『悪魔に仕える牧師』―― なぜ科学は神を必要としないのか
リチャード・ドーキンス 垂水 雄二 早川書房
P84
しかし、固体がほとんど空っぽの空間だとすれば、私たちにはなぜそれが空っぽの空間に見えないのだろう? なぜダイアモンドは、脆くて、穴だらけのものではなく、硬くて、実質があるように感じるのだろうか? その答えは私たち自身の進化のなかにある。私たちの感覚器官は、体の他のすべての部分と同じように、ダーウィン流の自然淘汰によって、果てしない世代を経て形づくられてきたのである。私たちの感覚器官は、世界が「本当は」どうであるかについての「真実の」像を与えるために形づけられていると考える人がいるかもしれない。しかし、それが、私たちが生き残るのを助ける有益な世界についての像を与えるために形づくられてきたのだと想定するほうが安全だろう。ある意味で、感覚器官がなすべきは、脳が世界についての有効なモデルを構築するのを助けることであり、このモデルのなかで私たちは動きまわるのである。それは、現実の世界についての一種の「仮想現実」シミュレーションなのである。ニュートリノは岩を突き抜けることができるが、私たちにはできない。もしそうしようと試みれば、自分を傷つけてしまう。したがって、岩についてのシミュレーションを構築しようとするとき、脳はそれを硬くて、実質のあるものとして表すのである。まるで私たちの感覚器官が「この種の対象は通り抜けできないよ」と語っているかのようである。これが「実質がある(固体である)」ということの意味である。これが、それらを「固体」として知覚する理由なのである。
同じようにして、私たちは、科学が明らかにする宇宙のほとんどが容易に理解しがたいものであることに気づく。アインシュタインの相対論、量子論の不確定性原理、ブラックホール、ビッグバン、膨張宇宙、地質学的時間の途方もないゆっくりとした動き、こういったことはすべて、容易には把握できない。科学が一部の人を怯えさせるのも不思議ではない。しかし、科学は、そういった事柄がなぜ理解しにくいか、なぜその営為が私たちを脅かすのか、その理由についてさえ説明できる。私たちは飛躍的な進化をとげた類人猿であり、私たちの脳は、石器時代のアフリカのサバンナで生き残るための、細々した世俗の事柄が理解できるようにするためだけに設計されたものなのだ。