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2005年 10月 23日
『身体化された心』―― 仏教思想からのエナクティブ・アプローチ
フランシスコ ヴァレラ、エレノア ロッシュ、エヴァン トンプソン、田中 靖夫 工作舎 P94 われわれは撞着にとらわれている。経験にざっと注意するだけで、われわれの経験がたえず変化しており、しかもある特定の状況につねに依存していることがわかるからである。人間であること、生きていることは、いつでもある状況、あるコンテキスト、ある世界のなかに存在することである。こういった状況から独立して不変のものを経験できないのに、ほとんどの人は自らの同一性(アイデンティティ)を確信している:われわれには人格、記憶、思い出、計画、期待があり、これらがある一貫した視点、われわれが世界(自らが立脚している基盤)をとらえる中心にこれらが収束するようにみえるからだ。そのような視点は、単一の、独立した、真に存在している自己または自我に立脚しているから可能なのではないだろうか。 この問いは、本書のあらゆること(認知科学、哲学、三昧/覚の瞑想伝統)の共通基盤である。総じて人間の歴史における反省的な伝統(哲学、科学、精神分析、宗教、瞑想)は、自己という素朴な感覚を主題にしてきた。しかし、経験世界における独立不抜、すなわち単一の自己の発見を主張した伝統はこれまでにない。デビッド・ヒュームの名言にあるように、「私に関しては、<自己>と呼ぶものに踏み込むとき、私が出くわすのは、熱や冷、明や暗、苦や快といったあれこれの特殊な知覚である。知覚なくして<自己>をとらえることはできず、知覚以外のものを観察することもできない」。このような明察は、目下検討している自己感覚とはまったく一致していない。 本書の旅にわれわれを駆り立てたのも、この矛盾、つまり、反省と経験がもたらすものの齟齬なのである。すべての西洋的な伝統と多くの非西洋的伝統(瞑想的なものでさえ)が目を背けたり、対峙するのを拒んできたからだ。よくある手は、単に無視することである。たとえば、反省しても自己を見つけられなかったヒュームは、撤退の道を選び、バックギャモンに没頭した。それ以上の探求をあきらめて、人生と反省を別扱いにしたのである。ジャン=ポール・サルトルは、われわれが自己の存在の信念に「運命づけられて」いることの矛盾を表現した。別の方策は、ウパニシャド哲学の「アートマン」やカントの超越的自我のような、経験では知りえない、超越的な自己を前提とすることである(非瞑想的な伝統では、この矛盾に注目さえしない。例えば、心理学の自己概念)。 P96 瞬時に去来する新しい経験は心で瞬間的に起きて、すぐに変化する流れなのだ。そして、変化するのは知覚だけではなく、知覚するものもそうなのである。ヒュームが注目したように、経験を受け入れて変わらない経験者はいない。経験が着地する安定した基盤はないのである。憩いの場がないという経験の感覚は、「無自己性」すなわち「無我」と呼ばれる。 P97 人間の苦悩の起源は、何もないところで自己の感覚や自我をつかまえて、確固たるものにしようとするこの性向にあるのだ。 P97 「この」瞬間はいかに生起するのか、その条件は何か、それに対する「私の」反応の本質は何か、「私」という経験はどこで起こるのか? 自己がいかに生起するかを探すことは、「心とは何で、どこにあるのか」を直接的かつ個人的に問うことである。こういった問いを詮索するときの当初の精神は、デカルトの『省察』と似てなくもないが、この言明に驚く人がいるとすれば、それはデカルトが昨今不評を買っているからである。教父のことばではなくて、自分自身の心が省察時に識別するものに依拠しようとするデカルトの当初の決断に、現象学と同じような自己を信頼する研究精神があるのは明らかだ。しかし、デカルトは急停止している。かの有名な「我思う、故に我あり」では、思う「私」の本質にはまったく触れていない。デカルトが「私」を根元的には考えるものと推量したのは確かだが、これは論理の飛躍である。「我あり」が唯一確実に伝えることは、それがひとつの思考であることでしかない。デカルトが完全に厳密で、マインドフルで、注意深かったならば、私が考える「もの」であるとする結論へは飛躍せず、心それ自身を「プロセス」として洞察し続けたことだろう。 P98 自己について問い始める瞑想者が第一に気づくことは、無我ではなく、極端な自己中心癖なのである。あたかも保護すべき自己があるかのように、人は考え、感じ、行動するのが常である。自己の領土を少しでも侵害されれば(指のとげ、騒々しい隣人)、怖れと怒りのもとになる。自己を少しでも増大させたいと願えば(利得、賞賛、名声、喜悦)、貪欲と執着を誘発する。状況が自分に関係ない(バス待ち、瞑想)となれば退屈になる。そのような本能的、自動的、普遍的な強い衝動は、日常生活では至極当然のこととされている。 P99 チベット仏教の導師、ツルトリム・ギャムツォはこのジレンマをこう表現している。 >……われわれはみな、あたかも永続的な、分離独立した自己を有するかのように行動し、それを守り育てることをつねに最大の関心事としている。それはほとんど疑うことも説明することもない、考えることなき習慣なのである。しかし、われわれの苦はすべてこの最大関心事に関連している。あらゆる損失と利得、喜悦と苦痛が生じるのは、われわれがこの曖昧な自己性の感覚とあまりに強く結びついているからだ。「自己」と感情的に関わり、執着するあまり、それを当然と認めてしまう。……瞑想者はこの「自己」について思索しない。それが存在するかしないかの理法をもたないのだ。代わりに、自らの心が自己とか「私のもの」とかいう考えにいかに執着し、この執着からいかに自らの苦が生起するのかをひたすらみつめるように鍛えるのである。同時に、注意深くその自己を捜し求め、他のすべての経験からそれを離そうとする。自己をみつけて確かめようとするのは、苦に関する限りそれ(自己)が被告人だからである。しかし、皮肉なのは、どんなに頑張っても、自己に対応するものは何もみつからない、ということである。 経験される自己が存在しないのなら、それが存在するとわれわれが考えるのはどういうことなのか。自己へ奉仕するわれわれの習慣は何に由来するのか。経験においてわれわれが自己と思っているものは何なのか。 P110 西洋の伝統でこの動きを最もよく具体化しているのは、パターン化された経験が観察されるには、そのパターンの背後にエージェント、つまり動かすものが存在しなくてはならないとするデカルトとカントの主張である。デカルトにとって、この動かすものは、考えるもの(思索するもの)であった。より緻密で正確であったカントは、『純粋理性批判』においてこう書いている。「内部知覚におけるわれわれの状態を決定しているものによると、自己の意識は経験的なものにすぎず、いつでも変化している。この内部に現れる流れにおいては、固定ないし一定した自己は存在しない……[したがって]あらゆる経験に先行し、経験そのものを可能にする条件があるに違いない……この純粋で始源的な不変の意識を<超越的統覚>と呼ぼう」。「統覚」とは、アウェアネス、特に認知プロセスのアウェアナスを基本的に意味する。このアウェアネス経験には自己に対応するものが何も与えられていないとごく明瞭にみてとったカントは、超越論者であり、あらゆる経験に先行してその経験を可能にする意識があるはずだと論じた。また、この超越論的アウェアネスがわれわれの経時的な統一性や自己同一性の感覚の原因であるとも考えていた。それで日常の自己に対して超越的な根拠を与えるものを「意識の超越論的統一性」と呼んだのである。 カントの分析は見事だが、苦境を深めるばかりである。自己は存在しているが、それについては決して知りえないとしたからだ。さらに、この自己はほとんどわれわれの情緒的な確信に対して答えていない。「私」でも「私自身」でもないからだ。それは自己全般、ある非人間的なエージェントで経験の背後にあって動かすものでしかないからである。それが純粋で、始源的で、不変であるのに、私は不純で移ろいゆく。かくも根本的に異なる自己が私のあらゆる経験の基盤であり、しかも経験とは接触しないなどということがありうるのか? 経験に関わるには、世界の相互依存性の織物にあずかるほかないのだが、そうなると純粋で絶対的な条件が崩れてしまうのは明らかだろう。 P112 ここで、読者はかなりいらつき、こう言いたくなるのではないか。「自己が本当は永続的でも一貫したものでもないのはよく分かった、連続した経験の流れに他ならないのだね。それはプロセスであって事物ではない、と。それでどうだというのだ?」 しかし、思い出していただきたい。これまで探してきたのは、われわれの情緒的/即応的な確信に答える自己なのである。この即時経験レベルでは、自己が「単に」経験の流れであるかのようには感じないものなのだ。たとえそれを流れと呼んだとしても、われわれがある確固たる感覚に執着しているのは明らかである。なぜなら、この比喩は、経験が連続的に流れることを示唆するからだ。しかし、この連続性を分析にかけると、感覚、知覚、動機づけ、アウェアネスの不連続的な瞬間しか見出せないようである。もちろん、こういった問題を克服するには、あらゆる手段で自己を再定義してもよい。可能世界の意味論といった、ごく洗練された論理学の技法を駆使する現代の分析哲学者に倣ってもいいのだろう。しかし、これらの新しい説明は、いずれもわれわれの基本的な反応行動や日々の性向を決して説明しないだろう。 肝腎なのは、心地よく知的に満足できるやり方で自己を再定義しうるかどうかということでも、それでも接近しえない絶対的な自己が真に存在するのかどうかを決定することでもなく、われわれが今ここで経験するような状況に三昧になり洞察力を高めることなのである。ツルトリム・ギャムツォが述べているように、「仏教では、汝が自己を有するとか有さないと信ぜよとは教えない。仏教の教えは、人生に対して苦しみ、考え、情緒的に反応しているのをみると、<永続的で、独立した単一の自己の存在を信じたくなるが、よくよく分析してみると、そのような自己は見つからない>というものである。言い換えると、五蘊に自己はないのである。」
by nbsakurai
| 2005-10-23 18:42
| エリア5 (様々な発想)
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