岩波講座 『宗教と科学』4 『宗教と自然科学』 岩波書店
9 『現代宇宙論と宗教』 田中 裕
P227
相対性理論と量子力学を基礎とする宇宙論は現代科学の最先端の一つであろう。そこでは、我々の宇宙が約180億年前のビッグバンに始まる歴史を持つという理論を実証する事実(宇宙の背景輻射の存在)の発見とともに、宇宙の起源と終末に関する問題が、神話や単なる形而上学の問題としてではなく、科学の問題としても議論される段階に達したように見える。かつては、「創世記」の七日間の天地創造の物語を熱心に論じたのは中世のキリスト教の神学者達であったが、今日では、創造後の「最初の三分間」を現実の歴史として語ったのは、素粒子の統一理論でノーベル賞を受賞した物理学者のスティーヴン・ワインバーグである。ビッグバン理論によれば、宇宙の歴史の始原においては極大の宇宙は極微の宇宙でもある。それゆえに、宇宙の起源を正しく認識するためにはマクロ宇宙を記述する一般相対性理論とミクロ宇宙を記述する量子力学とを統一する理論が必要となる。重力、電磁気力、弱い相互作用、強い相互作用の四種類の異なる自然力を統一する究極の物理理論が検証される領域は、人間が地上で実験可能なエネルギーレベルを遥かに越えており、初期宇宙のような極限的な状況こそ統一理論の試金石になるのである。このように、量子論と一般相対性理論という二〇世紀の物理学の歴史を根底から変えた二大理論をさらに高いレベルで統一するという理論物理学の課題が、「宇宙がどこから来てどこへ行くのか」という歴史の黎明期から人類が問い続けてきた形而上学的問題の探求と結び付いたものが現代の宇宙論なのである。
P286
夥しい数の啓蒙書が書かれているにもかかわらず、現代宇宙論の提起する宗教的および神学的問題が何であるかについては、いまだ十分に論じられてはいない。主として欧米の科学者や神学者によって、「新しい物理学」が神学に対してもつ意味が論じられた例はたしかにあるし、ビッグバンの先駆的理論とも言うべきルメール神父の宇宙論やそれに鼓舞されて『現代自然科学に照らした神の証明』を書いたローマ教皇ピオ一二世のような例もある。また、最近では、宇宙の進化を目的論的に説明する「人間原理」を要請することによって、宇宙における人間の位置に中心的な役割を回復させると同時に、宇宙の進化の過程において新たに生じる情報と秩序の源泉として神の存在を間接的に論証する議論もある。しかしながら、一般に科学者はこのような神学的な問題の考察には不慣れであって、それを科学的な具体的な問いのレベルに還元して答えようとする傾向があることは否定できないし、彼らが「神」について語る場合でも、現代の神学的議論に関する無知のゆえに、神と世界に関するまさに古色蒼然とした思想を前提として議論してしまう傾向がある。これと同様に、神学者のほうもまた、現代科学の諸理論が、時空、物質、因果性に関する科学者の常識をいかに変化させたかということに無知であるために、現代宇宙論の提起する諸問題を、彼らのやはり古色蒼然とした科学観の内部で処理しようとする傾向がある。そのために、両者の議論が常にかみ合っているとは言いがたいのである。
P296
(特殊)相対性理論と量子力学との統合は英国の物理学者ディラックに負うところが大きいが、彼の反物質の存在の予言とその実験的検証の事実は、デモクリトス的な原子論に立脚していたそれまでの物理学者の物質観とともに、空虚ないし真空に関する我々の観念を抜本的に変えてしまった。量子論は、ハイゼンベルグの不確定性原理によって、極微の時間幅における真空のエネルギーの揺らぎがあることを許容する。この揺らぎが、相対性理論によるエネルギーと物質の等価則に従って、物質と反物質の対創成を可能にするのである。言い換えれば、微視的尺度における真空は、そこにおいて物質と反物質が自発的に生成消滅する極めて活動的な場所に変貌したのである。物理学者はこれまでに発見し、また将来発見するであろうすべての量子的粒子は、潜在的にはすべてこの真空の場において存在しているというのが、新しい真空の概念である。米国の物理学者ジョン・ホーラーの言葉を借りるならば、「空虚な空間が空ではなく、もっとも激しい物理学の場にほかならないということぼど現代物理学にとって中心的な事はない」のである。このような真空の概念は、まさに有と無の二元的対立を越える無の概念にほかならない。それは特定の素粒子のような、「形あるもの」ではないが、そのような「形あるもの」を存在せしめる場の役割を果たしているのである。
有と無の対立概念の意味が変容すると同時に、因果律の考え方も大きく変わった。「物事が生起するには十分な理由がなければならない」という意味での根拠律は、古典的な物理学の因果律の基礎にある原理であるが、フォン・ノイマンが『量子力学の数学的基礎』の中で示したように、この根拠律の無制限な適用に一定の限界を設けたところに、量子論のもつ哲学的意味がある。量子論の文脈では、「異なる結果には異なる原因が対応する」という原理の適用を個別的な事象については、原理的に断念しなければならない文脈がある。このことは、宇宙でおきるすべての現象を、根拠律にもとづいて体系化するということが原理的に不可能であること、すなわち古典的な物理学の決定論的記述を我々が放棄しなければならないことを意味している。量子論がすでに決定論を放棄しているにもかかわらず、一部の科学者が「神は世界を作るときにどの程度の自由度を持っていたか」などという空虚な形式で、現代宇宙論の解釈を行っているのはいささか奇妙にも思われよう。この考え方の背後にあるものは、宇宙の外部から機械的に作用する神という古色蒼然とした「神」の概念と、一度初期条件が与えられれば、あとはすべて決定論的に物事が進行するという、今日では廃れてしまったニュートン物理学の幻想にほかならないからである。
P297
時間も空間も物質もない「全くの無」から議論を始める現代の物理学者はライプニッツの問いを、「なぜ存在者があるのか、むしろ「無」があるのでなないか」と「無」を大文字にして読み替えたハイデッガーのほうに親近感をおぼえるかも知れない。なぜなら相対論的場の量子論を基礎として語られる「無からの創造」は、根拠律の適用不可能な偶然性の所産であって、創造主という絶対的な有を根拠とするというよりはむしろ「創造主なき創造」という一面をもっているからである。創造的であるのは、何らかの有ではなくて有無の対立を越えた真空なのである。