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2005年 11月 26日
今般、『社会生物学論争史』を読んでみて、高名で有力な科学者でさえも、今でも!、事実の認識と価値の判断の混同(いわゆる自然主義の誤謬)をしている、というふうに私には見える発言をされている、ということがわかってきました。
⇒ 『進化生物学――科学と価値のあいだ』 この問題は、私にとってとっくに解決済みで、すでに自明なことのように思われていたのですが、どうもそうではなく、意外に根の深いところのある、普遍的な問題のようです。 ~~~~~~~ 【例1】 A 生物や人間には競争があり、優勝劣敗が自然の姿である。 → 優者が栄え、劣者が衰えるのは当然である。したがって、優勝劣敗は良いことである。だから、優れたものを優遇し、劣ったものは除かれるべきである。 B 生物や人間には競争があり、優勝劣敗が自然の姿である。 → それをそのままにしておくと、社会的、政治的、道徳的に問題であるから、それを放置したり助長したりするのではなく、何らかの社会的政策が行なわれるべきである。 ここでは、同じ前提(事実認識)を基にして、対立する結論(価値判断)が導き出されています。以上の二つの意見は、単に社会政策として対立しているというだけではなく、事実認識と価値判断をめぐって、議論に質的な違いあるように思います。 (なお、私はここで、社会的・政治的に妥当な意見はどちらななのか、というような議論をしようとは考えておりません。) 【例2】 A 人間には戦争をするという本性がある。 → それが自然の姿だから、戦争をすることは当然である。したがって、戦争は肯定されるべきである。 B 人間には戦争をするという本性はない。 → それは自然の姿ではなく、戦争をするのは病的なことである。したがって、戦争は否定されるべきである。 ここでは、違った前提(事実認識)を基にして、対立する結論(価値判断)が導き出されています。でも、事実認識と価値判断をめぐっては、質的に同じ議論がされているように見えます。どちらも、何がどうであるかという事実の認識と、何をどうすべきかという価値の判断の間に、一直線の関係があるという議論です。 (繰り返しますが、私はここで、社会的・政治的に妥当な意見はどちらななのか、というような議論をしようとは考えておりません。) 【例3】 A 人間には戦争をするという本性はない。 → それは自然の姿ではなく、病的なことである。したがって、戦争は否定されるべきである。 B 戦争は否定されるべき、病的なことである。 → したがって、人間には戦争をするという本性はない。 ここでは、社会的主張としては、同じ内容(価値判断)が述べられています。でも、一方は事実の認識から価値の判断に、他方は、価値の判断から事実の認識にというように、論理の流れとしては逆になっています。 そして、A⇒B⇒A⇒B・・・・というふうに議論を循環させていくと、この議論はその内部では、事実認識も価値判断もどちらもいよいよ強固なものになっていって、疑いのないものになっていきそうです。 一見すると、Bのような議論は明らかに誤りであり、およそありそうにもないように思われます。 【例4】 ・ 戦争は否定されるべき病的なことである。 → したがって、人間には戦争をするという本性はない。 ・ 戦争を助長してはいけない。 → 人間には戦争をする本性があると言うべきではない。 ・ 戦争を助長するようなことを研究してはいけない。 → 人間に戦争をする本性があるかどうか研究してはいけない。 ここではまず、価値の判断をもとに、事実の認識が導かれます。戦争はしてはいけない悪なのだから、戦争をする本性なぞ、そんなものがあるわけはないのです。 次に、事実の認識についての発言が封じられます。さらに、実際はどうであるのか研究することも封じられます。 こういう議論なら、いかにもありそうな気もしてきます。すぐに思い浮かぶ例としては、人種差についての研究や発言、性差についての研究や発言、・・・。 【例5】 A 人間は、現に戦争をしてきたし、している。人間に、戦争をする本性がないとは言えそうにもない。 B でも、戦争はできるならすべきではない。避けられるなら避けた方がいい。 → したがって、どんなときに、どんなふうに戦争が起きているのかえをよく研究し、戦争がどうすれば避けられるのか、よく考えなければならない。 ここでは、二つの前提(ひとつは事実の認識、もうひとつは価値の判断)から、ある社会的主張がなされています。何がどうであるかという事実の認識Aと、それとは独立して、何をどうすべきかという価値の判断Bがあり、そのうえで、ひとつの行動指針(これも事実認識ではなくてひとつの価値判断の部類)が導き出されています。 (なお、私自身は、人間には戦争をする本性がはたしてあるのかどうか、あるとすればいったいそれはどのようなものなのか、確たることは知りません。また、戦争は常に避けるべきことなのか、たとえば、国家や民族の、誇りや独立や存続のための戦争まで否定されるべきものなのか、少なくとも議論がある、ということは承知しております。 もう一度繰り返しますが、私はここで、社会的・政治的に妥当な意見はどちらななのか、というような議論をしようとは考えておりません。) ~~~~~~~ 以上、いささか単純化した戯画のような例え話をしてきました。 さて、私の考えを述べたいと思います。 事実の認識から価値の判断を導き出すことには、論理的に正当化できない誤りがある。事実認識は、基本的に価値判断とは独立させるよう、少なくとも努力すべきだと考えます。 価値の判断から事実の認識を導き出すことにも、論理的に正当化できない誤りがある。基本的な価値判断を、事実認識に影響を及ぼさせないようにすべきだと考えます。 最終的にどうすべきかという実際の行動指針は、事実の認識と基本的な価値判断の双方を考慮してなされるべきものと思います。 > 科学的であるためには、論理的でもなければならない。たとえばある人が、人間とチンパンジーが同一の祖先をもっているなどと考えるのは嫌であり、感情的に到底受け入れることはできないから、信じないと言ったとしよう。信じる信じないはその人の自由である。しかしこのような態度は、事実と論理に従っていないから、科学的であると言うことはできない。われわれは、常にはっきりとした理にかなった考え方によって物事を判断するとは限らず、偏見や利害関係によって偏った判断をしがちである。人間には、問題が解決されるということよりも、自分が望む結果が出ることを期待し、漠然とそうなるだろうと信じてしまう傾向がある。真理をみないで、幻影や虚偽や希望的見解で満足してしまうことも多いのである。そして、ある事象に対して一つの見方を得ると、その見方による説明だけが可能であり、それだけが正しいと思い込みがちである。 ⇒ 『科学的世界観』 第1章 第5節 2 「非科学・反科学・超科学」 さらに、私は次のように考えます。 何かの価値を実現するためという理由で、知らぬが仏、嘘も方便というような態度をとるべきではない。何かを知らないことによって、あるいは知らせないことによって、または、誤ったことを信じることによって、、あるいは誤ったことを信じさせることによって、何らかの価値を守り、あるいは実現しようというようなことは、基本的にすべきでない。何をどうすべきかという価値や目的の実現のために、何がどうであるかを、隠蔽したり偽ったりしてはいけない。 これを突きつめると、知ることにはそれだけで価値がある、それ以外の価値は、それとは独立した別のものである、ということになりそうです。 つまり私は、何がどうであるか、世界はどのようなものであるかを知ることは、何らかのほかの価値の実現よりも優先する、というふうに考えているようです。また、それ以外の価値、社会的・政治的・道徳的な意見の表明からは、できるだけ距離を置こうともしている。 私はどうやら、ある種の主知主義者、ある意味で科学的知の至上主義者なのかもしれません。そういうふうに批判されても仕方がない。 (念のために一言。私は、科学は万能だ、などと考えているわけではありません。) > 世界観というものは通常、世界についての人間の主体的、実践的な態度を内に含むものである。世界や人生について考え、何が最高の価値かという価値観の基準を明確に示すことも、ある場合には世界観の一部と考えられている。人間はいつも、何らかの基準をもとにして判断したり行動したりしている。あるいは逆に、個々の判断や行動を積み重ねることによって、何らかの基準を示し、確立していく。世界観に求められているのは、どのような判断によって行動の選択をしていくかという価値の基準である。そして、価値観をもった自分が主体的に判断して行動するからこそ、人生が展開していくのである。人生を生きていくのに大事なことは、自分が人生の主人公であるという自覚である。自分の行動を、環境や遺伝子や物理法則のせいにするのではなく、自分の責任であると認めることである。人間が生きるということは、自分が日々の行動を主体的に選択していくことであって、行動の経過を因果的に説明することではないのである。 ところがわれわれの科学的世界観は、世界の客観的な知的把握にすぎず、主体性というようなものを一切含まない。科学は、人間の行動も、物体の運動を運動方程式で説明するように客観的に考察し、あるいは大脳の電気化学的状態から、あるいは進化の過程でどのように動機づけられてきたかという見地から、それぞれ理解する。人間の行動は客観現象であり、人間が主体的に行動するという考えは、物質が主体的に運動するというのと同じで、科学的には意味のないことである。主体性というものは、本来的に客観性を公準とする科学とは、決して相容れないものである。したがって科学的世界観は、その枠に留まるかぎりは行動哲学とはなりえない。科学的世界観は、人生をどのように生きるかというような問題についてはまったく無力である。人生を生きるに当たっての明確な価値の基準を打ち立てて、人間の進むべき道を示したり、一定の行動を禁止したりすることはできないのである。人生の目的や善悪がないという前項の帰結は、世界は客観性を持つという、この科学的立場に立つ以上言わば当然の結果である。客観性の立場に立つならば、人間の主体的、実践的な態度というようなものを扱うことは、できないのである。科学のできることは、せいぜいが、ある目的や価値が与えられた場合に、どのような方法がそれがかなう途かを示すことである。 ⇒ 『科学的世界観』 第1章 第2節 科学的世界観の限界 ⇒ 105 『事実と価値』 ⇒ 022 『当為-何をなすべきで何をなすべきではないか』
by nbsakurai
| 2005-11-26 11:48
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