『身体化された心』―― 仏教思想からのエナクティブ・アプローチ
フランシスコ ヴァレラ、エレノア ロッシュ、エヴァン トンプソン、田中 靖夫
工作舎
P187
ならば、この苦境にミンスキーはどう答えているのか? 最後から二頁目のパラグラフは全部引用する価値がある:
>物理世界に意思の自由の入る余地がないことは問題ではないが、意思の自由という概念はわれわれの心的領域モデルにとって重要である。心理学のあまりに多くのことがその概念に依拠しているので、われわれとしてはそれを決して放棄できない。われわれは、その信念が誤謬であると知りつつも、それを抱き続けるようにほとんど強制されている。ただし、心の平安や快活さがどうなろうと、われわれの信念の「すべて」に誤りを見つけるように吹き込まれた場合は別だが。
ここで興味深いのは、ミンスキーのジレンマの感情的なトーンである。彼は、「あらゆるものがうまくいかないときはいつでも他の思考領域があるはずだ」とする楽天的な考え方で『心の社会』を締め括っているが、自由意思に関するこの引用こそが、実は科学と人間経験との関係についての彼の最終判断なのである。ジャッケンドッフと同様に、科学と人間経験は分離し、それを再び結びつける方法はない。このような状況は、西欧文明の苦境に対するニーチェの百年前の診断をまさに例証している。われわれは、真実ではありえないと知っているものを信じるように強制されている(運命づけられている)のだ。
かくも詳細にミンスキーとジャッケンドッフの著作について論じているのは、いずれもそれぞれのやり方で、われわれが対峙している苦境をはっきりと表明しているからだ。実のところ、ミンスキーとジャッケンドッフは、存在している自己を隠している秘密の奥部屋が脳の内部にあるのだろうと想像したり、量子レベルでの蓋然性と不確定性が自由意思の棲家なのだろうと想定する他の科学者や哲学者たちと違って、この状況から逃げないことで、われわれに多大な奉仕をしてくれているのである。
それでもやはり、提起した課題がやや紋切り調で論じられているのは確かである。ミンスキーとジャッケンドッフのいずれもが認知科学と人間経験の間には架橋不能な矛盾があると論じているからだ。自由な意思はわれわれにはないと認知科学が教えるのに対し、われわれは、そのような信念を断念できない。われわれはそれを抱き続けるように「ほとんど強制されている」のである。これに対し、三昧/覚の伝統は、われわれは決してそれを抱き続けるように強制されては「いない」という。この伝統は、第四の選択肢、つまり自由に関する通常の概念とは根本的に異なる行為の自由に関する洞察力を提供するのである。
P188
仏教の方法はほとんどが自我に対する情緒的な執着を乗り越えることに関わっている。瞑想技術、学究と黙想、社会的な行為、全き共同体の組織化は、この目的に沿って強められ、様々な歴史、心理学的な事柄、および人間社会の事柄が書かれてきた(今日でも書かれている)。何度となく述べてきたように、人間はこのやり方で徐々に自らをまさしく変容させるのである(そして、自らが変容しうることが確信されている)。この世界観では、自我―自己の「意思」決定からではなく、何であれ、自己のない行為から真の自由が生じるわけである。