである。 P28 われわれの考えでは、ダーウィン的進化の必要条件は次の三点である。 ・個体群のメンバーの間に変異が存在すること。変異は構造や機能や行動の中にある。 ・生存や繁殖の可能性はこの変異に依存している。 ・さまざまな特徴を遺伝させる手段がなければならないので、親の本性と子の本性の間にはなんらかの相関関係が存在する。したがって親の生存の可能性を増大させる変異は遺伝する見込みが非常に高いだろう。 このような条件のもとにあるとき、進化は選択肢などではないことが強調されねばならない。このような特性をもつ個体群はすべて進化しなければならない。さらにこの三つの条件は多くのかたちで満たされうる。変異は遺伝的構成に生じることもあるし、抽象概念を理解する能力に起きることもある。継承のメカニズムは社会的でも文化的でも遺伝的でもあり得る。 P39 複雑な生命を発達させてきた進化のプロセスを考えてみれば、なぜわれわれが同じような思考のカテゴリーを共有しているのか、すなわちなぜいまあるような多くのカテゴリーをわれわれが所有し、なぜそれらは時間が経っても不変であるのかという謎のいくつかが消滅する。なぜならそのようなカテゴリーは自然選択のプロセスによって、脳とともに進化してきたからである。このプロセスは、適応が発生する経験の領域において、世界の基盤をなす真の現実の特徴をもっとも正確に写し取っている世界像を選択する。進化生物学はこのように、世界の重要な部分、すなわち正しく理解すれば有利となる部分に関する実在論的立場に支持を与える。正しい理解の多くはわれわれを、それをあまりもっていない者より有利にするだけではない。それはあらゆる形態の複雑な生命が、存続するために欠くべからざる条件である。現実に対応しない世界像を抱えて、自然発生的に出現した精神は生き残れないだろう。そのような精神が所有する世界の心的モデルは、現実と遭遇することによって誤りとされるだろう。われわれの精神と肉体は、好むと好まざるとにかかわらず、その発達を支えてきた環境の本性についての情報を提示している。 P39 さまざまなレベルの「意識」をもった生物が存在するが、そのレベルは生物が周囲の世界について創造することができる、心的モデルの洗練の度合いを反映している。ある生物は、未来は過去の状況から同様の方式で展開するという仮定のもとに、未来を模擬するモデルを創造できる。ワニのような他の生物は、過去と現在と未来をつなぐこの能力を欠き、永遠の現在の中に生きている。すべての動植物は、宇宙についてのモデルを記号化したり、理論化したりして、経験する環境の中で生き残りをはかっている。そのようなモデルは洗練の度合いが千差万別である。アリはコロニーの中で一定の活動を行うよう、遺伝的にプログラムされていることをわれわれは知っている。アリは世界の小部分について単純なモデルをもっている。チンパンジーは現実についてそれよりはるかに洗練されたモデルを所有しているが、それでもそれは世界について知りうることのごくわずかな部分に関するものでしかない。われわれはチンパンジーをその理解を超えた状況――たとえばフライト・シミュレーターの操縦席――におくことができるだろう。世界についてのわれわれの心像は、地球上のいかなる生命形態の心像より洗練されてはいるものの、やはり不完全である。驚くべきことに、それは自身が不完全であるに違いないと認識できるほど完全である。われわれは椅子を見るとき、われわれが利用できる情報だけしか受け入れていないということを知っている。われわれの感覚は制限されている。われわれは一定の波長だけを「見て」、匂いの一定の範囲だけを「嗅ぎ」、音の一定の領域だけを「聴く」。われわれが何も見なくても、それはそこに何も実在しないという意味ではない。われわれの感覚の範囲もまた、量的にも質的にも、乏しい資源を割り振らなければならない選択のプロセスの所産である。われわれは現在の目よりも何千倍も敏感な目を進化させることができただろうが、そのような能力を達成するには、よそで使えたはずの資源を使用してしまうという犠牲を払わなければならなかっただろう。結局のところわれわれは、入手できる資源を効率よく使用する一組の感覚で満足したのである。 P40 進化が実在論的なものの見方を強力に支持するにもかかわらず、われわれはあまりにも多くのことを要求しないよう気をつけなけらばならない。われわれはすでに生物のいくつかの特徴は、他の目的をもった適応の無害な副産物として存在できることを見た。我々が思い描く現実のイメージにも同様のことが当てはまる。さらにわれわれは明らかに選択的利益をもたないたくさんの能力を所有している。進化論の共同発見者であるウォーレスは、この微妙な事実を認めることができず、人間の多くの能力は自然選択によっては説明できないと結論した。しかしダーウィンは、われわれはさまざまな能力と時代遅れの適応と、無害な副産物の寄せ集めであることをもっとよく理解できた。 P41 われわれは原因と結果のような重要な概念が、自然選択による進化をつつがなく行うためにどのように必要であるかは理解できるが、素粒子やブラックホールについての心像が、なぜ同様に存在を保証されねばならないのかは容易に想像することができない。相対性理論や量子論を理解することにどのような生存上の価値があるのか。初期人類は宇宙の深遠な構造のそのような側面を漠然と感じることもなしに、何十万年にもわたり首尾よく進化してきた。しかしこうした秘教的な概念は、もっとも単純な観念の複雑に結合した集合であるにすぎない。その単純な観念の方ははるかに広く流布し、さまざまな自然現象を検討するのに役立っている。われわれの高度な科学的知識は、環境の中の秩序とパターンを認識することに対する適応の副産物と見なせるかもしれない。芸術観賞は明らかにこのような性向と深く結びついている。だがパターンを認識し、世界に秩序を付与したいという感情はわれわれにおいて非常に強力である。世界についての神話、伝説、疑似解説の氾濫は、われわれは世界を説明するために、もっともらしい秩序原理を発明する性癖があることを証言している。われわれは説明されないものを恐れる。混沌、無秩序、偶然は、宇宙の暗い側面、慈悲深い神々の対立物に強く結びついていた。このような事態が生じた一つの理由は、秩序の認識が何らかの報酬をもたらすこと――食料や捕食者や同じ種のメンバーを見つけ出すこと――から離れ、それ自体が目的になったということにある。秩序の創造や発見からは満足が得られる。こうした感情は、秩序を検証する能力が適応的であった進化の過去に起源があるのだろう。 P62 地球上の意識的生命の歴史において、合理性はそれほど顕著な存在ではない。それに対し神秘的、象徴的、「宗教的」思考――合理主義者が「非合理的」と非難するすべての思考法――は、いつでもどこでも人間の思考の特徴をなしてきたように思われる。それはまるでそのような思考法には何らかの適応的利益があり、そこから得られる恩恵は合理性には提供できないかのようなのである。(・・・中略・・・) 一つの可能性として考えられるのは、合理性が警戒心を育むことである。非合理性、熱烈な感情、妄信はそうではない。敵との戦いが日常茶飯にあり、それが生死にかかわる事柄である世界では、過剰な合理性は有用ではないだろう。超自然的な力に導かれていると感じた恐れを知らない狂信者は、打ち負かすのが厄介な相手である。もしあなたの土地は神の住まいであると信じているなら、そこが単に自分の故郷である場合より情熱的にその地を防衛するだろう。合理的に判断すべき多くの情報をもっているときには、確かに合理性は有効である。しかし事物の理解が断片的であり、広い視野を築くにはかなりの補いが必要である場合には、合理性は抑制を受けない大胆さほど効果的ではないだろう。(・・・中略・・・) だがおそらく非合理的な、思弁的な、宗教的な信念が、明確な結果を生む行動へと駆り立てることによって提供する利益は、その信念を採用したい気にわれわれをさせるほ大きいのである。 P141 太古のサヴァンナの環境で生存することにわれわれを適応させた、進化の歴史の副産物については先に長々と論じたが、そのような発展段階に到達するためにはもっと基本的な他の多くの反応が自然選択によって磨き上げられねばならなかった。その中で最も重要なのはパターンを感知し分類する能力だろう。この能力があれば、環境の危険を察知し、かつて経験した脅威や好機が再び登場したときにはそれを認識し、事件のパターンや事物の集積を分類することができる。環境におけるパターン分類過程を促進するような、種々の経験を見つけ出すことは適応的である。 P330 われわれはあらゆる問題を解決する存在ではない。人類の歴史は特定の型の分析と反応を発展させてきた。われわれの環境の多くの特徴、最も広い意味ではこの世界の多くの特徴は、世界についてのわれわれの心像の中に内面化されてきた。この特長に対するわれわれの反応は、自然選択によって選り分けられてきた。われわれが反応を示す指標や象徴は、環境の潜在的に重要である側面について部分的な手がかりしか与えないこともある。本書でわれわれは、宇宙がその構造のさまざまな側面を、自然界の不可避の力を用いてどのようにわれわれに刻印してきたかを検討し、またなぜ生物はその環境に適応する必要があるのかを考察した。適応した者が成功し、適応しなかった者が失敗する世界では、かつては他の基本的な目的のために役立っていた適応の痕跡が発見されるだろう。この適応の多くはとらえがたいものであり、それが一連の奇妙な副産物を生み出し、その内のあるものがわれわれの美的感覚を決定するにあたって一定の役割を果たしたのである。われわれはある種の事柄に対する感受性を持つかどうかが、生死にかかわる問題であった過去の世界の産物なのである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 改めて読んでみると、あんまし適切なもんではないなぁ。 これを引用して、nbはいったい何を言いたいんだか。 ここから読み取ってくれっていうのは、ムリですよネェ。 でもせっかくだから、とりあえずは上げとこっと。
by nbsakurai
| 2004-09-22 15:40
| エリア6 (生物学的発想)
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