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2004年 11月 07日
『人間の本性を考える[上]』――心は「空白の石版」か
スティーブン・ピンカー 山下篤子 日本放送出版協会 (*注:項目名は適宜nbが補足) ○ 心はモジュール方式 P87 認知革命以前には、「知性」あるいは「悟性」といった巨大なブラックボックスが引き合いにだされ、人間の本性についても、本質的に高貴であるとか本質的にたちが悪いとかいう大雑把な断定がされていた。しかし今日の私たちは、心が単一の能力と一律の特性を授けられた均質の球体ではないことを知っている。心はモジュール方式であり、多数のパーツが協同して、ひとつながりの思考や組織化された行動を生みだしている。心はそれぞれ違う情報処理システムを使って、よけいなものをフィルターにかけ、技能を習得し、身体をコントロールし、事実を記憶し、情報を一時的に保持し、ルールの貯蔵や実行をしている。 この話の要点は、一つのモジュールに由来する衝動や習性が、別のモジュールによって、違う形の行動に変えられる(あるいは完全に抑圧される)場会があるということである。 行動は単に発せられたり引きだされたりするのではないし、文化や社会から直接にでてくるのでもない。それぞれが別の課題と目標をもつ心のモジュールどうしのせめぎあいからでてくるのである。 心は普遍的、生成的な計算モジュールからなるシステムであるという、認知革命からでてきたアイディアによって、何世紀にもわたる人間本性についての論争のありかたは根底からくずれさった。いまでは、人間は融通性があるのかそれともプログラムされているのか、行動は普遍的かそれとも文化によってさまざまに異なるのか、行為は学習されるのかそれとも生得的なものなのか、私たちは本質的に善かそれとも悪かという問いは、まったく見当違いの問いになった。人間はプログラムされているから融通性のあるふるまいをする。人間の心には組み合わせ方式のソフトウェアがたくさんあって、思考や行動を際限なく生みだすことができるのだ。行動は文化によってさまざまかもしれないが、行動を生みだす心のプログラムのデザインはさまざまである必要はない。知的な行動がうまく学習されるのは、私たちがその学習をする生得的なシステムをもっているからである。人はだれでもよい動機と悪い動機をもっているかもしれないが、だれもが同じやりかたでそれを行動に移すとはかぎらない。 ○ 存在しない『統一された自己』 P93 認知神経科学者は、幽霊(nb注 「機械の中の幽霊」)を追っ払っただけではなく、そもそも脳には、幽霊が担当しているとされていた役割(あらゆる事実を検討して、脳のほかの部分が実行に移すための意思決定をするという役割)をになう部位がないこともあきらかにした。私たちはみな、すべてを掌握している単一の「私」が存在すると感じる。しかしそれは、視野全体がくまなく細かいところまで見えているという印象と同じく、脳が懸命につくりだしている錯覚である。 神経科学者のマイケル・ガザニガとロジャー・スペリーは、『統一された自己』というものが幻想であることを劇的に例証してみせた。左右の大脳半球をつなぐ脳梁が外科的に切断されると、自己が二つに分割され、それぞれの半球が他方の助言や同意なしに自由意志を行使することを示したのである。さらにとまどいを感じさせるのは、左脳は、左脳の関知しない状況で右脳が選んだ行動の説明を求められると、一貫性はあるが間違った説明をでっちあげるという事実である。 気味が悪いのは、分割脳患者の左脳で起こるでたらめの生成と、私たちが自分の脳のほかの部位から生じる意向の意味を解釈するときのふるまいに違いがあると考える理由が何もないことだ。意識のある心(自己あるいは魂)は、スピンドクター[ある党派に都合のいい解釈をする代弁者]であって、総司令官ではないのだ。ジグムント・フロイトは、「人類は、科学の手による、素朴な自己愛に反する三つの非道な行為を耐えてこなくてはならなかった」と書いた。三つとは、私たちの世界が天球の中心ではなく広大な宇宙の小さな点にすぎないという発見、人間は特別に創られたのではなく、動物の子孫にすぎないという発見、そして意識のある心は私たちの行動を支配しているのではなく、行動についてあとづけ的な話をしているにすぎない場合がよくあるという発見である。このような衝撃が重なったという点はフロイトの言うとおりだったが、三つめの打撃を決定打にしたのは、精神分析ではなく認知神経科学だった。 ○ 遺伝子は「すべてを決定」したりしない P102 最近では、差異を生みだす遺伝子の一部が突きとめられている。FOXP2と呼ばれる遺伝子はヌクレオチド[糖、リン酸、塩基からなるDNAの構造単位]が一つちがうだけで、発話・言語に遺伝性の障害を起こす。これと同じ染色体にあるLIMキナーゼ1(LIMK1)という遺伝子は、空間認識能力に関するニューロンが成長するときに見られるタンパク質を生産する。この遺伝子が欠失していると、知能が正常であっても、物を組み立てる、積み木をならべる、図形を模写するといった作業ができない。ある型のIGF2R遺伝子は一般知能の高さに関係しており、IQスコアの四ポイント、正常な個人のあいだに見られる知能のばらつきの二パーセントがこの遺伝子で説明できる。平均的な型よりも長いD4DRドーパミン受容体遺伝子をもっている人は、スルルを求めて飛行機から飛び降りたり、凍った滝をよじ登ったり、知らない人と性的関係をもったりするような人である見込みが高い。第十七染色体上にあるセロトニン・トランスポーター遺伝子のプロモーター領域[遺伝子の転写を調整する領域]が短いタイプだったら、社交の場でだれかの気分を害するのではないか、間抜なふるまいをしてしまうのではないかといった不安におちいりやすい神経症ぎみの人である見込みが高い。 このように単一の遺伝子が重大な結果を起こす事例は、遺伝子が心におよぼす影響の劇的な例だが、代表的な例ではない。心理学的な特性のほとんどは、単一の遺伝子がおよぼすはっきりした重大な影響の産物ではなく、ほかの遺伝子の存在によって調整を受ける多数の遺伝子の小さな影響が重なった結果として生じる。 P103 遺伝子が心に影響をおよぼすとしたら、あらゆる細部まで決定するに違いないと心配する人がときどきいるが、それは二つの理由からまちがっている。第一に、遺伝子の影響の大半は確率的である。一卵性双生児は全ゲノムを共有しているが、ある特性を一人がもっているとき、もう一人もそれをもっている見込みは、通常、五分五分にすぎない。行動遺伝学者の算定によると、ほとんどの心理学的特性は、ある環境内のばらつきのうちおよそ半分が遺伝と相関しているだけである。 遺伝がすべてではないというもう一つの理由は、遺伝子の作用は環境によって変わるという理由である。どんな遺伝学の教科書にも簡単な例がのっていると思う。品種のちがうトウモロコシを同じ畑で育てると、遺伝子のちがいによって背丈にちがいがでるが、同じ品種のトウモロコシをちがう畑(片方は乾燥した畑、片方は灌漑した畑)で育てた場合も、環境の違いによって背丈にちがいがでる。
by nbsakurai
| 2004-11-07 20:09
| エリア6 (生物学的発想)
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