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2006年 10月 13日
(いただいたご批評)
○ 科学を離れ、宗教や神学に入っていくことによってはじめて、一般的な価値や道徳、善悪について語ることができるようになるのである。 ⇒ 『科学的世界観の限界』 (第4章 第2節 1) そんなことはない。科学を離れる必要はない。 進化と遺伝子、適応からその安定状態を探り、それによって、人が何をどのように価値とし、道徳とし、善悪としているかを語り、真の安定した社会の在り方、人々の望む世界への道を語ることができる。 ○ 人間の愛を生物学的に説明しても、それで一体何を理解したことになるのだろうかか。 ⇒ 『「私」の存在』 (第5章 第1節 1) もちろん、愛への理解を深めることができる。悠久たる140億年の宇宙史の中で、愛がどのように生まれたのかがわかる。生物進化の歴史を追い、その展開をひもとくことで、愛、勇気、希望、憎しみ、嫉妬それらの相互関係を知り、愛の構造と発達とひろがりを理解することができる。 (科学に語れること) 善悪とは、あることがらは「どのようなものか、どうなっているか」と説明し理解するというようなことではなくて、「どうすべきか、すべきでないか」というものである。善はすべきこと、押し進めるべきことであり、悪はすべきでないこと、阻止すべきことである。そういう善悪の判断というものは、すぐれて文化的・歴史的・相対的・主体的・主観的・個人的なものであって、万人に通用するような普遍的・一般的・超越的・絶対的・客観的な善悪というようなものは本質的にありようもない。 確かに科学は、人が何を望み、何を価値とし、何を道徳とし、何を善とし悪としているか、ということを語ることはできるかもしれない。しかしながら、科学は、人が何を望むべきか、何を価値とすべきか、何を道徳とすべきか、何を善とし悪とすべきかを語ることはできない。死の回避といったものが、感情、本能であり、進化生物学の観点から、遺伝子が生み出す行動の傾向として説明されるということがたとえあったとしても、それは、そのようになっていると説明し理解するということではあっても、そうすべきという意味で善悪を語るのもではない。 善悪について科学に語れることがあるとすれば、それは次のようなことであろう。 ・ ある時あるところのある人々が、何を善とし悪としているか、どのようにしてそれをしているか。 ・ それらのことが、人という生物種のもつどのような本性に根ざしたものか。 ・ 科学以外のところで、人々が何かを価値のあるものとした場合に、それを実現するためにはどのようにすることが妥当で望ましいか。 (科学と検証) 科学の仮説は検証されなければならない。科学には検証というという作業が待っている。以上のような意味での善悪の判断を、いったいどのようにすれば検証しうるのか。そもそも、科学的に検証された善悪の判断、というものがありうるのか。そういう善悪の科学的検証というものを、私はいまだかつて見たことも聞いたこともない。 環境問題の科学研究で、地球環境を破壊すること、例えば、オゾン層の破壊や地球温暖化につながることを、すべきでない悪として語ることはない。環境の科学そのものは、環境破壊で人類が滅びてはいけないとまでは語らない。そういう問題を研究している科学者が、そういう問題意識を持ち、そういう主張をされることは大いにありうることである。しかしながら、それは科学者個人の主張であって、その意見自体が科学の中身であるわけではない。 みんなが環境破壊を悪とすべきだ、と科学は語ることができない。そういうことを科学が語ったとしても、その仮説は科学的に検証のしようがない。これは科学的には検証できないものだ、科学では原理的に扱えないものだ、という意味で、科学が語れることはではない。環境を破壊すべきでない、と科学は語ることができない。たとえ語ったとしても、それは既に科学ではない。 ただし、環境破壊がどのように行なわれているかとか、それをくい止め、地球温暖化を回避するためにはどのようにすべきか、というような研究は科学的に行ないうる。 (結論) 科学は、人が何を望むべきか、何を価値とすべきか、何を道徳とすべきか、何を善とし悪とすべきかを語ることはできない。科学は善悪を決定しないだけでなく、決定することができないし、そもそも追求することすらできない。 「何を善とし悪とすべきかを語る」ものは、もはや科学ではない。科学は、原理的にそういうことは語れない。科学的な外見をもって善悪を語るのは、そのこと自体が既にエセ科学のまぎれもない兆候であると私は考える。 ・ 『当為-何をなすべきで何をなすべきではないか』 http://nbsakurai.exblog.jp/320081 ・ 『事実と価値』 http://nbsakurai.exblog.jp/1828183 ・ 『進化生物学――科学と価値のあいだ』 http://nbsakurai.exblog.jp/3812068 ・ 『事実認識と価値判断』 http://nbsakurai.exblog.jp/3824659 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ これは、一時非公開にしていた、ご批評をいただいた方とのやりとりを、改めて整理してみたものです。 こんなふうにまとめてしまうと、発言時の言葉の流れや勢いというものが失われ、味も素っ気もないつまらない感じのものになってしまって、残念なことではあります。しかしながらお相手の方は、ネット上では議論というものを一切しない方針ということで、このエントリーの削除を希望され、ご自分の文章の部分だけでも削除してほしいというご希望ですので、これも止むを得ません。完全にはご希望にそえませんでしたが、私の発言に対する批判の趣旨は、必要最小限残させていただきました。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
by nbsakurai
| 2006-10-13 00:40
| エリア2 (客観Xと主観Y)
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Comments(2)
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その批評者
at 2006-12-11 17:39
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そのたびは、期待に添えず申し訳ありません。
この問題には重要な論点が二つあり、 一つは、公共の善悪とはそもそも何か、個人の善悪とどう違うのかということと、 二つは、認識論におけるアフォーダンスの問題です。 アフォーダンスの考え方からは、 そもそも我々は事実など認識できず、認識できるのはただ価値だけである、 ということもでき、 すると科学が捉えているのも事実ではなく価値である という考えに到る可能性もあります。 まとまったときには、ブログの方で書こうと思います。 もし本当に興味がおありでしたら、 哲学の認識論や倫理学の本を読むことをお勧めします。 (この文は引用して頂いて構いません)
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nbsakurai at 2006-12-11 21:51
たいへん申し訳ないこととは存じますが、この話題は私にとってはもうこれですっかり済んだことであり、これ以上の論点が何かあるとも思われず、今の私にはほんとうにこれ以上の興味は何もありません。
nbはこれだけの人間だったと思しめして、悪しからず、どうかこれでご了承いただきたいと存じます。
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