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086 進化の過程を生き延びてきた生物としての人という発想
ホモサピエンスは、世界の偏りのない観察者として、正確な論理演算装置として、正しい判断ができる純粋理性として、誕生したっていうわけではありません。そうだという根拠は何もないと思います。(神様がそういうふうに創ってくれたんだよ、っていうような説明以外には。)
むしろヒトは、何十億年にも渡る生物進化の最終ランナーのヒトツなわけです。そこに至る系統がどっかで絶滅していたら、今の人はないわけです。そして絶滅というのは、地球上の生物にとってはありふれたことです。そうするとそこには、絶滅せずにここまで生き延びさせてきた、なんらかのメカニズムがある、そう考えるのは自然なことだと思います。
人は現在こんなにもその数を増やして繁殖していますが、それはごく最近のことです。(人口の爆発は歴史上、道具をつくったとき、農業と畜産が始まったとき、及び、産業革命の3回あったということです。)われわれは今、食料も水も容易に手に入り、滅多なことでは生命を脅かされない状況下にありますが、人が生きて適応してきた長いかつての世界は、そんなものではなかったでしょう。
電気や水道はごく最近のことです。本や文字も新しいものです。農業だって、ヒトの進化の歴史から見たら、ほんの少しの歴史しかありません。ヒトの歴史の99%の期間は、50人以上の集団は支えられない未開の遊牧民として生活していた、ということのようです。かつて生きるということは、今よりもずっと大変なことでした。平均寿命は今よりずっと短く、子孫を残せるまで成長するのも、子孫を残すのもなかなかに困難なことでした。
人はかつて、水や食料に大いにこだわることが必要だったはずです。食料としての動物や植物にも、道具にもこだわる必要があったはずです。子孫を残すためには、異性にこだわり、子供にこだわる必要があったはずです。また自分の生命を脅かす他の生物にも、大いにこだわる必要があったはずです。社会的動物として、他のヒトとの関係にも大いに意を用いなけらばならなかったはずです。そうでない人は、生き残れず、子孫を残せず、これまでに消えていってしまったことでしょう。したがって生き残った人には、そういうバイアスがかかっているはずです。そういう意味でヒトは、偏った考えを持つようにできているってわけです。
自分がいます。他人がいます。他の生物がいます。水や食料や道具があります。雨や嵐や天災があります。そしてそれらにどのように対応するか。これが、ヒトが世界を理解するうえでの前提条件だったものと思われます。そこでは、パターンを感知し分類する能力、分別知は、有効な戦略ではなかったかと思われます。有効な対応を適時適切に取れない世界観は、たとえそれが客観的には妥当なものでも、そこでは価値がありません。
優雅に形而上学的思弁なんかをしている暇はなかったはずです。そんな悠長なことをしている余裕はありません。生きて子孫を残すためには、当面する課題にとりあえずその場その場で有効な対応ができることが大切なことであって、それがホントは正しいのかどうかということは二の次です。そこでは世界観は、それがたとえ多少間違っていても、正確ではなくても、問題を抱えていても、論理的に整合していなくとも、とりあえずはそれが生存や繁殖に役立つってことが大切なわけです。ヒトの世界観としては、”正しいモデル”ではなく、”役立つモデル”が要求されたってことです。
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141 生き残るために有効なバーチャル・リアリティ
そういう状況下では、実在論的な発想が有効だったと思われます。自分の生存にかかわるものに、こだわるってことが有効だったはずです。何にもこだわらない生き方は、きっと許されないでしょう。そのような長い歴史的過程をともかくも生き延びてきたのが現在のヒトなワケです。ヒトを取り巻く環境はそのころとは大きく変わっていますが、ヒトの発想が大きく変革されるのに、充分なほどの時間は、まだ経過していないでしょう。かつて”役立つモデル”であったものが、今も”役立つモデル”であるとは限りません。まして”正しいモデル”であるとは限らないでしょう。過去から引きずっている偏った発想を正すのは、そう簡単なことではないってことです。つまり実在論や分別知がそれです。
ところで、『唯識』の時代には、生物学も、進化論も、DNAの知識もありませんでした。そういう中で、人の考え方のこういう偏りに気がつき、それをアーラヤ識等として述べたのだとしたら、それをもって、人間に対する深い洞察って言ってもいいと、私は思っています。私はそんなふうに『唯識』を評価したいのですが、いかがでしょうか。