カテゴリ
全体 ★ ★ 総 括 ★ ★ ~ ~ ~ ~ ~ ~ 《 過去記事の目次 》 『科学的世界観』のBlog エリア1 (科学の周辺) エリア2 (客観Xと主観Y) エリア3 (ロボットの心) エリア4 (問題の所在) エリア5 (様々な発想) エリア6 (生物学的発想) エリア7 (「空」・「唯識」) エリア0 (Blog 総 括 ) ~ ~ ~ ~ ~ ~ ☆☆ 参 考 図 書 ☆☆ 検索
最新の記事
記事ランキング
最新のコメント
最新のトラックバック
タグ
ファン
ブログジャンル
|
2004年 11月 07日
『仏教「超」入門』 白取春彦 すばる舎
P71 空とは、そこに見えているものには「実体がない」ということを意味している。 ふつうは、実体があるからこそ、そこに物や人が存在していると考える。しかし仏教では、その存在はたんに現象にすぎないのだと見る。 だから、空とは決して存在の「無」を意味する言葉ではなく、実体の無を意味すると同時に現象の「有」を意味している言葉だとなる。 では、そこに実体がないのに、どうして現象が生じているのか。 現象が相互に限定したり依存したりすることによってである。 現象のこの相互依存は、縁起と呼ばれる関係である。縁起によって、現実世界がここに生じているというわけだ。 したがって、縁起がわからなければ、空の意味がわからなくなる。 P73 ところで、物にはすべて実体があるという考えも一方にはある。これを仏教では「常見(じょうけん)」と呼んで、極端だとしてしりぞける。 これとは逆に、実体がないのだから本当に無だという考えもある。こっちのほうは「断見(だんけん)」と呼んで、やはり極端だとしりぞける。 仏教の空の考え方はこの極端な二者を否定しつつ、その中間を唱えるものである。 これを「中道」と呼ぶ。 P78 中世フランスに生きた哲学者デカルトはこの自分、せんじつめていってもこの自分の精神の存在だけは疑うことができないと『方法序説』で述べた。 一方、仏教ではこの自己すら関係性の中にあって、あたかも存在しているように見えているだけであり、自己の実体などというものはないと考える。 P199 表象、すなわち人間がまぎれもない現実だと思いこんだり、見たりしている事柄や物のことだが、この表象は実は外界からきたものではなく、アラヤ識に由来するものだと考えるのだ。 現実世界に存在しているかのように見える表象は、アラヤ識が行動を縁として現象化・意識化されたものだというわけだ。 いっさいはこのアラヤ識にあり、そこから出てきたものが末那識と前六識で現象を構成する。つまり、今ここに見えているもの、ましてこの自己という存在さえ、仮の現象に過ぎないのだという考え方である。 極端にいえば、すべてが夢幻だというのである。ところが、人間はそうは思わない。見えているもの、体験していることは自分の心の無意識から出てきたものだとは決して思わない。自己の存在を疑うことすらしない。 そのようにして、自己こそまぎれもない実体だと考えるときにこそ、自己への執着、すなわち我執が生じ、そこからあらゆる迷いと煩悩が生じていくというわけだ。 そこで、無我というときの我とはこのアラヤ識から生まれた我であると主張するのである。そして、煩悩にまみれたこのアラヤ識が煩悩ゆえに輪廻する。本当はこの現実は空にすぎないと悟らない限り、アラヤ識の輪廻は終わらないということになる。 P203 アラヤ識が輪廻するという唯識学派の説が本当に正しいのならば、人間の核だとされるアラヤ識こそ最後の実体だということになる。これはブッダの無我説にも空の思想にも明らかに反することである。 もしアラヤ識が実体でなくても、今度は輪廻の六つの世界が実体だということになってしまう。人間も物も空であり、いっさいが空であったはずなのになぜか輪廻世界だけが実体だというのはあまりに奇妙すぎる。 こういった点からも、一般に流布されている輪廻は仏教的ではない、むしろ伝統のウパニシャッド的なもの、ヒンズー教的なのもだと分かってくるのである。 P203 空性を知らない無知の状態、いわゆる無明にあってこそ、この妙な輪廻と言う考え方が出てきているわけだ。輪廻は、無知や悟りの外に実在するようなものではなく、無知の中に生まれる概念だということなのである。 だから、悟りを開けば輪廻から解脱できるという言い方の意味は、輪廻をも含んだ迷いの世界から脱することができるということだ。これがブッダの説いた仏教の輪廻観であり、輪廻が実在するとしているのは本来の仏教ではないのである。 追記4: 自己という幻想 ・ 量子論と「空」
by nbsakurai
| 2004-11-07 20:04
| エリア7 (「空」・「唯識」)
|
Trackback(2)
|
Comments(3)
Tracked
from 古畑実の日記帳
at 2005-03-29 14:27
タイトル : 実体がない=絶対でない
仏教の、 特に経典の翻訳を読んでいると、 よく「実体がない」ということばに出くわす。 これを 「○○という会社は、 実体のないペーパーカンパニーだった」 というような意味の「実体がない」ということばと同じだと思うと、 まったく訳がわからなくなる。 仏教や哲学の世界でいう「実体がない」とは、 「実は存在しない」という意味ではなく、 「絶対でない」という意味をあらわすことばである。 講談社の哲学事典・『事典 哲学の木』によれば、 「実体」とは 「それ自体独立で、他のものに依...... more
Tracked
from 酒井徹の日々改善
at 2007-10-24 21:49
タイトル : 白取春彦『仏教「超」入門』について(その1)
――実は驚くほど新鮮で、実際的なブッダの教え―― ■仏(ブッダ)は神様ではない ただ悟った人間である 仏教ほど誤解されている宗教はない。 俗に「神様仏様」などといって、 願い事をお祈りする対象として 「仏様」という存在が捉えられていたりする。 白取春彦さんの『仏教「超」入門』(すばる舎)は、 そのような「これまで安易にイメージされてきた仏教」を見直し、 「本来の仏教」の真髄を伝えようという本である。 本書における著者・白取春彦さんの立場は明快である。 仏教の仏とは...... more
Commented
by
pyonchanz at 2004-12-23 00:23
諸説あるのは存じております。私の学んだところによりますと、空の思想は、執着を離れるための方便だったと。マナ識を空にすること。禅定の1つの目標はそこかと。ここまでを1つの目標にするから、諸行無常...となります。当然、その先があるわけです。そこを空にするとアラヤ識が知覚できる。これが、無我を超えた妙有(みょうう)というもの。絶対的な境地らしいんです。
Commented
by
nbsakurai at 2004-12-27 11:21
私の個人的な発想としては、まず執着を離れたいということがあって、そのための方便として空の思想を研究したい、とかいうふうに考えているわけではないんです。マナ識を空にするとか、無我を超えた妙有とか、絶対的な境地に至りたい、というのを目標としている、ってワケではありません。
なんというか、この世界はどんなふうなもんなんだろうかという疑問があって、それで、空なのか空でないのかを知りたい、っていうような感じです。もし世界が空ではないんなら、空ではないってことを知りたいし、空であるんなら、空であるってことを知りたい、っていうような感じです。 だから空が方便だったりするなら、私としてはちょっとガッカリなんですよね。
Commented
by
nbsakurai at 2005-04-03 13:50
huruhataminoru さん、トラックバックありがとうございます。
この宇宙にあるあらゆるものはそのもの自体として他から独立して存在するのではなく、常にさまざまなものとの関係の中で規定されていると考える。これが、「実体がない」=「空」の思想なのである。 いわゆる「縁起」ということですねよ。 私も同様に理解しています。
|
ファン申請 |
||