科学的世界観のblog
2024-02-08T14:07:24+09:00
nbsakurai
『科学的世界観』 -- 科学的知識に基づく世界の統一的把握とその帰結及び限界 --
Excite Blog
この blog の構成・順序
http://nbsakurai.exblog.jp/32282834/
2023-11-14T09:22:00+09:00
2024-01-26T20:45:48+09:00
2022-09-15T12:14:15+09:00
nbsakurai
★ ★ 総 括 ★ ★
この blog の構成・順序
◉ 『意識 (自己) というイリュージョン』
◎ 『追記1: 自然法則・予測可能性・自由意志』◎ 『追記2: ヒトの現状 ・ ヒトの近未来』◎ 『追記3: 「自由意志と責任ある主体」という虚構』◎ 『追記4: 「自己」という幻想・ 量子論と「空」』
◎ 『補足1: 仏教哲学と瞑想実践』◎ 『補足2: ヒトは象使い ・ 形而上学的な問い は 疑似問題 ?』◎ 『補足3: 人工物による生命・意識の実現性の問題』◎ 『補足4: 自己の物語り』
○ 『休眠中』 ( 約 14年間 )
○ 『科学的世界観のBlog の 目次』○ 『引用した参考図書の目録』○ 『その他の参考図書・その後の参考図書』
◯ <・ それ以前の個々の記事 ・> (2008.7 以前)]]>
意識 (自己) というイリュージョン
http://nbsakurai.exblog.jp/32010400/
2022-10-13T00:00:00+09:00
2023-10-23T14:46:03+09:00
2022-07-07T15:00:24+09:00
nbsakurai
★ ★ 総 括 ★ ★
赤いリンゴを見て、それが赤いリンゴであると知覚する。 光の波動である電磁波には、振幅の激しいガンマ線から、波長の長いAM波まで、実に膨大な帯域幅がある。 そのうちヒトに感覚できるのは、可視光と呼ばれる極めて狭いごく一部分に過ぎない。 その(赤い)リンゴは、届いた電磁波を透過・吸収・反射するのみである。 分子・原子・素粒子と光の量子である光子とが、ミクロレベルで相互作用している。 ヒトの目の錐体細胞には三種類あり、それぞれが受けた可視光を電気化学的な信号に変換して視神経に送る。 そこで行われている生理現象も、物理・化学的な相互作用にほかならない。 以上のどこでも「赤さ」には関知していないという意味で、赤はイリュージョンである。 文字通りの意味では、色も音も臭いも味も、自分の外の世界のどこにも存在していない。
これらの物理・化学的な相互作用と、このようなイリュージョンとはどのような関係にあるのか。 理解不能な驚異のミステリー、随伴現象説、ホムンクルス・デカルト劇場、脳細胞のマイクロチューブル説、量子の未発見の属性、多数のエージェントの競合、モジュール仮説、多元的草稿モデル、社会的脳、ソマティック・マーカー仮説 高度なネットワーク、コネクショニズム、創発説、ニューロンの発火同期、物理的記号仮説、統合情報理論、グローバル・ワークスペース理論、・・・。 様々な理論や説明が提唱されてきてはいるものの、それらの全体を見通しよく整理することもなかなかに困難な状況。
根本理論は確立されていないようであり、そのような理論が原理的にありうるのかも、五里霧中。 素粒子物理学における標準模型、分子生物学におけるセントラル・ドグマのようなものは、意識についてはできていない。 誰もがそれぞれの発想で、もっともらしいことを好き勝手に言える状況にある、と口の悪い人なら言うかもしれない。
これを、意識のハード・プロブレムと呼んで、重大視する立場もあるようである。 それでも、そこに赤いリンゴがあるという認知は、ヒトの実践という点で大いに有用である。
この世界の膨大で雑多な情報の中から、ヒトの生存に役立つ情報をうまく拾い出している。
赤外線をみるのが適応的なマムシのような生物は、それを感知するように進化したし、紫外線を見るのが有利なモンシロチョウのような種は、そのように進化した。 ヒトが見ている世界と、コウモリがみている世界は、もちろん違うだろう。
音や臭いや味等についても同様である。
生物としてのヒトは、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、皮膚感覚、体性感覚、内蔵感覚等から、時々刻々、電気化学的な信号として、ビット数換算で実に膨大な情報を得ている。 ヒトは、それらの情報すべてを一ヶ所に集め、統合して瞬時に処理するような、超高速・超高度の集中処理機能はもたない。 そのような中枢処理センターは、ヒトの身体や脳のどこにもない。 いかなるトップダウン式のコントロール・センターもない、並列分散処理のシステムになっている。 脳の中にたとえ精霊やホムンクルスがいたとしても、中央制御室に陣どって采配を振るうようなことはできない。 ヒトの意識は、統合された単一のプロセスではないし、確固たるひとすじの流れでもない。
情報のほとんどは多元的に各所で、多層的に、自動的・無意識的に処理されている。 ヒトのほとんどの判断、決定、行動は、慎重な検討のうえで意図的にではなく、無意識のうちになされている。 いわゆる心のおもむくまま直感的に行われ、どうしてそうしたのか自分でも実はよくわかっていないが、問われると後付けでもっともらしく理由を答えて納得したりする。 ヒトは必ずしも、常に充分な熟慮に基づいて行為を選択する、合理的行為者ではない。 かつての正統派経済学が前提としていた、合理的経済人という仮設も、心理学的な行動経済学によって、すでに粉砕されている。
それらの処理され行われたなかの、限られたごく一部が、断続的に意識に昇る。 意識しない方がうまくやれることは多々あり、 意識を統一して何かに集中しようとしても、次々と雑念が勝手に浮かんできて、まるでコントロールできなかったりする。 ヒトは途方もなく複雑な機構で構成されており、その込み入った詳細に直接アクセスして、見たり感じたりすることはできない。 それらが選別・捨象・解釈・補完・加工・要約・圧縮・簡略化されて、創作された模式的・象徴的な構築物が得られるのみである。 意識に昇る際には都合のいいように編集され、補正され、忘却され、後付けで作話されたりもする。 自分の特別で個性的な独自の判断・行動をしているつもりでも、よくよく遡って検討してみると、 生物進化や社会の文化的進化、教育や学習や経験、さらには広報・宣伝やプロパガンダその他の情報操作等によって、 自己のあずかり知らないところで、実は(外部からも)動機づけされて、判断・行動しているかもしれない。
意識は、身体・神経系・脳の活動を漠然とモニターして得られる、単純で曖昧な粗いイリュージョンである。 まず世界がソコにあって、それをヒトが認識するというのではなくて、そうやって意識が造り出したものが、ソコにあるかのようにヒトに認識される。 内分泌器官から放出されるステロイドのようなホルモン、神経末端から放出されるオキシトシンのような神経内分泌からも影響を受けている。 知覚は、生物としての生存に適するよう、近づく・避ける、好き・嫌い、快・不快、渇望・忌避というような情動と絡み合って、ヒトの認知になる。
ヒトの世界はそのようにして構成されるものなので、個々のヒトによってその中身が異なってきても仕方がない。 ヒトは、同じ世界に住んでいるのに世界の見方が異なるというのではなくて、それぞれが構成した別々のイリュージョンの世界の中に、それぞれが住んでいると思っている。 自分が住んでいる(と思っている)世界では、これが正しいこと(正義)だと思っても、アノヒトが住んでいる(と思っている)世界では、そうではないかもしれない。 イリュージョンどうしを比べて、どっちが正しいかと問うてみてもあまり意味はない。 でも、ついついそれをやってしまう。
それらのイリュージョンには、リアリティーがあり、実用的価値もある。 それを持たないと、事実上、社会生活を円滑に営むことができない。 ヒトが誕生して一人前の成人に発達するには、自我の確立も欠かせない。 自分探し、自分らしさ、自分を大切に、自己に忠実にとか、自己実現と言われるようなこともある。 自伝的記憶、ツジツマのあった自己の物語りが要請される。 それがたとえ、リアリティーのある、フィクションないしはファンタジーであったとしても。 また社会的動物であるヒトは、回りの他者にも、自己と同じように人格をみて、心的状態を類推して理解する。 他者の知識、信念、思考、感情、意図、目的などを直感的に推定し、それに基づいて、他者の行動を予測したり、協力したり妨害したり、操作しようとする。 ヒトは進化的に、他者の心の状態を推測・理解する能力である、素朴心理学・通俗心理学を授けられている。 これは学問の世界で、″心の理論″と呼ばれているようだ。
こうしてヒトは、自己という幻想、自己の周りの世界についての幻想、自己を意図的にコントロールしているという実存幻想、をもっている。 このような自己意識には、自然淘汰を潜り抜け生存・繁殖に資する、進化的価値があるらしい。 進化は、生物の福利厚生や幸福それ自体には関知しないが、生存・繁殖に役立つ特性を事実として可能な限り、自然選択によって実現していく。
ヒトの遺伝的・文化的進化によって、意識はホモサピエンスに造り付けになっている。 これらは造り付けになっているので、その内容にたとえ不合理なところがあったとしても、ヒトはそれから完全に逃れることはできない。 むしろあまりに当然に思えるので、疑問の余地のないものとして、それに反する発想を無条件に排斥したりする。
さらにヒトは、現象的意識を持つことを満喫する、自分が現象的意識をもって生きている世界を愛する、現象的意識を持っている自己を尊ぶ、ということができる。 自我のアイデンティティー、センス・オブ・ワンダー、オンリー・ワンの自尊感情。 生きる喜び、生きる意味、より良く生きようとする意志、勇気と希望か湧いてくる。 そういうことができれば、それができないよりも、自然淘汰・進化的に有利なことがある。 よって、そのような現象的意識、生の讃歌が、ミームとして繁殖しがちになる。 生きてるって素晴らしい。 科学がなんと言おうと、それらの尊厳を守り抜こうと。
以上は、現象的意識の楽天的なところである。 それらがうまくできれば、まことにおめでたい。 しかしヒトは、常時そのようにしていられる、恵まれた成功者ばかりとは限らない。 そのようにできないものは結果として淘汰される傾向にある、ということを、これは含意している。 ヒトは、そのようにポジティブであったり、その対極のネガティブになったりする、ということもある。
普通は、鬱の人は物事をネガティヴに考え過ぎている、と思われている。
実は、普通の人の方がちょっとポジティヴに考えていて、むしろ、鬱の人の方が物事をより正確にとらえているという、抑鬱リアリズムという見方がある。
実際、車の運転能力や指導力、道徳心等についてアンケートをとると、自分は平均以上と考えている人が、半数を大きく上回るらしい。 ヒトの、自己を肯定的に知覚し、自己の将来を楽観的に構想し、自己のコントロール能力を高く評価するこの傾向は、ポジティブ・イリュージョンと呼ばれているようだ。 物事を前向きに、ポジティブに考えていれば成功のチャンスは増すかもしれないが、
いつかは、思ってもいなかった想定外のことにぶつかって、なんでこの私が・・・、と大いに苦悩することになるかもしれない。 ポジティヴな自己の物語りが破綻して、人や自己に語れなくなったとき、人生の危機を迎えるのかもしれない。 現象的意識が、不安、憂鬱、絶望、暗い闇、実存の苦悩をもたらすということがある。
またそこには、科学的な世界観とうまく整合しない、様々な哲学的難問が生じる。 クオリア、物質と精神、脳と心、心身二元論、客観と主観、自然法則と自由意志、非物質的な不滅の魂、・・・。 現象的意識と科学的な自然観には不整合が生じ、なかなか両立させがたい。 そうではあるが、そのリアリティーや、生きていくうえでの実用性は、科学に勝るとも劣らない。 例えば、次のように考えていても、支障なく生きることはできるだろう。 この世には上下があり、下には不動の大地、上には天の世界がある、 天の太陽は地上の生き物に恵みをもたらすために東から昇り、夜に休息をもたらすために西に沈む、 物は静止いているのが本来のあり方で、動かしても力を加え続けなければ静止する、 物は持ち上げても地に落ちようとし、重いものほど早く落下する、 この世は、地・水・火・風の4元素でできており、それとは別に、生き物には生命力があり、ヒトには魂がある、 この世には創造主がいて、すべての物事に何らかの意味や目的がある、 その中でヒトはある種の特別な、特権的地位にある、 でも悪いことをすると、バチが当たる、・・・。 また科学・工学の成果を利用するのに、科学的な世界観を受け容れる必要はない。 むしろ最新の情報機器が、新たにイリュージョンの生成・模倣・複製・繁殖を助長したりもする。 非科学的な幻想・信念のもとでアクティブに科学的活動に取り組み、成果をあげるということもあるようだ。
ヒトは、多かれ少なかれ、意識という幻想による、それぞれのバーチャル・リアリティーの中に生きている。 幻想にまみれた、五感、知覚、感情、想い、人生経験、概念、意味、評価、常識、正義、人格、自由意志、責任、人生観、魂、老、死、神仏、あの世、死ぬと星になる、千の風になる、・・・。 それらと、科学的な自然観・宇宙観とに折り合いをつけていくのは、至難の技かもしれない。 ヒトはおそらく、そういう自己の物語りを更新しつつ、常に現象的意識をもって、実存的に、生きていく以外に為すすべがないのだろう。 そしてそれで、日常の生活に特に大きな問題も生じさせず、どうにかうまくやっていける。
ヒトの創造主である進化にとっては、とりあえず生存・繁殖さえできれば、それで差し支えない。 ヒトは、真の実在を知覚するように進化したのではなく、適応的な行動に繋がる、有用な知覚が得られるように進化してきた。 その中身がたとえ錯覚や虚構であっても、生存・繁殖に役立てばそれで構わない。もしも害になるものであれば、いずれ淘汰される。 現在のヒトは、そうやって生き残ってきた生物の子孫である。 また、進化ではマッサラな状態から新たに設計し直すことはできず、既にあるものにアドホックに変更を加えたり継ぎ足したりしていくことになるので、 ヒトの脳神経系もツギハギだらけで、スッキリとした構造できれいに機能を果たしている、とは言えないようなものになってもいる。 そのせいでごちゃごちゃしており、リバースエンジニアリングも困難である。
この世界は、ヒトが見たり感じたりしている、その通りのものではないが、
当面する事態にすぐには役に立たない、真実の追求にじっくりと時間やコストをかけたりしていては、生存・繁殖に不利になり、淘汰されかねない。 生物進化に、長期的視点にたった、深慮遠謀はない。 完全でなかろうと、混乱していようと、虚構であろうと、論理的に一貫せずに矛盾していようと、さらには、大いに苦悩しようとも。 その場その場の状況に応じて、結果的に適応的な振る舞いができれば、それで足る。
進化は、適応的行動を導くようにヒトの知覚を造ってきたのであって、真実を見るようにではない。 創造主にあえて逆らう必要も、ないのではないか。 真実など追求しなくとも生きていけるし、知らないでいる方がむしろ生きやすく、気分も軽快で楽しいかもしれない。 イリュージョンでもバーチャルでも、そんなことは気にせずに、まさに見たり感じたりしているその通りの世界の中で、 自己の物語りを大切にしつつ、真摯に生きて楽しく過ごせれば、まさにそれが適応的で充分に満足できる、充実した人生というものなのではないか。 実感・素朴・常識的な世界の見方で幸せに楽しく人生を過ごせるなら、周りがとやかく取り沙汰することもないかもしれない。
それでも、それらが移ろいやすいイリュージョンであることに変わりはない。 そこに実体・本質・それ自体・イデア等を認めて問いをたてても、答えはやはりイリュージョンの世界の中でのお話し、ということになりかねない。 仏教哲学にも、無我とか無常とか空とかいうことがあるようだ。 自己や世界の事象を実体とみる、無明に基づく戯論。 そういうものに執着することが、苦を招くとか。
〇 『裸のサル―動物学的人間像』 デズモンド・モリス 1969/11/1https://amzn.asia/d/igmJW8F
〇『偶然と必然―現代生物学の思想的問いかけ』 ジャック・モノー 1972/10/31https://amzn.asia/d/2wCmk9W
〇『私という他人―多重人格の精神病理』 C.H.セグペン H.M.クレックレー 1973/8/16 https://amzn.asia/d/3uetn7V (文庫版)
〇 『利己的な遺伝子 』 リチャード・ドーキンス 1991/2/28
https://amzn.asia/d/bDxKQfQ旧 『生物=生存機械論―利己主義と利他主義の生物学』 リチャード・ドーキンス 1980/3/1 https://amzn.asia/d/fGpVLUX
〇『モラル・アニマル』 ロバート・ライト 1995/9/1 https://amzn.asia/d/9rzjHcA
〇『脳のなかの幽霊』 V・S・ラマチャンドラン 1999/7/30https://amzn.asia/d/945T648
〇『生存する脳ー心と脳と身体の神秘』 アントニオ・R・ダマシオ 2000/1/1https://amzn.asia/d/gRabDCV 〇 『デカルトの誤り 情動、理性、人間の脳 』 アントニオ・R・ダマシオ 2010/7/7 文庫版https://amzn.asia/d/2uXoWZl
〇 『科学にわからないことがある理由 ― 不可能の起源』 ジョン・D.バロウ 2000/4/1 https://amzn.asia/d/f1qgl8l
〇 『人はなぜ感じるのか?』 ビクター・S.ジョンストン 2001/6/1 https://amzn.asia/d/hXQR2IM
〇 『身体化された心―仏教思想からのエナクティブ・アプローチ』 フランシスコ・ヴァレラ 2001/8/10 https://amzn.asia/d/7LT1l2P
〇 『意識する心―脳と精神の根本理論を求めて』 デイヴィッド・チャーマーズ. J 2001/12/1 https://amzn.asia/d/aGYBd7G
〇 『ユーザーイリュージョン―意識という幻想』 トール・ノーレットランダーシュ 2002/9/1https://amzn.asia/d/9Zt5yom
〇 『自我が揺らぐとき―脳はいかにして自己を創りだすのか』 トッド・E. ファインバーグ 2002/11/27 https://amzn.asia/d/0LZxNrQ
〇 『マインド・タイム 脳と意識の時間』 ベンジャミン・リベット 2005/7/28https://amzn.asia/d/aTPFYif
〇 『心は遺伝子の論理で決まるのか-二重過程モデルでみるヒトの合理性』 キース・E.スタノヴィッチ 2008/12/19
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〇 『つぎはぎだらけの脳と心―脳の進化は、いかに愛、記憶、夢、神をもたらしたのか?』 デイビッド・J.リンデン 2009/9/1 https://amzn.asia/d/gAQq3tk
〇 『意識は傍観者である: 脳の知られざる営み 』 デイヴィッド・イーグルマン 2012/4/6 https://amzn.asia/d/aZDXiQq
〇 『〈わたし〉はどこにあるのか: ガザニガ脳科学講義』 マイケル・ガザニガ 2014/8/28 https://amzn.asia/d/4sWiCEW
〇 『超越と実存 「無常」をめぐる仏教史』 南直哉 2018/1/26 https://amzn.asia/d/hMl0ht8
以上のような見方は、大多数の人々にとっては常識に反し、なかなかに受け容れ難いもののように思われる。
それでもある一定数の人々には、このような見方が既に受け容れられているものと思う。
しかしそこではそれが当たり前であえて言う必要もなく、むしろ言わないでおく方が物事が円滑に進められるメリットが、ということもある。
よほど物好きな科学オタク・哲学オタクでもなければ、場の空気を読んで礼儀正しく振る舞おうとする。
この話題にあえて触れて水を注し、ことさらに波風をたてるようなことをしようとは思わない。
ほとんどの場合、言わぬが花、表に出さず私秘しておく、というにことになるのかもしれない。
よって、これがミームとして拡がることはない、ということになるだろう。
ちなみに、私見では、 現在の科学的な世界観には、次のような興味深い課題があるようだ。
・ 多世界解釈のような量子論の解釈問題、・ 超ひも理論のような相対論と量子論を統合する万物理論の問題、・ ダークマター・ダークエネルギーの正体ような宇宙論の問題、・ インフレーション宇宙論から導かれる泡宇宙としてのマルチバース、・ 地球上での生命誕生の経緯及び地球外生命、・ それに、意識のハード・プロブレム、・ ついでに言えば、人工物による生命・意識の実現性の問題。
これらの問題はいずれも、見通せる近いうちに解決される見込みがあるようには見えない。 それでは、これらが解決されると、世界観が実質的にどう変わることになるだろうか。 科学的な世界観にとって、世界についての追加的な理解が得られるという以上の、どの程度の重要性があるのか。 これらに深い興味を持つ研究者等にとっては、大きな謎・重大な問題、かもしれないが、 それまでの世界観がひっくり返るような事態が、起こりうるのだろうか。
世界観に、コペルニクス的転回のような、そんな大きな変更が生じるようには思えない。 特別な大問題扱いをして、大いに気にするほどでもないように思われる。 科学的な世界観は、もうある程度の成熟期に入っていて、より深くなったり豊かになったりすることはあっても、相対的には些細な変更にとどまるような気もしている。 科学の仮説は言いっぱなしではなく検証されることが必要であり、間違っていることが判明すれば否定・排除されることになっているが、 相対論や量子論、宇宙論や進化論が根本から間違っていた、などということは起こりそうもない。 この世界の見方のフレーム・パラダイムが、革命的に変革されるようなことにはならないのではないか、という気がしてきている。 それらにどう決着がつこうと、本質的・根本的には世界観にあまり影響しない。 それが解けると、何かとても素晴らしい世界が顕れてくることを期待できるような、神秘的な光の射す魅惑的なな謎、というわけではないと思う。 ヒトが普通に思っている実感物理学・素朴心理学・常識世界観の上に建てられた、かつての思弁的な哲学や人文学は、実は既に科学によってすっかり足元を崩されてしまっていて、 過去の歴史的遺物として研究する対象という以上の意味は、世界観としてはないように思う。 これこそ探していた究極のものだ、というような賢者の石、錬丹術、聖杯伝説は生まれそうもない。
進化的適応としてのヒトの認知能力との関係について、 ヒトの世界の見方のどこまでが進化というヒトの創造主の支配の範囲内なのかといえば、ニュートン力学の絶対空間・絶対時間あたりまでは、あるいはそうかもしれないとも思う。 しかし、微積分学、非ユークリッド幾何学や相対論の時空、ここまで来ると、生物としての適応という範囲内に収まると、果たして言えるのかどうか。 さらに、クォークや量子論、ビッグバン宇宙論やダークエネルギー、DNAや分子生物学、進化心理学や認知科学、ニューロンや脳神経科学、情報理論や情報工学。 ここまで来ると、ヒトの元々の認知能力が生物進化の賜物ではあるとしても、もはや生物としての進化・適応という範囲内に押し込めておくのには、ちょっと無理があるのではないか。
現在の科学が世界をしっかり正しくとらえているとまでは言えないかもしれないが、少なくともそれに近づいてきているとは言えるのではないか。 ヒトの日常生活の相当部分において、その知覚や認識が、生物としての進化的適応の範囲から大きく出ていないのは確かだとしても、 少なくとも現在の科学的な世界観は、そこにそのまま留まったままではないように思う。 ヒトが進化の過程でこれまで身に付けてきた行動傾向等(狩猟・採集生活時代には適応的であったようなもの)が、 現在の激変した環境世界においても、果たして適応的なのかどうかということも、今では検討されるようになってきている。 例えば、糖分や脂肪分、塩分を摂ることができる貴重な機会を逃さずに貪る必要はなくなっているし、補食動物や毒を持った蛇を常に警戒する必要も既になくなっている。 それでも、しない方がいいことを、分かっちゃいるけど止められなかったり、知らないうちにいつの間にかしていたり、気づいたら陥っていたり。
ヒトは、そのような意識が、創造主によって与えられたイリュージョンであることに、気づくことができる。 ヒトは、真実の追求にウツツをぬかしても、生存・繁殖に差し支えないほどに文化的に進化し、それを活用してこれほど大いに繁栄している。 むしろ、最近の科学技術のまるで魔法のような目覚ましい進展は、科学的世界観の有効性・妥当性を示している、とも言えそうである。
ヒトは、進化という創造主の専制支配に抗うことが、決してできないというわけではない。
自由意志というのは、自然法則を破って奇跡を起こす力のことだろうか。 それとも自由とは、自己と世界というイリュージョンの中で、その欲することを為しうることであろうか。 ただただ心の赴くままフィーリングで行動することが、自由だと考えるとすれば、 それは、遺伝的・文化的進化という創造主に与えられた、造り付けの意識に支配・操縦される操り人形として振る舞うことが、自由だと言ってることに等しい、
というふうに言ってしまうと、あまりに単純化した極端な決めつけになってしまうだろうが、自由というものについて、改めて考えてみやすくはなるかもしれない。 自分の意識に巻き込まれないで、少し離れてじっと観察してみると、へぇー、自分の意識ってこんな風にうごめき、過去や未来にさ迷っていていたんだ、ってことに気づくかもしれない。 格言的に言うならば、『心の師とはなれ、心を師とせざれ』とでもいうところか。
また、幻想の積極的機能について、 自己という幻想は、社会生活でなくてはならないほどに機能している。
ヒトの社会で権利・義務の主体となりうるのはヒトのみであり、擬制的に人として権利能力が認められている法人では、それを行使するのは代表するヒトということになっている。 ヒト以外の生物は、権利も義務もない、モノである。 したがって、首輪で繋いだり、檻に入れて展示したり、実験動物として自由に使ったりしてもよい。 ヒトを監禁すれば罪になり、人体実験は人道に反し、倫理的に許されない。 かつてはヒトの一部も、奴隷として、使用・収益・処分の対象となる、モノであった。 本来のヒトは、モノではない特別な何かである、と思われている。
民法では個人の意思表示が法律行為の基本で、意思能力がなければ、例えば認知症高齢者や未成年者の場合のように、法律行為が無効になったり制限されたりする。 刑法では個人の自己制御が責任能力の前提で、心神喪失状態にあれば免責され、さらに故意の有無が問題になる。 ヒトに自己という実体がなく、豚がそう思われているように、遺伝や環境や自然法則に従っていると考えることにすれば、そのような前提が崩れてしまう。 ヒトのどんなことも、例えば、遺伝子異常の DNA 検査結果を示したり、脳の fMRI 画像を示したりして、それはこのためであると説明するようになったらどうだろう。 脳にできた腫瘍により、扁桃体が圧迫・刺激されて犯罪行為に走っていた者が、 悪性腫瘍を手術で取り除いたら、元の正常な状態に戻ったとした場合、行為の責任を問うべきだろうか。 自然法則に基づく世界観を受け容れると、それまでの常識的な世界観における自由意志の概念は、それをそのまま維持するのが困難になる。 科学的な世界観を受け容れた哲学者等の中には、自然法則と自由意志をなんとか両立させようとしている者もいるようだが、 それらの新たな自由の概念が、はたして充分にうまく機能していると言えるのかどうか。
社会生活を成り立たせ、未成年者や高齢者を保護したり、社会に不都合なものを、排除したり隔離したり教育したりすることは必要かもしれないが、 自己というヒトの人格に対する非難や称賛は、イリュージョンに基づくということになる。 まず道徳というものを社会的に構築し、道徳的に正しくない行為をするヒトを非難に値するものとし、模範的に行為するヒトは称賛に値するものとみなす。 それによって社会の秩序を維持しようとする。 でも例えば、胎児の生まれてくる権利を守るのが道徳的なのか、妊婦の自己決定権を尊重するのが道徳的なのか、一意に倫理・道徳を決めることができるだろうか。 同性愛や死刑制度、安楽死についても、歴史的・文化的に揺れがある。 そうすることが、問題や矛盾を抱えているとしても、ヒトという生物にとって適応的である、とは言えるかもしれないが、 ヒトは、そういうバーチャル・リアリティーの世界に生きている、ということも言えるだろう。
それでは、マネー、会社、株式、巨人軍、家族・親族、仲間、世間、ルール、民族、国家、主権、・・・は、どうか。 そういうものが存在するという前提で、人の社会が機能し、協力関係を築いて発展してきた、という面があるようだ。 Qアノン、大東亜共栄圏、英連邦、・・・などは、幻想っぽい。 ドル、EUヨーロッパ連合、UN国際連合、・・・などは、どうか。 Amazon、ニューヨークシティ、国民国家日本、・・・などは、実在っぽいかもしれない。 クレジット決済やネットバンキングで使われる日本円と、バーチャルな仮想通貨の間に、何か本質的な違いはあるか。 これらをバーチャル・イリュージョンとしてとらえたとしても、それらが何らかの機能を果たしていることは、認めざるを得ないのではないか。
ただ、人の命は地球より重い、とか、地球に優しく、とか、我が巨人軍は永遠に不滅です、とかいうような、ある種ほほえましいとも言えるもの以外に、
自分たちは神に選ばれた特別な民族であるという、ユダヤの選民思想、 神の似姿に造られたヒトが神と新たな契約をしたとする、新約聖書の思想、 キリスト教徒が約200年に渡って聖地奪還のため東欧・中近東に遠征した、十字軍、 帝王の権威は神に基づくという、王権神授説、 白人には野蛮人を文明化する責務があるとする、白人の明白な使命、 ヒトには生まれながらに他の動物等にはない神聖・不可侵の権利があるとする、天賦人権思想、 各国には独立した至上で恒久的な絶対の支配権威があるとする、国家主権思想、 偉大なローマ帝国による平和、パクス・ロマーナ 太陽の没することのない great Britain、大英帝国、 ギロチンを活用した自由・平等・博愛の、フランス革命とナポレオン戦争、 優秀で高貴なアーリア民族が世界的使命を達成する、ドイツ第三帝国、 万世一系の天皇を擁する尊い国体の、神国日本、 Yes We Can はともかく Make America Great Again、 世界に冠たる歴史ある、偉大な大国ロシア、 漢民族のクニは天下の中心であるとする、中華思想、・・・などということになると、ちょっとどうなのか。
ヒトの社会は、多くのバーチャル・イリュージョンのうえに成り立っている。 それらは機能を果たしているとしても、イリュージョンであるという認識を、頭の片隅に置いておくのもアリかもしれない。 ヒトが生まれて育っていく世の中での日常生活から自然に身に付いてきて、当然で当たり前だと思ってしまっている、 実感物理学・素朴心理学・常識世界観は、実はイリュージョン・フィクションであり、 それがヒトのデフォルトで造りつけになっているものであっても、それを疑うことが難しくても、生活実践の場で役に立つことがあっても、 それはバーチャル・リアリティーなのかもしれないと、頭の片隅に置いておくのもアリではないか。 堅固な実体として当然にあるものではないので、守りたければそれなりの覚悟や知恵や労力がいるが、 何か特別な本質のある実体とみなし、かたくなに固執したりすると、煩悩として混乱や惑いや苦悩が生じ、悲惨な結果を招くこともありうるだろう。
ついでに、メタバースについて、 これは、universe (宇宙) をmeta (超) で造ろうというつもりのものなのか。 発想としては、サイバー・スペース、VRバーチャル・リアリティ、一時話題になったセカンド・ライフなどというものの二番煎じとでもいうべきもので、特に目新しい革新的な概念だとも思えない。 これが首尾よく技術的・商業的に大いに発展して、臭いや味や触感等も魅力的に再現できるようになって、バーチャルな世界が大いに繁盛したとする。 そこでは、V交流やV恋愛、Vエンターテイメントだけではなく、V企業に登録して好きなときに働くことができ、Vマネーを使って、V商店街で買い物ができ、V不動産投資も、V株式投資もできる。 V科学者がいて人々の願望を次々にかなえ、V心理療法師もV宗教家もいて、VジャーナリストやV哲学者、ネット依存症のV治療医まで、いるかもしれない。 もちろん、エセバースではないので、V飲食店もVトイレもVホテルもあり、V飲食もV排尿・排便もV子造りも、できるようになっている。
ヒトがそこで大いに遊んだ後、ヘッド・マウント・ディスプレイをはずして「現実」の世界に戻ったとき、どういうことが起こるのか。 ここも実はバーチャルな世界なのではないか、ということに気づくことになるかもしれない。 大部分の時間をVRで過ごすようになり、VRのリアリティーの重みが増していって、それ以外の時間はほとんど寝るだけ、ということになったりすると、
荘子の胡蝶之夢のように、どっちが「現実」なのか判然としなくなる。 メタバースが社会的批判もものともせず、叡知を結集してそこまで懸命に頑張ってくれれば、
ついには、このリアルな世界も実はバーチャルなのではないか、と気づくことになるという。
さらにおまけの付録として、この世界・この宇宙の遠い未来について、
・ 日本列島
プルームテクトニクス・プレートテクトニクスにより、隆起・沈没・大陸との衝突等により、いずれは消えてなくなる。
・ 地球
現在の太陽は主系列星の段階にあるが、いずれは燃料である水素を燃やしつくし、膨張して赤色巨星になり、地球は溶かされて高熱に飲み込まれる。・ 太陽系 太陽はやがて燃え尽きて白色矮星になり、太陽系は暗く静かでまるで目立たない、存在感のないものになる。
・ 銀河系
われわれの銀河系は、やがてアンドロメダ銀河と衝突・合体して、いずれは消えてなくなる。
・ 銀河
宇宙は加速膨張しており、遠くの銀河から次第に視界(宇宙の事象的地平面)から消え去ってゆき、最後には重力で固まったひとつの銀河だけになる。
・ 宇宙
熱力学の第二法則・エントロピーの増大により、インフレーション・ビッグバンで始まったこの宇宙は、熱的死 (ビッグ・フリーズ) を迎えて終わる。
どこまでホントか判らないが、現在の科学的な世界観によると、どうもそういう、あまり楽しくないことになるらしい。 これだと、意識(自己)ばかりでなくあらゆることが、究極的にはすべてつかのまの、はかない夢幻のようにも。
逆に、これまでの宇宙の歴史について、人中心の視点で年表を作るとすれば、
この宇宙ができてから、138億年
太陽系・地球ができてから、46億年
地球上に生命が誕生してから、40億年
初期猿人が誕生してから、7百万年
現生人類が誕生してから、せいぜい3十万年
狩猟・採集生活から農耕・牧畜生活に変わって、せいぜい12千年
科学革命・産業革命で工業社会になってからは、せいぜい3百年
人新世と呼ばれるような実態に気づいてからは、せいぜい数十年
概略的に言えば、ざっとこんなところかな。
生物進化というものは他の生物や環境との関係で常に暫定的なものであり、これで終わりということはない。 地球ができた当時の地表は高熱のどろどろに溶けた状態であり、 大きな惑星の衝突(ジャイアント・インパクト)により吹き飛ばされたカケラとガスから衛星である月ができ、
藍藻(シアノバクテリア)による光合成が始まるまでしばらくは地球大気に酸素がなく、 石炭期には今よりずっと酸素濃度が高くて10倍の大きさのトンボが飛んでいて、 大地は最後の超大陸パンゲアから現在の大陸配置になり、 隕石の衝突による恐竜の大量絶滅等もあり、 地球全体が氷床や海氷に覆われたスノーボールアースのこともあり、 現在は最終氷期が終了した間氷期・後氷期と考えられており、 中世には温暖期と小氷期と呼ばれる数世紀にもわたる寒冷期があった、・・・ということである。 長い目で見れば、ヒトの都合のいいように気候や環境が安定している、と期待するのはムシが良すぎで、むしろヒトの基準からすれば激変する異常気象、というのが地球の通常の姿なのかもしれない。 ヒトが地球に優しくしてもらいたいと思うことはあっても、少なくとも、ヒトに優しくしてもらいたいと地球が思ってる、なんてことはないだろうな。
アフリカでチンパンジーとの共通祖先から別れた後、人類には20種とも言われる多数の種が生まれたが、現生人類以外の種はすべて絶滅してきたという。 互いに交雑できないというのが種の定義だとすると、ホモサピエンスと交雑した証拠があるというネアンデルタール人やデニソワ人が、別種なのか亜種なのかという疑問は残るが、それは些細なハナシ。 多くの大型動物等と同じように、いくつかの種はヒトが絶滅させた、という見方もあるようだ。
生物全体を眺めてみても、これまでに実に膨大な種が絶滅してきており、現在ではヒトのせいで大量絶滅が起きていると言われている。 駆除されたり絶滅させられたりする生物にとってみれば、ヒトの急激で地球全体を覆うような異常な繁殖は、大災害というしかないだろう。 植民者・開拓者によって征服され、崩壊されたり絶滅されたりした、南北アメリカ先住民のように。
品種改良されて、家畜やペット、飼育・栽培食物としてしか生きられなくなった種にとっては、どんなものだろうか。 ヒトも自己家畜化してきた、という見方もあるようだが。
もしもヒトが今でもアフリカで狩猟・採集生活をしていたら、地球や他の生物にとってはもっと平和で自然だったんじゃないか、とも言えるかもしれない。
ホモサピエンスが生物進化の最終段階、というわけではない。
ヒトは絶滅しない、絶滅してはならない、というような根拠が何かあるわけでもない。 ローマが亡んでもヒトの歴史は続き、ヒトが亡んでも宇宙の進化の歴史は続く。 SDGs 持続可能な開発目標ということが最近になって言われて、なんかやってる感がでてきているが、そんなことで果たしてなんとかなるような、ものなのかどうか。 特に日本については、現在の異状な財政状況が持続可能と、ホンキで考えているヒトがいるのだとすれば、その思考がどうなっているのか、フシギ。 現在生きているヒトは、当面の短期的な損得勘定のことで手一杯で、そんな先のことまで心配するまでもないのかもしれないが、 このまま貪欲に利潤追求や株価上昇を目指し、ビジネスチャンスをめざとくつかもうとし、経済成長を加速して追い求め続けていくのだとすると、 喧伝されている、iPhone や SNS、メタバース、SDGs 、・・・も、表向きの建前とは、見える景色が違ってきて、
このままではいずれ手遅れになる、あるいは既に手遅れになっている、という見方があっても、それほどおかしくはないかもしれない。 ヒトが滅んだ場合、地球や他の生物が悲しむというイリュージョンと、喜ぶというイリュージョンのどちらに、よりリアリティーがあるだろう。 原発事故でヒトがいなくなった地域では、野性動物が繁殖して、大いに自由を謳歌していたようにも見える。
歴史的にみて、ヒトは相当に愚かなこともやってきたように見えなくもないが、それに学んで賢くなってきたのだろうか。 一方で、ヒトは豊かに平和に暮らせるよう進歩してきたんだという評価もあり、そういう面が確かにあるとも思うが、 ヒトは、自称しているような、万物の霊長、英知に優れた賢い人(ホモサピエンス)なのかどうか。
ヒトは、この社会全体、さらにはこの地球全体をうまく管理できるような、そんな高度な知性を持っているのか。
あるいは、これがもっとも壮大な、ヒトのポジティブ・イリュージョンなのか。 そしていずれは、思ってもいなかった事態にようやく気づき、危機を迎えて絶望することになるのか。
ヒトには、様々に想定されている輝かしい未来が待っているのか、それとも、それはイリュージョンに過ぎないのか。 世の中的には表面的には楽観論が通例の落ちになっているようだが、それにはどんな根拠があるのだろうか。
また、以上のような自己中の視点を離れて、改めて宇宙全体という視点で眺めてみれば、
最初期の実に目まぐるしい進展の後には、この宇宙では、恒星の誕生と死の物語と、膨張ということ以外、全体としては大したことは起きていない、とも言えるかもしれない。
最後に、
仏教哲学の無我や縁起や空という「無常観」とはちょっと趣の異なる、日本文学・文化の「無常感」について。
・ 万葉集
世の中は空しきものと知る時し、いよいよますますかなしかりけり(大伴旅人)
・ 平家物語
祇園精舎の鐘の声諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色盛者必衰の理をあらはす。驕れる者久しからず、ただ春の夜の夢の如し。・ 西行法師
身を捨つる人はまことに捨つるかは、捨てぬ人こそ捨つるなりけれ
・ 方丈記
ゆく河の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず、淀みに浮かぶうたかたかはかつ消えかつ結びて久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖と又かくのごとし。
・ 敦盛
人間五十年化天のうちを比ぶれば夢幻の如くなり、一度生を享け滅せぬもののあるべきか。
・ 秀吉の辞世
露と落ち露と消えにし我が身かな、浪速のことは夢のまた夢
・ 徒然草
世の人の心を惑はすこと色欲には如かず、人の心は愚かなるものかな。匂ひなどは仮のものなるに、しばらく衣裳に薫物すと知りながら、えならぬ匂ひには必ず心ときめきするものなり。・ 奥の細道
夏草や兵どもが夢の跡
このような無常感は、科学的世界観とは場違いかもしれないが、日本の歴史的文化としてこのようなものもあったようだ。
なお、 このblogは、科学的な世界観に関する、個人的な読書・思索ノートのつもりです。 十数年間、まったく更新せずに休眠していました。 一旦はここらで終了・削除しようかと思い、記事を非公開にしたりもしました。 ちなみに元になったウェブサイト等は、既に抹消・消滅しています。
今般、時間ををかけて、現時点での総まとめのようなつもりで、その後の読書目録も含め、記事を書いてみました。 こうして文章化して改めて眺めてみると、ただこれだけのことなんだな、というような感想です。 これは、blogを再開したということではなくて、今後も多少の加筆・補完等をすることはあっても、特に何の事情も生じなければ、また休眠状態に戻るつもりでおります。 (・・・という、これはひとつの自己の物語りです。)
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追記1: 自然法則・予測可能性・自由意志
http://nbsakurai.exblog.jp/33280262/
2022-10-12T23:59:00+09:00
2023-12-29T03:25:38+09:00
2023-05-30T22:38:33+09:00
nbsakurai
★ ★ 総 括 ★ ★
自然法則 ・ 予測可能性 ・ 自由意志
・ 古典的(機械論的)決定論と予測可能性
世界は古典的自然法則に従っており、未来は一意に確定している。
初期条件のすべての情報がわかれば、未来を完全に予測することができる。(ラプラスの悪魔)
ただし、そのためには初期状態の厳密な値が必要であるが、極めて微少な誤差が、結果に甚大な相違を生じさせることがある。(カオス、バタフライ効果)
どんな測定にも有効桁数とういう限界があり、その誤差が予測可能性を限界づける。
また、多数の要素が相互作用する場合、結果を数学的に厳密には解けない、という問題もある。(多体問題)
もちろん、世界のすべての情報を得ることなど、現実にできはしない。
法則に従っていても、実際には未来を完全に、確定的に予測することができるわけではない。
ただし、相当に精度の高い予測ができる場合はある。
太陽系の惑星軌道等については、将来の日蝕や月蝕も申し分なく予測できるほど。
地球気候のシミュレーションよる天気予報は、少しずつでも精度をあげてきているようだ。
でも、地震予知ということになると、どうにも絶望的な状況。
だからといって、地震が自然法則に従っていない、というわけではない。
・ 量子論的(確率的)決定論と予測可能性
世界は量子論的法則に従っており、一意に定まった未来が確定しているわけではない。
量子論的ミクロの世界では、多数の幅のある未来が確率的に決定され、その確率は拡がっていく。
量子の系は波動関数(Ψ)で表され、その時間発展は自然法則により決定され予測可能であるが、
具体的な観測結果ということになると、波動関数のその振幅(複素数)の絶対値の2乗が、その確率を予測するのみである。
位置と運動量等の厳密な測定は技術的にだけでなく、不確定性原理により、原理的にも不可能(一意の明確な値をもたない)である。
さらに、観測行為自体が、観測対象の状態を変えてしまう。
量子論的予測では、近未来の幅のある統計的予測ができるのみである。
ただ、量子論は数学的に極めて精度の高い、高度に成功した厳密な科学であるようだ。
電子機器等の設計・製作にも欠かせない、高度の実用性ももっているらしい。
常識ではなかなかに理解しがたい事態ではあるが、世界がそのようになっているのだとすれば、それをそのまま受け容れるしかないだろう。
確定的な一意の未来予測ができないからといって、法則性までが否定される(自由がある)というわけではない。
自然法則による決定性と、未来の予測可能性は、別次元の話。
・ 自然法則と自由意志
世界は自然法則に従っている、と科学的世界観は示している。
自然法則を破るものがある、というのが自由意志の主張であるとするなら、これに反していることになる。
自然法則を破る、神仏、奇跡、霊魂、超能力、超常現象、・・・、こういったものがあるとするなら、そこでは、
以上のような科学的世界観が破綻する、か、
それらを科学的に究明して科学的世界観に取り込む、か、
のいずれかになるであろう。
科学は、世界のあらゆる事象がすべて自然法則に従っている、と確証しているわけではない。
実在論や唯物論のような哲学的・形而上学的思弁は、科学的世界観の範疇ではない。
一方の自由意志も、紛れもない実感に支えられているとはいえ、自然法則を破っているという、具体的証拠があるわけではない。
むしろヒトの行動や意思決定は、外部からいろいろ操作されうることが、様々に実証されている。
その意思が生じるに至るに様々な要因があっても、自分ではなかなかそれに気づけない。
ヒトは、自分がなぜそう思ったり考えたりしているのか、何をどうしたりしなかったりしているのか、なぜどうしてそのようにしてきたのか、実はよくわかってはいない。
ただ実感だけでいうなら、例えば大地は、火山や地震はあっても不動であって、超高速で動いているとは実感できない。
実感が、常に当てになるわけではない。
自然法則による説明と自由意志による説明は、事実上両立して、現に普通に述べられている。
ヒトは、進化論的・人類学的・行動経済学的・心理学的・精神医学的・薬学的・生理学的、脳神経学的・・・等の、科学的説明を受け容れながらも、
一方では、自分の自由意志について疑ったりはしないで、それらの説明はどういうわけか、自分には当てはまらないと思っていられる。
自由意志を否定するような言説には直ちに反発する、というのが、むしろヒトのデフォルトの設定のようにも見える。
自己の尊厳を毀損する、侮辱であるかのように。
自分たちヒトは、他の物質や生物とは違った、特別な存在なのだ。
永年に渡る自然選択による生物進化と、発生・環境・経験・発達によって形造られた、
ヒトの身体・脳神経系の構造と機能が、ヒトの行動を支配しているのだとすれば、
それに反するような自由意志の余地はないはずである。
科学的世界観によるなら、それに反するような形での自由意志は、錯覚ないし幻想というしかない。
しかしながら、両者が本質的に矛盾しているとは、あまり表面化しない。
・ 科学的世界観と両立する自由意志
自然法則に従う世界にも、自由が考えられないわけではない。
奴隷状態からの自由、貧困からの自由、重労働からの自由、
(飛行機等により)空を飛ぶ自由、(ワクチン等による)感染症からの自由、
言論の自由、世間の目からの自由、各種の束縛からの自由、
制約の(少)ない自由貿易、専制者のいない自由主義社会、
他人に直接には支配されない、内心の意思の自由、
物事の決定には、まさにそのヒト自身の体や脳が必然的に関係する、
その点だけを見れば、自律的とは言える、
・・・・。
そのような意味での自由なら、ありうるだろう。
ただし、これらの自由が果たして、ヒトに本来望まれているような意味での自由意志としては、それを保証するに足る充分なものなのかどうか。
自己という個人の自由意志というものが、たとえフィクション・虚構であるとしても、
ヒトの社会の諸制度等が、その前提のうえに構築・運用されているのであれば、
それらの基礎を掘り崩すのは、おそらくヒトの集団にとっては良策とは言えないのだろう。
現在の社会秩序を崩壊させたくないのであれば、これらをなんとか両立させておく以外に、現実的な途はないのかもしれない。
なんとしても自由意志は守りたい、守らなければならない。
たとえ苦し紛れに見られようとも、様々な理屈をなんとか考え出して、それにすがりつきたくなってしまう。
あるいは、ことさらにこの問題を突き詰めて大騒ぎしたりしないで、言葉を濁してそっとしておく。
憲法9条と自衛隊を両立させておくように。
科学技術の粋を搭載した最新鋭の車、自分の買ったそういう新車に、
神社でお祓い受けようというヒトにも、良識あるヒトは、積極的に科学を説いたりはしないのだろうし。
自由意志や霊性の神話を失ってしまうと、ヒトは意味のある実存的な自己の物語りを、語りにくくなってしまうのかもしれない。
そうなると、結果だけを求めて、社会のルールや倫理を省みない、サイコパス的な目的合理的戦略人の、貪欲や傲慢、
そういうものを礼賛するような方向に、ひたすら向かうようになることはないか。
自然法則に従うだけの世界には、
理想・信念・価値・希望・憧憬・規範・誠実・品格・寛容・共感・節度・矜持・責任・自省・謙虚・・・
のようなヒトの実存的概念は、馴染みにくいのかもしれない。
そうならない歯止めとして、幻想や神話を大切に保存しておくのか。
(✳️過去記事)『自由意志』https://nbsakurai.exblog.jp/320079/『決定論と予測可能性』https://nbsakurai.exblog.jp/320031/『「決定論」と「自由意志」(―― は両立する)』 https://nbsakurai.exblog.jp/5576551/『意識的な自己の支配は幻想という発想-意識は潜在意識の産物』 https://nbsakurai.exblog.jp/2730577/ 「量子論の解釈問題』 http://nbsakurai.exblog.jp/1189610
そのような神話は、社会の秩序やヒトの実存に、有用・有益なのか、無用・無益か、全体として有害と見るか無害と見るか。
このような問いは、当事者としてのヒトの実践上の(価値)判断にも関わり、その点で科学的世界観の範疇を超えてしまってはいる。
今般、追記1~の記事を書き加えましたが、これは、本文で述べたことを前提とした上で、その内容の一部を拡大して、敷衍したものです。
本文の記事の作成の際は、できるだけ科学的世界観の範疇をはみ出さないよう、またなるべく表現が過激ととらえられないよう、留意したつもりでした。
これは、そういう制約の枠を振り切って、曖昧にしていたところをハッキリとさせ、考えていることすべてを思いのたけ述べてみよう、と試みたものです。
これで、良くも悪くも、自分の考えていることをより正確に客観視できるようになった、ものと思っています。
( 2023.6 )
なお、ここで「本文」というのは、
『意識 (自己) というイリュージョン』
~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~
自由意志論の四つのプロジェクト
人工物として社会的・文化的・心理的に構築された諸概念の、修正や改善・再設計等を目指すという「概念工学」、 そういう発想での「自由意志」概念の扱いについて、
〇『〈概念工学〉宣言! ―哲学×心理学による知のエンジニアリング―』 戸田山/和久 唐沢/かおり 2019/3/15 https://amzn.asia/d/fIjSeNi
P132 哲学者のニコルズは、近年の心理学的研究の隆盛を踏まえて、自由意志論は三つのプロジェクトに分類できると提唱している。
第一に「記述的プロジェクト」は、自由や責任についての素朴な直観のあり方を解明し、またその直観の背後にある素朴な概念や信念を解明することを目指す。(中略) 人間一般が下す判断は、実はどのようなものか、そしてそれがどのような原理に基づいて下されているのかは、経験的に明らかにされるべき心理学的問題である。 それゆえ自由意志の概念や信念にまつわる経験的探求は、記述的プロジェクトの中核にあるべきものだろう。
第二に「実質的プロジェクト」は、そうして明らかにされる人々の概念や信念が正しいのかどうか検討する。 例えば、人々の抱く自由意志概念が非両立的なものであると判明したら、しかし同時にこの世界が決定論的なものだと判明したら、そうした自由意志を信じる人々は誤ったことを信じていたことになるだろう。 そのような検討を行うのが、実質的プロジェクトである。
第三に「指令的プロジェクト」は、以上を踏まえて、われわれの責任実践を保存すべきか修正すべきかを検討する。 もし人々が自由と責任について誤ったことを信じていたとすると、それは責任実践の修正に対して一つの重要な根拠を与えるだろう。 しかし、すべてを考慮したうえで責任実践が修正されるべきかどうかは別問題である。 あらゆる理由や根拠を踏まえて、最終的にどのように責任実践を行っていくべきかを検討するのが、このプロジェクトの目指すところである。
P135 ヴァーガスによれば、現在のわれわれの自由意志概念は不正確でありうるが、それはわれわれの現行の責任実践の核心を否定することにつながらない。 言い換えれば、彼は実質的プロジェクトとしては現行の自由意志概念が不正確だという可能性を受け容れるわけだが、しかし指令的プロジェクトとしては、現行の責任実践を保存できると主張するのである。 このような「ねじれ」が可能になるのは、実質的プロジェクトと指令的プロジェクトの間に、他でもなく概念修正というもう一つのプロジェクトを彼が組み込んでいるからだと言えよう。 それはすなわち、自由意志概念をつくりなおすというプロジェクトである。
~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~
① ヒトは素朴に自由意志を信じていて、ヒトの実践に効果を持っているが、その内容は漠然とした曖昧なもので、体系的で一貫した整合性のあるものではない。
② 科学的世界観によるなら、世界は自然法則に従っていると考えられ、それに反するような自由意志とは両立せず、両立するようなどんな自由意志がありうるのかは不明である。
③ ヒトの責任実践をどうすべきかというのは、科学によっては答ええない、価値や当為や規範の問題であり、科学的世界観の範疇ではない。
④ ヒトや社会の実践に役立つように自由意志概念を造り直す、という概念工学というものもやはり、科学の範疇ではありえない。
自由意志というものについて、科学が扱えるのは、① ヒトや社会がどう考えてどのようにしているのかという記述的事実、② その実質的な概念内容が、科学的・客観的に正しいのか、 というところに留まり、それ以上の ③「実践指令」や ④「概念工学」には及ばない。
自由意志概念についての議論をこのように4つに整理してみると、・ 自由意志がないなんて信じがたい、皆が(ヒトの圧倒的多数が)自由意志を信じている(①)のだから、自由意志がないわけがなく、自由意志はある(②)。・ 自由意志はヒトの社会や生活に根付いて、なくてはならいものになっている(①)のだから、自由意志は確保しなければならない(③)。・ ヒトが考えている自由意志(①)と、客観的・科学的事実(②)が両立しないなら、両立するように自由意思概念を修正すればいい(④)。 このように、さまざま議論があって、そこには混乱も見られるのではないか。
なお、自由意志と責任について、 追記3: 『「自由意志と責任ある主体」という虚構』
また、科学では扱えない問いについて、 補足2: 『ヒトは象使い』 の、『科学では扱えない問い』 ( 2023.11 )
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追記2: ヒトの現状 ・ ヒトの近未来
http://nbsakurai.exblog.jp/33293193/
2022-10-12T23:58:00+09:00
2023-11-16T14:10:29+09:00
2023-06-09T15:33:50+09:00
nbsakurai
★ ★ 総 括 ★ ★
人類は、そのほとんどの期間、常に移動しながら、果実等の植物採集や狩猟をして生存していた。
ヒトは熱帯のサバンナで、対等・平等な小集団により、狩猟・採集する生物として出発した。
狩猟の技能を向上させ、アフリカを出て各地に拡散すると、その度に、その地の(大型)動物の絶滅を引き起こしてきた。
やがて漁労や農業・牧畜を始め、遊動生活から食料貯蔵・集落定住に移行し、富を蓄積し始め、
さらには分業・組織・階層社会を大いに発達させ、ついには科学技術と大規模な工業生産を急激に発展させた。
その過程で、自然の原生林・森林を大量に伐採し、大規模な都市を建造してきた。
山林を掘削して鉱物を採取し、道路を造り、森林を破壊し、化石燃料を燃やし、大量の製品を製造し、運搬し、プラスチックをはじめ大量の廃棄物を発生させている。
大量の化学物質と大型機械を用いた、生産性の高い大規模な集約的農業は、
増え続けるヒトを飢餓から救ったが、土地と川や海の生態系を、無造作に破壊してきた。
海水の温度上昇と富栄養化・酸性化により、海洋生物の多くの生息地を、消滅させてもいる。
ヒトは地球上の広大な地域を、生物の大半が棲息できない場所に変えてしまった。
魚介類の持続可能性を考慮しない、競争的・大規模な乱獲は、海洋資源を枯渇させつつある。
家畜やペット等を除く、野生の昆虫、魚介類、両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類、霊長類、・・・の数は、激減している。
ヒトの個体数は80億にもなるが、他のホモ属等はみんな滅んでしまい、類人猿ではすべての種を合わせても、数十万程度しか残っていないという。
ヒトは、食物連鎖の頂点に立つ、前代未聞の凶暴な捕食者になった。
大量の牛を殺し、その皮を剥いで逆さ吊りにする、食肉工場。
ヒトのせいで、地球生物の歴史上、6回目の大量絶滅が今、現に起こっている。
ヒトの数が指数関数的・爆発的に膨張してきて、その生産(破壊)活動も、加速度的に増大している。
気候変動、異常気象の嵐、集中豪雨、水害、熱波、大規模な森林火災、海面上昇、氷河の融解・減少、干ばつと砂漠化。
ヒトの生存の基盤となるインフラが、危機にさらされている。
農業適地の減少、土地の劣化、水資源の枯渇、受粉生物の激減、漁業の衰退、・・・は、いずれはヒトを食料危機に向かわせる。
海面の上昇は、やがては地球上の沿岸都市を水没させる。
ヒトは、技術を革新し、生産性を高め、コストを低減し、より効率的に生産高をあげてきた。
科学の進展による、新たなテクノロジーやイノベーションは、
経済社会のよりいっそうの拡大に役立てられ、
組織的に他の生物を殲滅させ、自らの生存の基盤をも蝕んできた。
ヒトが依存している自然の生態系は今、危機に瀕してきている。
ヒトは果たして進歩しているのか、破局に向かっているのか、どう評価すべきだろう。
地球史はすでに、新生代第四紀の完新世から、人新世という、新しい局面にはいっている。
ヒトがそのことに気づき始めてから、すでに数十年が経過しているが、ヒトの社会は大胆な軌道修正ができないでいる。
大企業、政治家、消費者を含めた、社会・経済システムが、一方向に慣性的に動き続けている。
永遠に続く経済成長という幻想、GDPを増やすのが何よりも大事だという思い込み。
経済成長がすべてを解決する、成長がなければ何も始まらない、とさえ考えられているのかもしれない。
ヒトの経済社会の発展・成長というものは、
ある目標・到達点というものがあって、そこまで行きたい、ここまでくれば充分だ、というものではなくて、
どこまでいっても、際限なく拡大していこうとする。
経済活動の規模を拡大し、大いに利益をあげて資産を蓄積し、それを研究・開発等に投資して更なる発展を目指す、
そういう限りない成長、それ自体が目標になっている。
個人的には疑問を感じるヒトがたとえ大勢いたとしても、この流れには抗えない。
むしろその流れにうまく乗った者が、社会的に成功者とされ、大きな影響力を行使しうる。
競争市場という場では、その手段はともかく、勝ったものが正しいとされ、力を得ることになりかねない。
こうした社会の流れのなかで、自ら進んで負け犬にはなりたくないと思えば、
ヒトは常に追いたてられて、長く立ち止まってはいられない。
成長し続けなければ置いていかれ、生き残れないかのように。
他の生物を含めた地球の自然は、成長のために採集・活用すべき、資源とみなされているらしい。
場面によっては、自分の仲間以外のヒトやヒトの労働力も、そうみられる。
その場合のヒトの終極的な扱いは、取替可能な消耗品、ということにになりかねない。
ひとたび経済成長という大目標が打ち立てられて動機付けされてしまえば、あらゆるモノやコトがそのための資源として合理的に動員されうる。
その活動で生じる諸問題に対し、絶滅危惧種の指定(レッドリスト)、気候変動枠組条約(COP)、持続可能な開発目標(SDGs)・・・等の、対応が行われてはいる。
でもそれらは、自らの社会の開発・成長を阻害しない限りで、という限定付きのようだ。
むしろそれさえも、逆に自らの成長のチャンスとして、大いに活用しようとしたりする。
最終的にはテクノロジーやイノベーションで解決すればいい、とも思われているらしい。
何かが技術的に解決されても、おそらくそこで安定することはなく、その上でのさらなる拡大・成長が目指されることになるだろう。
クリーンエネルギーと言われるものを増やしても、全体としては、それを上回る速度でエネルギーの需要が伸びていく。
技術革新で効率が上がっても、それで経済を拡大して成長を目指す限り、資源・エネルギーの消費も拡大していく。
レジ袋の有料化、エコカー、太陽光発電、省エネ家電、リサイクル、・・・、程度では、
何もしないよりはいいと気休めにはなっても、とても追いつかない。
むしろそれで責任は果たしているとして、後は思う通りに振る舞うという、モラルハザードの口実にもなりかねない。
あるいは、そのような社会の動静それ自体が、成長を目指す企業にうまく利用されかねない。
危機は深刻で既に差し迫っており、多少の改善や調整で解決できるようなものでは、ないようだ。
生物進化というものは、当面の生存・繁殖に有利なものが自然選択され続ける、という過程であり、そこでは将来への展望という観点からの評価は、なされない。
その課程をうまくやり過ごせなかったものは、生存・繁殖ができず、子孫を残せないので、
現在生きているヒトはみんな、それをうまくやりとげてきた勝者の子孫である。
遠い将来の深慮展望にたけたものが過去にいたとしても、その時点での当面の生存・繁殖に失敗すれば、子孫を残せず消えてしまっている。
ヒトは、その過程を単に潜り抜けてきただけではなく、他の生物を押し退けて、異常なまでに繁殖し続けてきている。
ヒトの実存や社会の秩序は、その意味では大成功をおさめてきた、と言うべきだろう。
自由意志や霊性の神話は、その意味で社会の秩序やヒトの実存に、有用・有益なものであったのかもしれない
しかしながら、以上のような危機の現状をかんがみるとき、全体としてそれらを無害と見るか、有害と見るのがむしろ妥当なのか、疑問は残る。
ヒトは、種々の科学的説明を受け容れながらも、それらの説明は自分には当てはまらないと思っていられる。
自由意志を否定するような言説には、自己の尊厳を毀損する侮辱であるかのように、直ちに反発したりもする。
自分たちヒトは、他の物質や生物とは違った、特別な存在なのだ。
自然法則に従う科学的世界の一部ではなく、その外部に立つ、非物質的な、いわば神聖・不可侵なものなのだ。
そういう前提にたっていれば、他の生物を含めた地球の自然を、ヒトが活用すべき、資源とみなすことも容易であろう。
自分たちを、地球の自然生態系の内部の存在、とは考えない。
それで、当面の生存・繁殖には役に立つ。
いざというときは、地球を捨てて宇宙に飛び出せばいい?
そういう態度・姿勢は、本来の自然にかなった妥当なものなのかどうか。
ヒトの実存というのは、基本的には自己という個人、についての問題であるらしい。
自己以外の他者は、オンリーワンの掛け替えのない実存、とは区別されうる。
また社会の統合や秩序というのは、自己の所属する集団、についての問題であるらしい。
ヒト以外の生物はその社会には含まれないし、地球全体のヒトの社会、であることも必然ではない。
社会の成員は、家族・親族・友人・仲間・同郷人・同性・チーム・派閥・組織集団・同階層・同国人・民族・宗教集団・人種・・・等であってもよい。
その集団から外れたものは、他者として、大切にすべき自らの社会とは、区別されうる。
ヒトは、仲間はずれにされると生存・繁殖に失敗しやすいという、永い生物進化の過程を潜り抜けてきた。
ヒトは仲間とは協力しあい助け合っても、仲間でないよそ者とは対立・競争し戦いあったりする。
学校のクラス編成など、無作為のグループ分けでも、同様の対抗の傾向を示す。
ヒトにとって社会とは、自己を中心として、それをどこまで拡大できるか、どこから先を他者とするか、ということであるらしい。
想像上の共同体として、自国までは拡げられるとしても、他の生物まで含めた地球全体というところまでは、どうもムリのよう。
自国の国益のため互いに利用しあうことはあっても、全体のための無私の協力ということになると、なかなかできかねる。
国勢調査という言葉が示しているように、自分たちの仲間が増えて、他の集団より勢いを増すことは、望ましいことなのだ。
大切な自己やその仲間と、そうではない他者や他集団を区別して、後者の利益を損なってでも、抑圧・搾取・強奪してでも、前者の利益を謀ろうとする者もいる。
かつて、経済が成長して利益をあげる者がいれば、それが滴り落ちてみんなが幸せになるという、トリクルダウンなるものが唱えられたことがあるが、
現実にはそうなっておらず、むしろ格差が拡大して二極化し、それが固定化しつつあるように見える。
上位10%の富裕層が世界の富の80%超を保有し、下位の過半数のヒトの富を全部合わせても1%未満だという。
現代日本の子供の10人に1人は、相対的貧困の状況にあり、親ガチャの呪縛から逃れるのが困難であるらしい。
それは自分の人格や能力による自己責任なのだ、と納得させない限り、
経済・社会・制度等への不満や不信の種となり、ヒトビトの間に社会的緊張や分断を造り出し、社会の秩序や統合を揺るがすことにもなりかねない。
アメリカのかつての白人中間層では、アルコールや薬物依存・自殺等により、寿命が縮んできているいるという。
黒人の社会的地位は全体的に低いままで、麻薬犯罪等での服役率も高いらしい。
正社員の企業別労働組合は、非正規社員の社会的状況までは気が回らない。
企業や組織の、信頼を裏切るような不正や不祥事も、発覚してきている。
まずもって謀るべきは自分(たち)の利益であって、無差別のみんなの利益ではない。
また、自分(たち)がいなくなった後の、将来世代のことはともかく、今の自分にたいした不都合がなければ、とりあえずそれでかまわないじゃないか。
生物進化・自然選択によって形造られたヒトという生物種は、そのように行動するようにも、どうもできているらしい。
次のようにしても、生産活動・サービス・経済活動が増え、マネーが動き、利益が上がり、GDPが伸び、経済が成長したことになりうる。
大義名分はともかく、オリンピックや万博等の一大イベントを開催する。
原発事故を起こして、その対策・復旧・廃炉を行う、
SNS上等で節度のない無責任な発言をして、注目を集める、
トラブルが多い社会では、その解決のための司法的対応の需要も増える、
血圧の正常値の基準を厳しくして、より多くのヒトに対応を迫る、
厳密なエビデンスがなくとも、特定検診に力をいれる、
健康不安をあおって、健康食品を売り込む、
年を経るごとに加齢するのは論理的必然なのに、坑加齢を推奨する、
介護の時期を遅らせるよう、介護予防に勢力をつぎ込む、
最大限の資源と技術で、神聖なヒトの命を延命する、
土地や株・絵画や会員権を転がす、
そのものの活用ではなく、金額による換価価値やステータスを追求する、
ブランド戦略を駆使して、高額な商品を販売する、
金融資産を様々に動かして利潤をあげるヒトに、高額の報酬を与える、
株価の動きに一喜一憂し、自社株を騰貴させた経営者に高額報酬で報いる、
株価上昇のための自社株買という、資本にとって不思議・不可解なことをする。
スタートアップも、成長・拡大すると、租税回避等に精を出す。
ヒトの貧窮につけこみ、低額報酬で長時間働くように仕向ける、
目新しい新規な製品で、消費者の注目を引き、需要を造りだす、
大量の製品を素早く効率的に捌くため、精緻で効果的な広告活動に励む、
既にある製品が行き渡ったら、できるだけ速やかに陳腐化させる、
必要以上の衣類を作り、売れ残ったら大量に廃棄する、
廃棄物が増えれば、廃棄物処理の需要も膨らむ、
無償で行われていた家事・育児・ボランティアを、有償で外注する、
地域コミュニティの自助・共助を解体し、企業サービスを活用するようにする、
・・・。
そのような成長によって、これまでに何が獲得され、今後は何を目指そうとしているのだろう。
ヒトの主観的な達成感や充実感・やり甲斐や生き甲斐・幸福感や満足感・安らぎや落ち着き・肯定感や納得感は、
客観的な数値での評価には馴染みにくく、コスパやタイパの追求では、得られないかもしれない。
科学的な自然法則というものに従う世界の中で、
ヒトが、自己という幻想、自由意志という虚構、霊性という神話に価値を見出し続け、
自己中、唯我独尊、強欲、独善、傲慢ともいうべき態度を取り続けるのであれば、
そういう態度・行動は自然法則・自然選択にさらされ、その結果は明らかであるかもしれない。
限りない偏執的な欲望で、もっともっとと、追い求め続けて暴走していく以外に、途はないのだろうか。
そのような繁栄の最先端をいくような、いわゆる先進諸国において見られる、
出生率の低下・人口の減少という、生物進化の生存・繁殖というドグマに反するようにも見える現象は、何を意味するのだろう。
自らの生存の基盤を蝕んできた報いとして、自然の摂理が働いているのか。
こんな人類社会の現状では、赤ちゃんをもうけ、子孫を残す気にはならないと、潜在意識で暗黙のうちに感じているとか。
それとも、生物進化というヒトの創造主に、ヒトが逆らうという事態が、起きつつあるのだろうか。
人口減少は災いではなく、むしろ、
自然生態系の回復にとっても、他の生物にとっても、ヒトが依存している生存基盤の回復という意味でも、
望ましいことだという見方も、ありうるかもしれない。
特にその最先端をいく日本では、少子・高齢化がこのまますすみ、限界集落が次第に消滅していって、ヒトの社会が縮小していき、
日本列島の自然が、少しずつ回復していくことになるのか。
もっとも、地球全体のヒトの数は、今後もしばらくは増え続けるようだが。
( 2023.6 )
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ヒ ト の 近 未 来
何かが根本的におかしくはないか?
それでは、世界として、人類として、国として、またヒトとして、一体どのようにすれよいのか。
ヒトの社会の、どこをどのように変革していくべきなのか。
このような問いは、当事者としてのヒトの実践上の(価値)判断に関わり、その点で科学的世界観の範疇を超えてしまう。
事実はどうであるのかという世界認識の課題から、何をなすべきかという当為の規範問題にすり変わってしまう。
現状がどのようであるか、これは事実問題であるが、それすらも合意に達するのが難しい。
自分の都合のいいように、事実を取捨選択したり、歪曲して解釈することは、ヒトに普通にみられる。
どういう政策を取れば結果がどうなるか、ということは事実問題でありうるが、どうすればいいのか、というのはそうではない。
両者は性質や次元の異なる別の課題であり、厳密に分離するよう注意しないと、議論が混乱してしまう。
両者を混同して混乱することは、ヒトには普通にあるようだ。
ヒトや世界はこのようであるという事実の話と、ヒトや世界はそうあってはほしくない、ヒトはこのようであるべきだという当為の話。
片方は根拠を示して科学的検証にかける可能性があり、間違っていたということがありうるが、他方は結局は根拠を示すことができない。
何か根拠を示しても、さらにその根拠は ? とどこまでも問うことができて、最終的な根拠にたどり着くとすれば、
間違いであることが原理的にありえないとされる、宗教や神の信仰・独断的な定言命令にでもすがりつくことになる。
究極的には、これを決して疑ってはいけないという、信念ないし信仰に行き着くしかない。
これはこうだからこうなんだ。当たり前じゃないか。どうしてそれがわからない。
異なる信念や信仰の間を、論理的・科学的・客観的に正しく調整して、
ただひとつの正解、誰もが認める(べき)普遍的な真理や価値・正義や秩序にたどり着く、というような途はない。
そのような普遍的なものがある(べき)はずだと考えるなら、それがもう既に、根拠のない幻想。
絶対の真理を信じ、それを実現しようと、手段を選ばずアクティヴに行動するような者ほど、始末におえないものはないかもしれない。
それぞれが自らの(普遍的 ? )真理や正義をどこまでも主張するならば、どちらにとっても自分が正しく相手が間違っているのだから、
対立・紛争をいつまでも続けることになるしかないが、それを避けようと思うなら、
反対者の知らないうちに、既成事実を積み上げてしまう。
反対者を、何らかの方法で排除する。
詭弁を使ってでも、相手を論破する。
いつまでもどこまでも主張し続けて、相手が諦めて黙るのを待つ。
絶対専制者を設けて、判断を委ね、それに従わせる。
多数決で決めて、少数者を黙らせる。
互いに干渉しないで、距離をとる。
互いに認めあって、自らの唯一性を放棄する。
互いに譲歩しあって、落としどころを見つける。
・・・・
というようなことがありうるだろうか。
経済・社会を変革するにしても、状況は大規模で極めて複雑で込み入っており、
とても一人のヒトが、理解・対処できるようなものではないし、
多くのヒトがそれどころではなく、そんなことは考えたくもないかもしれない。
80億人にもなる人類が、それぞれの利害を乗り越えて、ひとつの価値、目標に向かって動き出す、
これも、控えめに言っても至難の技だろう。
また、現状の社会・経済状況のもとで成功者として力を持っている者が、その現状の変革に意欲的に取り組む、
これも、期待できそうにない。
ヒトやその社会に、このような問題を充分に理解して、それにうまく対処できる賢さがあるのか、
これも、わからない。
日本では、数十年前から確実に予測されていた少子・高齢化、その根源の探求や想像力はおろか、対症療法的な対策でさえ、満足にできないでいるよう。
なんにでも解決策がある、というわけでもないだろう。
あまんじて受け容れる意外に途がない、ということもありうる。
もちろん、以上のような見方は、間違っている可能性はある。
また、根拠なく物事を楽観視するという、ポジティヴ・イリュージョンも、ヒトには普通にみられる。
だいじょうぶだぁ。そのうちなんとかなるだろう。
それでうまくいくこともあるから、これもひとつのあり方ではあるでしょう。
このままでは持続可能ではないとしても、現世の世代が生きている間(少なくとも100年くらい)はなんとかしのげるか。
別の可能性も考えられなくはない。
既にルビコン川を渡って後戻りはできず、このまま突き進むしかなく、
地球上での生物進化の歴史を、その終わりの今から数十億年後に振り返ってみた時、
そもそもあらゆる生物の種には寿命があり、生じてはいずれは消えていくものではあるけれども、
ホモサピエンスという実に奇妙な種は、大いに繁栄して輝いてるように一時は見えたが、
結局はたった30万年にも満たない短い寿命しかなく、花火のように輝いてはすぐに消えてしまった。
近縁種を含む他の生物を大量に絶滅させ、大層な廃墟や瓦礫を一時的に残しはしたが、結局はとるに足らない種であった。
もっと長期間生き延びた種もたくさんあるのに、どうも図に乗ってちょっとやり過ぎたらしいな。
でもそのおかげで、新たな生物進化の途が開け、ホモサピエンスとはまるで違った、もっと優秀で知的な生物が進化できた。
・・・というようなことも、可能性としてありうるかもしれない。
( 2023.7 )
(✳️過去記事)『当為-何をなすべきで何をなすべきではないか』 http://nbsakurai.exblog.jp/320081『事実と価値』 http://nbsakurai.exblog.jp/1828183『進化生物学――科学と価値のあいだ』 http://nbsakurai.exblog.jp/3812068『事実認識と価値判断』 http://nbsakurai.exblog.jp/3824659『科学は善悪を問うことができない』 http://nbsakurai.exblog.jp/5857402『事実とは1』 http://nbsakurai.exblog.jp/319983/『事実とは2』 http://nbsakurai.exblog.jp/319988『事実とは3』 http://nbsakurai.exblog.jp/319993
なお、科学では扱えない問いについて、 補足2: ヒトは象使い https://nbsakurai.exblog.jp/33340931/ の、『科学では扱えない問い』 ( 2023.11 )
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追記3: 「自由意志と責任ある主体」という虚構
http://nbsakurai.exblog.jp/33322190/
2022-10-12T23:00:00+09:00
2023-12-06T15:01:34+09:00
2023-06-29T16:49:33+09:00
nbsakurai
★ ★ 総 括 ★ ★
今般、次のような本に出会いました。
問題意識・発想の原点や、論理の展開、記述の仕方が当方と違ってはいても、その意味・内容的には、我が意を得たり、という感じです。
〇 『人が人を裁くということ』 小坂井敏晶 2011/2/19 https://amzn.asia/d/ftTZ0ZQ
人間は自由な存在であり、自らの行為を主体的意志によって選び取る。だから、犯罪行為をなせば、その責任を負わなければならない。これが近代刑法の出発点だ。しかし大脳生理学や社会心理学の成果は、この大前提を直撃する。行為は自由意志によって引き起こされるのではない。意志が行為の原因をなすという因果論的枠組みでは、責任は定立できない。(はじめにiii)
人間行動は社会状況に強く影響される。かといって外因によって完全に決定されるわけではない。人格によっても行為は左右されるから各人の自由はある。したがって責任を負う必要もある。こう考えればよいのか。
しかし、人格という内的要因も元を質せば、親から受けた遺伝形質に、家庭教育や学校などの社会影響が作用して形成される。我々は結局、外来要素の沈殿物だ。私は一つの受精卵にすぎなかった。父と母の肉体の一部が結合して受精卵ができ、それに外界の物質・情報が加わってできたのが私だ。したがって、私が取る行動の原因分析を続ければ、行動の原因や根拠は最終的に私の内部に定立できなくなる。
私の生まれながらの形質や幼児体験が、私の性格を作り、行動を規定するなら、私の行為の原因は私自身に留まらず、外部にすり抜ける。遺伝形質と家庭教育が私の行動を決めるならば、犯罪を犯しても、そのような遺伝形質を伝え、そのような教育をした両親が責められるべきではないのか。どうして私に責任が発生するのか。もちろん、この論理は両親にも当てはまる。彼らにも、またその両親にも責任は負えない。この議論からわかるように、各人に固有の肉体的・精神的性質に行動を帰属させても、主体的責任は導けない。(P141)
人間行動を理解する上で、文化や教育など社会環境を重視するアプローチと、個人の遺伝的要素を重視するアプローチとが、社会科学の研究において対立してきた。しかし、遺伝的決定論にせよ、社会環境決定論にせよ、人間行動を客観的要因に還元する以上、行為の原因は当人を突き抜ける。したがって、そのような発想からは人間の自由意志を導けない。両者を折衷しても事情は変わらない。自律的人間像に疑問を投げかける科学と、自由意志によって定立される責任概念との間に横たわる矛盾をどう解くか。(P142)
脳では、多くの認知過程が並列的に同時進行しながら情報処理される。意識とか意志とか呼ばれるものは、もっと基礎的な過程で処理されたデータが総合されて生まれる。(P146)
行為と意志を産み出す過程は並列的に、すなわち別々に進行する。(P147)
脳内で発生する電気信号を意志と呼んでも、問題は解消できない。責任に言及する文脈で意志が重要な意味を持つのは、意志の力で犯罪行為を制御できると考えるからだ。行為が無意識に生じるならば、我々は自分の行動を律することができない。自由意志に基づいて行為がなされるから責任が発生するという了解は、こうして大きな試練を受ける。
すべての行為が、意志によってではなく、脳内に発する無意識信号によって作動すると認めると、自由と責任の根拠を失う。(P148)
意志や意識は行為の出発点ではない。これは認知科学ではよく知られた事実だ。(P149)
<私>はどこにもない。(中略) <私>は実体的に捉えられない。<私>とは社会心理現象であり、社会環境の中で脳が不断に繰り返す虚構生成プロセスを意味している。(P152)
行動や判断を実際に律する原因と、判断・行動を理解・説明するために本人が想起する理由との間には大きな溝がある。(P152)
自らの行動を誘発した本当の原因は別にあっても、それがわからなかったり、常識になじまなかったりすれば、他のもっともらしい理由が常識の中から選ばれて援用されるのである。(P153)
両親から受け継いだ遺伝形質に、家庭教育や学校教育など後天的な影響が加わって人格ができる。そしてその人格が、その時々の社会条件に応じて行為を生む。だから善行であれ悪行であれ、行為の原因は当人をすり抜ける。(P156)
自由とは何か。それは因果律に縛られない状態ではない。自分の望む通りに行動できるという感覚であり、強制力を感じない状況のことだ。(中略) 主観的感覚が、自由という言葉の内容なのである。(P156)
自由だから責任が発生するのではない。逆に、我々は責任者を見つけなければならないから、つまり、事件のけじめをつける必要があるから、行為者が自由であり、意志によって行為がなされたと社会が宣言するのである。言い換えるならば、自由意志は、責任のための必要条件ではなく、逆に因果論的な発想で責任を把握する結果、論理的に要請される社会的虚構に他ならない。
意志は、個人の心理状態でもなければ、脳あるいは身体のどこかに位置づけられる実体でもない。意志とは、ある身体運動を出来事ではなく行為だとする判断そのものだ。人間存在のあり方を理解する形式が意志と呼ばれるのだ。人間は自由な存在だという社会規範が、そこに表明されている。意志や主体はモノではなく、コト、すなわち社会現象として理解しなければならない。(P159)
主体とは、責任を問う社会的文脈におかれて初めて意義を持つ概念である。人間が主体的存在だから責任を問うのではない。論理が逆だ。責任を問う社会習慣があるから、主体としての人間が把握されるのだ。(P161)
行為の出発点として<私>を措定する発想がそもそも誤っている。<私>はどこから生まれるのかという疑問がすぐさま出るからだ。論理は無限遡求に陥り、行為の原因は<私>を通り抜けて雲散霧消してしまう。(P161)
人間は意志に従って行動を選び取るのではない。逆に、行動に応じた意識が後になって形成される。警察の厳しい取り調べの下、犯行動機が後から作られる。また、服役生活において罪を日々反省する中で、犯行時の記憶が一つの物語として出来上がる。(P191)
実際に行為に至った者には、もともと殺人者の素地があったと我々は後から信じ、またそのように本人が思い込まされるのである。(P191)
~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~
確かに、社会に何らかの不都合が生じたとき、それが理解不能の謎のままであれば、
ヒトビトの不安は拭えず、悲しみや怒りも鎮められないし、折り合いのつけようがない。
何らかの説明と対処が求められる。
仮に世界は自然法則に従って推移しているだけで、そこに何の理不尽なことはないとしても、
ヒトにとっては、納得できず、理不尽としか思えないことは起こりうる。
犯罪者を特定してその責任を問えば、社会が決めた規範を再確認し、社会の秩序を守るのに役立つことはあるだろう。
そのために、自由意志と責任ある主体、が要請される。
それは実は虚構なのであるが、ヒトの社会にとっては真実味があり疑いがたい、当然の常識となってしまっている。
人間に自由意志がないなんて、常識的に考えて俄かには信じ難い。
そうでなければ、期待される機能を充分に果たすことはできない。
もちろんこの虚構は、科学とは成立原理が異なるものであるから、細部までの整合性や一貫性は保証されず、様々な議論の混乱が生じてくるのはやむを得ない。
ヒトの脳神経系は、全体を統括する中央制御装置(CPU)がない、並列分散処理になっている。
脊髄、脳幹、小脳、大脳辺縁系、大脳新皮質等の各部位が、それぞれある程度独立した処理を、並行して別々に行っている。
また、右脳と左脳もそれぞれある程度特化した機能を、別々に担っている。
ヒトの認知過程は、多くの情報処理があちこちで、並列的に同時進行しながら行われる。
実際に行為を産み出す過程と、意識や意志を認識する過程は、別々に進行する。
意識とか意志とか呼ばれるものは、行為を産み出すプロセスとは別に、
各所でそれぞれの過程で処理されたデータが、総合された結果として生まれてくる。
そのようして認知された意識や意志は、当然ながら、行為の原因ではない。
そういう意味で、行為の原因は自由意志にある、とするのは幻想であり虚構である。
この虚構は、人を裁くためだけではなく、ヒトの言語・習慣・社会・制度等に埋め込まれ、ヒトの現実と切り離せなく結び付いている。
社会的に構築されたこの虚構があるお陰で、現実の社会が回っていて、社会が成立・維持していられる。
そのような虚構を構築できないと、ヒトは生物進化・自然選択上、不利になる。
論理的な先後関係は、上記のようには明らかとは言えないかもしれないが、
この虚構が、ヒトや社会にとって、なかなかに捨てがたいものであることは、確かだろう。
自由意志は、ヒトの主観的感覚として、事実上、科学的世界観と現に両立している。
ここで主観的感覚というのは、現象的意識とか、生活実感とか、常識的世界感とか、クオリアとかと言い換えても、差し支えないだろう。
様々な錯視は、それが錯覚であるとわかってからも、やはりあいかわずそのように見えてしまう。
地球が様々に複雑な形で高速運動しているという科学的説明に納得しても、大地が不動であるという、ヒトの主観的感覚は変わらない。
ヒトの意識というものは、そもそもがそのようにできているようだ。
犯罪を捜査するヒト、起訴するヒト、裁くヒトは、それぞれ妥当そうな解釈をして、ひとつの物語をかたち造る。
その対象となったヒトも、自分なりにもっとも妥当そうな物語を考え出して、なんとか納得するか、反発するか諦める。
被害者側のヒトにも、それぞれの想いや物語がある。
それをみているヒトたちも、それぞれの視点で様々に解釈して、それぞれの物語を造って語り合う。
そうして、ヒトの社会全体として、何とはなしに決着がついていくことになる。
それでおさまれば、社会にとって不足はない。
自由意志と責任ある主体が、ナニガシの犯行動機をもって、コレコレの行為をした。
そこには、責任を免責するような、科学的な根拠や原因は認められない。
″科学的な″精神鑑定による鑑定評価の物語でも、認められなかった。
さらにどこまでも詳細に、それに至る無数の経過や、脳神経系の状況等まで、科学的に遡ることはできない。
もしそうすれば、違った景色が見えてくるかもしれないが、
真実がどうであるか判らないままで、仕方がない。
それぞれの物語が完全に一致することはなく、本当の真実など誰にもわからない。
科学技術の進展によって、例えば DNA 鑑定によって、後に冤罪が判明することもありうるが、それはやむを得ないこととする。
この著者には下記のような書名の本もあり、全体として同様な発想による同じような議論が展開されていて、それらには相当の内容重複もあるるようだ。
一般的には、ヒトの自由や主体性の問題に突き当たると、そこで立ち止まって、
後ろを振り返って過去の偉人の言葉を持ち出したり、難解で高尚そうな理屈を弄んだり、苦し紛れに見える議論を展開したり、ヒトの実践上のあるべき姿に言及したり、当然の前提として避けて通ろうとしたり、・・・、
等のことが見受けられる。
言及すると収拾がつかなくなる、ある種、不可侵の領域のようになっている。
言葉を濁さずに、ここまでハッキリと断言するのは、珍しいかもしれない。
当方がこれまでアーだコーだと述べてきたことの各論の、そのものズバリの表現のようにも見える。
ヒトの意識の常識的な中身は、ヒトの当面の生存・繁殖という実存・実践に役立つ、実用的なものであるが、それは、
イリュージョン、幻想、錯覚、錯誤、勘違い、思い違い、無根拠、謬見、偏見、妄想、迷妄、虚妄、架空、仮設、仮想、バーチャル、マトリックス、物語、神話、ファンタジー、フィクション、虚構。
どのように表現するのが適切なのか。
この著者の以下の例にならって、ヒトが実体視しているもの、思い込んでいるものを、次々と『〇〇という虚構』という形で列挙していく。
おそらく、これ以上に挑発的で過激な表現はないでしょうね。
(これらの本の中には、端的に″嘘″という表現もあり、″捏造″や″隠蔽″、″欺瞞″や″囮(おとり)″というのも見られるが、これはちょっと。)
なお念のため、当然ながら以上は当方の解釈や見方に過ぎず、著者自身の論理や意図と連動しているものではありません。
○『増補 民族という虚構』 小坂井敏晶 2011/5/12 https://amzn.asia/d/0vEMe6u〇 『神の亡霊: 近代という物語』 小坂井敏晶 2018/8/2 https://amzn.asia/d/71qcRGD○『増補 責任という虚構』 小坂井敏晶 2020/1/10 https://amzn.asia/d/16Jsti1○『格差という虚構』 小坂井敏晶 2021/11/10 https://amzn.asia/d/2ItiK2w
(✳️過去記事)『ユーザーイリュージョンという発想』 https://nbsakurai.exblog.jp/320880『生き残るために有効なバーチャル・リアリティ』
http://nbsakurai.exblog.jp/3977758『生活実践のために要請される、素朴心理学、心の素朴実在論』 http://nbsakurai.exblog.jp/349『天性の心理学者という発想』
https://nbsakurai.exblog.jp/321759/『人の心は進化の産物という発想』 https://nbsakurai.exblog.jp/321738/『進化心理学という発想』 http://nbsakurai.exblog.jp/1530552『自我はどこに存在するのか』
https://nbsakurai.exblog.jp/9099541/『まず意思決定、理由は後付け』
https://nbsakurai.exblog.jp/7853768/『世界観としての科学』 https://nbsakurai.exblog.jp/320026/
(2023.6)
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( 蛇 足 )
これは本論から離れた蛇足です。
小坂井敏晶氏の論理展開について、それとの違いを明らかにすることによって、当方が考えている科学的世界観の意味内容を明確化する、という趣旨のものです。
小坂井氏の述べておられることは、大いに納得できるところがとてもたくさんあり、大変興味深いものですが、どうしても違和感が拭えないところがあります。
① まず、社会の統治・秩序維持の根本原理として、次のような移行があったと考える。
[A] 唯一神の権威 ➡ [B] 個人の主体性
この移行を「近代という物語」としてとらえ、にもかかわらず、[B]には[A]の「神の亡霊」が残存しているとする。
これは、小坂井氏の論理について、詳細を省き、単純化・図式化したもので、決して充分なものだとも、正確なものだとも言えないもので、ただ上記の目的に資するためだけに設定したものです。
当方の疑問点を述べると、
アウストラロピテクスやネアンデルタール人が、上記の[A]のような根本原理を持っていたか。
キリスト以前の、ギリシャやローマはどうか。
八百万の神がいた日本に、[A]を秩序の根本原理としていた時代があったか。
現代のヒトの社会は、世界中のどこでも、[B]を根本原理としているか。
ヒトの社会の秩序維持には、必ず、[A]か[B]が根本原理として必要なのか。
社会の統治や秩序維持には、もっと違った、様々な複雑な事情がありうるのではないか。
また、ヒト以外の生物や物に意図や主体を見てしまうという、いわゆる擬人化は、近代になってから見られるものではないのではないか。
そういう主体という見方は、ヒトの歴史の、ずっとずっと昔に遡ることができるのではないか。
なお、これらの疑問全体について、当方は詳細な知識も、明確な意見も持ってはおりません。
② また、次の二択が設定される。
[C] 主体性をもった個人が自由意志に基づいて行為がなされるから、責任が発生する。自由意志は、責任のための必要条件である。
[D] 責任者を見つけなければならないから、行為者が自由であり、意志によって行為がなされたと社会が宣言する。因果論的な発想で責任を把握する結果、主体性が論理的に要請される。
そして、[C]ではなく、[D]だとされる。
当方の疑問点としては、
社会の秩序維持には、[C]か[D]以外に選択肢はないか。
処罰行為をする時に、自由意志とか主体性とかいう理屈を、コネ回すことがどうしても必要か。
アウストラロピテクス、ネアンデルタール人、ギリシャ・ローマ人、日本人、その他の世界のヒトビトはどうか。
ヒトは何事も、熟慮して論理的に結論を出した上で行為する、というわけではない。
害を与えられたりズルしたりヒトを見れば、怒りや嫌悪感を感じ、それだけで直感的に報復や罰を与えたくなってもおかしくない。
ヒトは、ヒトに対してだけではなく、生物にも、現象にも、物にも、情動に任せて対応することがある。
ホモサピエンス以前の人類も、類人猿も、その他の動物も、そのような理屈によらず、情動に任せて、同じようなことをしてきたのではないか。
チンパンジーやボノボは、他のチンパンジーを罰することはないか。
そに時のチンパンジーは、そのような理屈を考えているか。
自由意志とか主体的責任などという概念なしでも、しかるべく対応することができたのではないか。
ヒトはいつから、そんな難しい理屈を考えるようになったのか。
世界の科学的説明が発展するまでは、そのような理屈は必要とされなかったのではないか。
③ さらに、ヒトは、次のように考えるようになったとする。
[E] 主体性をもった個人が、自由意志に基づいて行為する。
[F] 社会を維持するためには、責任者を見つけなければならない。
そして、[E]を考える前に、[F]を考えるようになったとする。
後者を考えるようになってから、前者が考えられたとする。
当方の疑問点としては、
なぜ、[E]を考えるようになる前に、[F]を考えるようになったのか。
前者単独よりも、後者から前者へという方が、論理的に複雑で、高度な知能の発達を要するのではないか。
まず、[E]を考えるようになって、その後に[F]を考えるようになった、と考えてはまずいのか。
霊長類や類人猿から始まる生物史、あるいは人類史の、どの時点で、[E]や[F]が考えられるようになったか、それを示すなんらかの根拠はあるか。
当方は、次のように考えました。
①は、氏が移られたフランスや英米ヨーロッパ、一神教が席巻した時代を経験した地域では、当てはまるのかもしれないが、
ヒト全体には必ずしも当てはまらない、ローカルなものではないか。
②や③は、論理的整合性はあるが、具体的根拠が欠けているのではないか。
生物進化の過程で、ヒトの当面の生存・繁殖という実存・実践に役立つ実用的なものとして、
このようなヒトの意識の常識的な中身が、時間をかけて徐々に形成されてきたのではないか。
生物進化の観点からは、生存・繁殖に役立つ行為に結び付くものであれば、ある意味、その動機や理屈はどうでもいい。
その場その場で、全体的に適応的な行為ができればそれで充分で、論理的一貫性などは気にもとめない。
そして近代になって初めて、論理的に様々な高度な議論が、このように行われるようになってきたのではないか。
ヒトの考えている自由意志は虚構である、それに基づく責任も虚構である、
自然法則に従う世界に、そのような主体がありようはずがない、でも、
そういう虚構の上にこそ、ヒトの社会が成り立っている、
そういう虚構の常識のおかげで、ヒトはうまく生きていられる、
これで、記述論としては充分なのではないか。
まずはヒトのあり方の実態の方が先にあって、その構造や論理は、後から様々に解釈・議論されるようになったものではないか。
ローカルで短期的な歴史の一事例についてはともかく、ヒト全体について、それ以上の確かなことは分かっていないのではないか。
ヒトがヒトを裁くのは、究極的には、哲学的・論理的整合性を確保するためでも、科学的真実を追求するためでもなく、
社会に生じた当面の不都合な事態を、なんとか現実的におさめようとするところにあるのではないか。
ここでこのようなことを述べても、犬の遠吠えのようなものでしょうが、
上記の記事を書いた行き掛かり上、述べずにはいられなくなってしまいました。
小坂井氏の論旨や意図を充分に理解しているのかどうか、確かでもないのに、特に、規範論は述べないと言いながら、
権威主義や全体主義はダメだ、多様性や自由平等は大切だ、社会は停滞することなく変化・進展することが望ましい、社会問題はちゃんと理解すべきだ、捏造や欺瞞はいけない、未来に繋がる道をどう見つけるか、人間社会のあり方を問い続けなければならない、・・・、
等と規範論を述べているようにも見える点が、当方はどうにも解せないでいるのに、
引き合いに出して、勝手なことを述べました。
これには、当方が考えている科学的世界観の意味内容を明確化する、という以上の意図はありません。
言わば自作自演、一人相撲のようなものです。
なおこれらは、それを否定するとか議論すべきでないと言っているのではなくて、
そういう議論をすることはもちろん結構だけれども、
当方の考えている科学的世界観の範疇からははみ出していると考えている、というだけのことです。
当方の出発点・立ち位置は、世界はどのようであるか、というところにあります。
ヒトや社会はどのようであってほしいかとか、どのようであるべきか、という方向には踏み出さないようにしよう、としております。
そこに踏み出すと、客観的な事実の世界から、主観的な価値・当為・規範の領域に入ってしまい、
まとまり・収拾がつかなくなると考えているからです。
そのどれが妥当なのか、客観的に判断することはできず、最終的には主観的な意見・主張を述べ合うという以外になくなる。
これとは違う出発点・立ち位置がありえます。
まず、ヒトや社会のあり方に不満や疑問があり、その上で、ヒトや社会がどのようになっているのかを考える、というものです。
そういう立ち位置からでは、純粋な記述論に留まることは、おそらくできないのでしょう。
客観的な記述論のつもりでいても、主観的な価値・当為・規範の意識がどうしてもにじみ出てしまう。
社会の現象は、批判や改善や推奨の対象になる。
社会科学というのは本来的にそのようなもので、客観的事実に留まってはいられないものなのでしょうね。
自然科学の研究の場合でも、同様なことが起こり得るし、現実に起こってきたと思いますが、
そこには検証という歯止めがあって、主観的な要素は最終的には排除され得る。
そこが大事なポイントだと、当方は思っております。
いまは根拠が乏しい言説が含まれていたとしても、それが事実だと主張するのではなく、また単に論理的議論に留まるのでもなく、
検証を受ける必要があるという姿勢が明確にあるのであれば、ありうる仮説として何ら問題ではないでしょう。
個々のヒトには、それぞれ主観的な様々な利害や立場や想い等があって、
それに伴う視点や立ち位置があり、見方や考え方の枠や型というものがあって、
それを完全に振り払って、純粋に客観的な立場に立つことなど、なかなかできそうにもない、のかもしれません。
ここでの話を離れて、ヒトの社会の一般論として、
科学的・客観的な形を取りながら、微妙に主観主張がまぶされた(擬似)科学的言説が、この世からなくなることは、おそらくないのでしょうが、
それはそれで、ひとつのアリ方だろうとは思います。
ヒトはそれで当然で、それがフツーのアリ方なのかも。
ヒトは客観的でなくてはならないとか、合理的でなくてはならないとか、そんな客観的・合理的根拠があるわけでもないでしょう。
そこをさらに過激に突き抜けて、”不合理ゆえに我信ず”、というところまでいけば、
もはや合理的な議論の余地はなく、
それはなんというか、一方の極として、お見事 ! というしかないかもしれません。
もちろん、それを情熱的に布教しようとか、他のヒトに押し付けようとかしない限りにおいて、ですが。
それは、合理的根拠を必要としないので、なんの制約もない何でもありの世界になるのでしょうが、
そのヒトの主観では、任意のある大切なことを信じていて、しかもそう信じるしかほかにない。
もしかしたら、それがむしろヒトの普通のアリ方なのかも。
自分では気づいてなくても。
それなら、それに気づいて不合理であることに自覚的であることは、大いに素晴らしい。
それ、ちょっとおかしいんじゃないの、と言われても、決して怒らないし、たじろがない。
たとえ合理的でなくとも、こうとしか生きようのない人生がある。
信じるものは、神、霊魂、来世、阿弥陀仏、天国極楽、唯識、日本の国体の本義、イデオロギー、目指すべき目標、来るべき素晴らしい未来、果たすべき役割、究極の真理の発見、正義の実現、美の発現、ラブ&ピース、ユートピア、・・・、
なんでも、もう少しささやかなものあってもでもいいが。
検証ともエビデンスとも無縁な生きる智恵。
そういうの、ちょっとは羨ましくもあるかな。
信ずる者は救われる ?
とうとう、ここまで言ってしまいました。
ここまでを読まれた方がいらっしゃいましたら、失礼をいたしました。
十数年の休眠状態から目覚めて、ここまで約1年。
もうこれですべてを述べきったかな。
新たな投稿は、この辺で打ち止めになりますように。
諸行無常、この blog にもいずれ終わりがくる。
((2023.7)
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( 虚構シリーズ )
気楽な気分で、"〇〇という虚構"を並べてみましょうか、
試しに、思いつくまま。
ちなみに、『サピエンス全史』のユヴァル・ノア・ハラリ氏も、”虚構”という表現を使っていますね。
〇 『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福 』 ユヴァル・ノア・ハラリ 2016/9/8 上巻 第1部 認知革命
第2章 『虚構が協力を可能にした』
https://amzn.asia/d/eF1YNVS
自己 (コギトエルゴスム)、という虚構
自由意志、" (以下同じ)
責任ある主体
自己同一性
人格
人の尊厳・毀誉褒貶
富・権力・名誉
神仏・霊魂・来世
冠婚葬祭儀礼・礼拝・祈り
呪い・占い・ジンクス・預言者
天国極楽浄土・地獄・輪廻転生
永遠の定常宇宙
人権
権利・義務
自由・平等
イデア
正義
善悪
普遍的真理・普遍的理念・普遍的価値
倫理・道徳・定言命法
罪悪・原罪
犯罪・悪人
善人・聖人君子
法律
法人・会社
有限責任
株式・債券・投資
世間・社会
所有権
支配権
マネー
市場・合理的経済人
資本主義・新自由主義・金融資本主義
社会主義市場経済
史的唯物論
労働基本権
正社員・非正規・同一労働同一賃金
雇用契約・請負契約
人種
民族・民族自決・多民族国家・民族紛争・分離独立
ヤマト民族・熊襲(くまそ)・蝦夷(えぞ)・アイヌ民族・琉球王国
国家・国語・国旗・国歌
領土・領海・領空
独立戦争・国家統一・侵略戦争・中央集権・地方分権・連合国家
国境紛争
歴史認識
国籍・二重国籍・多国籍・無国籍
国民・非国民・在留資格・外国人労働者・移民・難民
国家主権
王権神授・万世一系の天皇
国民主権
民主国家
法治国家
立憲主義
大和魂・国体の本義
五族協和・大東亜共栄圏
EU (欧州連合)
ASEAN (東南アジア諸国連合)
UN (国際連合)
平和の祭典・オリンピック
機会均等
人格・能力による当然の格差
自己責任
高貴な血統・家系
ジェンダー
企業戦士労働男性・家事育児家政女性・男女同権・家事分担・イクメン
結婚・一夫一妻・不倫・事実婚・同性婚
胎児の生まれてくる権利・妊婦の自己決定権
嫡出子・非嫡出子
本籍・夫婦子供同姓・別姓
父権・親権
核家族・核大家族・親族・遠い親戚・他人
かけがえのない命・悲惨な延命措置・尊厳死・孤独死・安楽死
心臓死・脳死・臨死体験
・・・・
かなり過激でしょう ?
これをどこまで続けられるのか ?
どこまで妥当性があるのか ?
ヒトが経験的・常識的・人文学的に考えていること、そして、
社会科学的・哲学的に考えていることは、ほとんどスベテが虚構 ?
やっぱり、「イリュージョン」とか「幻想」とか、
ヒトや社会の要請による「仮設」の構築物とか「神話」だとか、
諸行無常で実体のない「空」とかに留めておいた方が ?
(2023.7)
~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~
なお、人工物として社会的・文化的・心理的に構築された諸概念の、修正や改善・再設計等を目指すという「概念工学」、
そういう発想での「自由意志」概念の扱いについて、
追記1: 『自然法則・予測可能性・自由意志』 の、 『自由意志論の四つのプロジェクト』
(2023.11)
]]>
追記4: 自己という幻想 ・ 量子論と「空」
http://nbsakurai.exblog.jp/33299776/
2022-10-12T22:00:00+09:00
2024-01-27T04:34:48+09:00
2023-06-14T16:00:27+09:00
nbsakurai
★ ★ 総 括 ★ ★
本文から始まって、ここまでの話をまとめるとすれば、 移り変わらない、究極不変の実体、などというものはない。
何ものも、それ自体の本質をもって、独立に存在してはいない。 真・善・美や実在の本質、などというものもない。
変動するそれぞれの状況で暫定的にはありえても、究極の意味・価値・目標・目的などというものもありえない。
あらゆるものが、仏教にいうような縁起、関係性・相互依存の網の目の中にある。 ヒトも、そういう自然の摂理の一部である。 他の生物を含めた地球の自然は、周りの環境として、ヒトが自由に活用できる資源、などではない。 ヒトは、自然法則に従う科学的世界から逃れて、その外部に立つことはできない。 地球の自然生態系の、その内部にこそ、ヒトは存在している。 宇宙や自然は、ヒトを中心として、ヒトのためにあるのではない。 ヒトは、他の物質や生物とは違い、科学では解明できない超自然的な神秘をまとった、非物質的で神聖・不可侵な何か、というわけではない。
科学的世界観に反するような形での自由意志は、錯覚ないし幻想というしかない。 自然法則を破る、自己という個人の自由意志というものは、フィクションないし虚構である。 ヒトの実存的意味として執着したいかもしれないが、それらは幻想ないし神話である。 ヒトは、自然法則に従う、科学的世界の一部なのであって、 それとは異なる、自己という独立した実在というのは、幻想なのだ。
この地点まで来れば、仏教哲学の、 縁起、依他起性、諸行無常、諸法無我、無自性、一切皆空、・・・というものと、無理なく素直に繋がっていけるように思う。 本文からここまで記事の内容が、この次の記事に自然に繋がっていければ。 (2023.6)
なお、ここで「本文」というのは、
『意識 (自己) というイリュージョン』 https://nbsakurai.exblog.jp/32010400/
また、「次の記事」というのは、 補足1: 仏教哲学と瞑想実践 https://nbsakurai.exblog.jp/32247922/
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解釈モジュール
〇 『〈わたし〉はどこにあるのか: ガザニガ脳科学講義』 マイケル・ガザニガ 2014/8/28 https://amzn.asia/d/4sWiCEW
現在の神経科学では、意識は総合的な単一のプロセスではないというのが定説だ。 意識には幅広く分散した専門的なシステムと、分裂したプロセスが関わっており、そこから生成されたものをインタープリター・モジュールが大胆に統合しているのだ。(P127) さまざまなモジュールやシステムが注意を惹こうと競いあっていて、強者が神経系(システム)として浮上し、その瞬間の意識的経験の土台となる。 たえず入ってくる外からの情報に脳が反応して、行動の展開を計算し、実行に移すあいだに、意識的経験も組みたてられていく。(P127)
私たちは無数のモジュールから構成されているのに、自分が統一のとれた存在だと強烈に実感しているのはなぜか? 私たちが意識するのが経験というひとつのまとまりであって、各モジュールの騒がしいおしゃべりではない。 意識は筋の通った一本の流れとして、この瞬間から次の瞬間へとよどみなく、自然に流れている。 この心理的統一性は、「インタープリター」と呼ばれるシステムから生じる経験だ。 インタープリターは、私たちの知覚と記憶と行動、およびそれらの関係について説明を考えだしている。 それが個人の語り(ナラティブ)につながり、意識的経験が持つ異なる相が整合性のあるまとまりへと統合されていく。 混沌から秩序が生まれるのだ。 インタープリター・モジュールはヒトの脳の左半球だけに存在すると思われ、仮説を立てようとするその衝動が、人間のさまざまな信念を生じさせる原動力になっている。(P127)
このシステムは、自分が「自分」であるという感覚を与えてくれる。(P128)
私たちの主観的な自覚は、意識上に浮かんできた断片的な情報を説明しようとする左半球の飽くなき追求から生まれでている。 「浮かんできた」と過去形で表現しているように、これは後付けの解釈プロセスだ。 インタープリターは、意識に入り込んできた情報からしかストーリーを紡ぐことはできない。 意識は時間のかかるプロセスだから、意識にのぼったことはすべて過去のできごとだ。(P129) 過去のできごとに理由をでっちあげ、それがほんとうであると信じることに、私たちはどれほどの時間を費やしているのか。(P129)
この後付け解釈プロセスこそが、自由意志、決定論、自己責任、倫理基準という壮大なテーマに深く関わっている。(P129) これらはすべて進化の過程で選択された精神システムだということだ。 たまたまそれを持っていた個体が、生存と生殖を勝ち取ることができた。 そして私たちの祖先となったのである。(P129)
(✳️過去記事)『自我はどこに存在するのか』
https://nbsakurai.exblog.jp/9099541/『まず意思決定、理由は後付け』
https://nbsakurai.exblog.jp/7853768/
➡️ 補足2: ヒトは象使い・形而上学的な問い は 疑似問題 ? https://nbsakurai.exblog.jp/33340931/ (2023.11)
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量子論と「空」
〇 『世界は「関係」でできている: 美しくも過激な量子論』 カルロ・ロヴェッリ 2021/10/29 https://amzn.asia/d/9zM69CZ
わたしたちは量子論を通して、あらゆる存在の性質、すなわち属性が、じつはその存在の別の何かへの影響の及ぼし方にほかならない、ということを発見した。事物の属性は、相互作用を通してのみ存在する。量子論は、事物がどう影響し合うかについての理論である。そしてそれは、現在わたしたちの手元にある最良の自然の記述なのだ。(P86)
わたしたちが見つけた最良の現実の記述は、出来事が織りなす相互作用の網の観点からなされたものであり「存在するもの」は、その網のはかない結び目(ノード)でしかない。その属性は、相互作用の瞬間にのみ決まり、別の何かとの関係においてだけ存在する。あらゆる事物は、ほかの事物との関係においてのみ、そのような事物なのだ。(P195)
この世界が属性を持つ実体で構成されているという見方を飛び越えて、あらゆるものを関係という観点から考えるしかない。(P144)
ナーガルジュナの著作の中心となっているのは、ほかのものとは無関係にそれ自体で存在するものはない、という単純な主張だ。この主張はすぐに量子力学と響きあう。(P152)
何ものもそれ自体では存在しないとすると、あらゆるものは別の何かに依存する形で、別の何かとの関係においてのみ存在することになる。ナーガルジュナは、独立した存在があり得ないということを、「空」という専門用語で表している。事物は、自立的な存在でないという意味で「空」なのだ。(P152)
ナーガルジュナのおかげで、関係抜きでは語れない量子について考察するための圧倒的な概念装置が手に入った今、わたしたちは、自立的な本質という要素が存在しない相互依存を考えることができる。じつは、相互依存しているからには、── ここがナーガルジュナの主張の鍵なのだが、── 自立的な本質のことはいっさい忘れなければならないのだ。(P155)
ナーガルジュナは、この世界には実体がないとするニヒリストではなく、自分たちは現象について何も知り得ない、とする懐疑主義者でもない。(P157)
ナーガルジュナの「空」は、じつに心安らぐ倫理的な姿勢を育んでくれる。自分が自立的な実体として存在しているのではない、という悟りは、自身を愛着や苦しみから解き放つ助けとなる。人生は永久には続かず、いかなる絶対も存在しないからこそ、意味があり、貴重なのだ。(P158)
ナーガルジュナは人としてのわたしたちに、この世界がのどかで軽く、光輝く美しいものだと教えてくれる。わたしたちは、イメージのイメージでしかない。自分たちを含む現実は薄くもろいベールでしかなく、その向こうには ┅┅ 何もないのである。(P158 )
この本の根っこには、わたしたち人間も自然の一部である、という確信がある。わたしたちは、無数の自然現象のなかの一個の具体的な事例であって、それらの現象のどれ一つとして、わたしたちが知っている偉大な自然法則から逃れることはできない。(P162)
量子論によると、わたしたちが混乱しているのは、自分たちの直感が誤っているからなのだ。(P163)
著名な理論物理学者ブライアン・グリーンとロヴェッリは対談のなかで、 「自分たちが書く本は、倫理的には、読了した人が、物理学によれば価値や意味のないこの世界に生きている自分に満足し、死ぬとわかっている自分の存在に満足できるのものでなければならず、物理の語りによって安眠を妨げてはならない」、 「基礎物理の説明から哲学の説明まで、さまざまなアプローチを理解したときに、それらは別々の洞察を与え、それらの洞察の集合体が、わたしたちにもっとも満足のいくこの世界の像を与えてくれる」 という点で意見の一致を見ているが、このような開かれた姿勢もまた、本作の特徴と言える。(訳者あとがき・P218)
(✳️過去記事)『ようやく<中観>を読んだゾ』http://nbsakurai.exblog.jp/322132『空の論理 ―― 無自性』http://nbsakurai.exblog.jp/3919947『nb釈 「空」という発想』https://nbsakurai.exblog.jp/321814/『縁起・無自性・空・中道の関係』https://nbsakurai.exblog.jp/3866187/
〈存 在〉とは何か、というようなテツガク的問いに答えるとするなら、 関係性、相互作用、相互依存 ≒ 縁起 ∴ 無自性、 空 (2023.11)
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補足1: 仏教哲学と瞑想実践
http://nbsakurai.exblog.jp/32247922/
2022-10-12T00:00:00+09:00
2023-10-19T20:39:39+09:00
2022-09-11T10:50:54+09:00
nbsakurai
★ ★ 総 括 ★ ★
〇『なぜ今、仏教なのか――瞑想・マインドフルネス・悟りの科学』 ロバート・ライト 2020/8/5 https://amzn.asia/d/7YEA7Ra
これは、進化心理学と仏教哲学という、当方にはうってつけの組合せの本です。 進化によってもたらされた妄想から、いかにして解放されるか。 この本の著者は、18年前に自分の″覚え″のために記録しておいたはずの、 『100 進化心理学という発想』 http://nbsakurai.exblog.jp/1530552で引用した、『モラル・アニマル』のロバート ライトです。〇『モラル・アニマル』 ロバート・ライト 1995/9/1 https://amzn.asia/d/9rzjHcA この内容の意味記憶はともかく、エピソード記憶としては失われていました。 この本の標題、『モラル・アニマル』というのも、内容を想起させるようなものではありませんし。
仏教の、無我・無常・空というのは、単に哲学に留まるものではなく、瞑想という実践と一体のものであるようです。 最近のIT企業等で行われているというマインドフルネスというものは、仕事の効率や成果をあげるため、ストレス軽減、自己制御や自己効力感を養うという、自我の強化に向かう方向性のもののようです。 スティーブ・ジョブズの禅の実践や禅の精神も、どっちかというとこの方向性のもののような印象を受けます。 そういう活用の仕方もアリだとは思いますが、 仏教瞑想は、無我・無常・空を悟るという、自己が実体のないイリュージョンであるという方向性のもののはずで、まるで逆方向です。 『サピエンス全史』の、ユヴァル・ノア・ハラリの場合は、こっちの方向性のもののようです。〇『21 Lessons: 21世紀の人類のための21の思考』 ユヴァル・ノア・ハラリ 2019/11/19 P398~ 『21 瞑想――ひたすら観察せよ』 https://amzn.asia/d/aEhSojE
今般の参考図書の目録では、次のようなものを挙げてきました。〇『呼吸による癒し―実践ヴィパッサナー瞑想』 ラリー・ローゼンバーグ 2001/2/2 https://amzn.asia/d/9cjuq4b〇 『ブッダの〈気づき〉の瞑想』 ティク・ナット・ハン 2011/5/11 https://amzn.asia/d/7elmY0l〇 『マインドフルネス 気づきの瞑想』 バンテ・ヘーネポラ・グナラタナ 2012/8/23 https://amzn.asia/d/9Y6FKOl〇 『仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か』 魚川祐司 2015/4/24 https://amzn.asia/d/6nfIFf8〇 『自由への旅: 「マインドフルネス瞑想」実践講義』 ウ・ジョーティカ 2016/11/25 https://amzn.asia/d/dSJ6RlD
普通の日本人の合宿による瞑想実践(リトリート)の体験記として、次のような本もあります。〇 『なぜ僕は瞑想するのか ヴィパッサナー瞑想体験記』 想田和弘 2021/4/26 https://amzn.asia/d/78lm93d あるいは余計なことかもしれないけど、その瞑想実践の当事者の解説本として、〇 『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門: 豊かな人生の技法』 ウィリアム・ハート 1999/11/25 https://amzn.asia/d/67LZhR3 驚くべき素晴らしい貴重な体験ができて、考え方や生き方が大きく変わる、ということのようです。 たいへん魅力的で、やろうと思えば自分にも挑戦できるはずなのですが、残念ながらその覚悟や気力は湧いてきません。 どうも、頭でっかちのイクジナシらしい。
ヒトの生き方を図式的に分けるとすれば、・ バーチャル・イリュージョンの世界のなかで、自己の物語りを大切にしつつ真摯に生きる。(そういう立派なヒトは確かにいると思う。)・ 無我・無常・空を悟って、自己と世界というイリュージョンから脱して生きる。(そういう気高いヒトもいるらしい。) という二つのいき方がある、というふうに言うこともできると思いますが、 当方はどっちつかずの、どうにも中途半端のままでいくしかないようです。 ダメなアタシ。
・・・という自己の物語りを、また語っています。
]]>
補足2: ヒトは象使い ・ 形而上学的な問い は 疑似問題 ?
http://nbsakurai.exblog.jp/33340931/
2022-10-11T12:00:00+09:00
2024-01-30T15:39:20+09:00
2023-07-12T03:57:02+09:00
nbsakurai
★ ★ 総 括 ★ ★
ヒトを象使いにたとえる、象使いのメタファーというのがあります。 なかなか本質をついた、興味深いたとえだと思います。
〇 『しあわせ仮説 古代の知恵と現代科学の知恵』 ジョナサン・ハイト 2011/7/6 https://amzn.asia/d/ixHMzOo
心は、いくつかの部分に分裂しており、それらは、時として対立する。心の理性的役割を果たしている意識は象の背中に乗っている象使いと同様に、象の行動に関して限られた制御しかできない。(P4)
心理学における最も重要な考えを理解するためには、心が、時には対立する複数の部分に、どのように分裂しているかについて知る必要がある。(P14)
合理的選択や情報処理に関する現代の理論では、意志の弱さを十分に説明できない。それに対して、動物をコントロールするという古いメタファーは、うまく説明している。自分の意志の弱さに驚いた時私が思いついたイメージは、自分が像の背中に乗っている象使いであるというものだった。私は手綱を握り、あっちへ引っ張ったり、こっちへ引っ張ったりして、象に回れ、止まれ、進めなどと命令することができる。象に指令することはできるが、それは象が自分自身の欲望を持たない時だけだ。象が本当に何かしたいと思ったら、私はもはや彼にかなわない。(P14)
人間の合理性は、決定的に洗練された情動に依存している。情動脳があまりにもうまく機能しているので、理性も問題なく機能するというだけのことだ。馬鹿な野獣を制御している御者、というプラトンの理性に対するイメージは、御者の知恵だけではなく、能力も誇張しているかもしれない。ダマシオの発見には、象に乗った象使いのメタファーの方がふさわしい。知的な行動をするためには、理性と情動は共に働かなければならないが、情動(主要部分である象)がその大半の仕事をする。大脳新皮質の出現によって、象使いが働けるようになったのだが、象もさらに賢くなったのである。(P25)
情報処理モデルとコンピュータのメタファーへの長い心酔の後、心理学者たちは、実際に、制御されたプロセスと自動化されたプロセスという二つの処理システムが心の中で同時に動いている、ということに気づき始めた。(P25)
象使いは、象に仕えるために進化したのだ。(P29 )
人間の脳は、食物やセックスが、神経伝達物質であるドーパミンの小さな爆発を起こすように配線されている。それは、遺伝子の生存に有利になる活動を楽しめるようにするために脳がとった手段なのである。(P30) 自動化されたシステムは、自然淘汰によって、迅速で確実な反応を引き起こすように形成され、私たちに快や苦痛を感じさせたり、生存に関する動機を引き起こしたりする部位から構成されている。(P30 )
それに対して、制御されたシステムは、助言者と考えた方がふさわしい。象使いは、象がより良い選択をするのを助けるために象の背中に乗っている。像使いはより先の未来を見通すことができ、他の像使いと話したり地図を読んだりすることで貴重な情報を処理することができるが、象の意思に反した命令をすることはできない。(P30 )
要するに、象使いは助言者か召使いなのである。王でも、大統領でも、手綱をしっかりと握った御者でもない。象使いは、ガザニガの解釈モジュール、つまり意識で制御された思考である。それに対して、象はその他のすべてである。象には直感や内蔵反応、情動、勘などが含まれ、それらが自動化システムの大部分を構成している。象と象使いはそれぞれの知性を持っており、それらがうまく協同して働いた時、人類独自の素晴らしい英知が開花する。しかし、彼らがいつもうまく協同して働けるとは限らない。(P31)
➡️ 追記4: 自己という幻想 https://nbsakurai.exblog.jp/33299776/ の、『解釈モジュール』
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① ヒトは、情報処理の合理的選択機構(象使い)だけではない。 ② ヒトは、生存・繁殖の無意識的生存機構(象)だけでもない。 (この言い方はちょっと、象に失礼だとは思いますが。) ヒトにはこの両方があるが、 両者は必ずしも整合しない。 もっとも、このように明確に二つに区分できるとは限らず、 その間には微妙なグラデーションがあるかもしれないが。
①は、②のためにある。 ②に役立つように進化してきた。 意識的に考えて、最適な選択をしようとする。 ②を合理的に制御しようとするが、充分な支配権はない。 ②は、論理的には辻褄の合わないこともしたりするが、 ①は、②の行為を解釈したり、正当化する物語を造ったりもする。 それは、②の活動とは別になされる。 実存的な疑問をもち、社会的・哲学的な議論を考えたりもする。 情報処理は、ただそれをするだけでは意味がない。 なんのために情報処理をするのか。 それは情報処理だけからは導かれない。 情報処理のコンピュータは、自ら何かしようとはしない。 手足も意欲も生活もない。 でも学習することはできる。 ニューラルネットワークで、ディープ・ラーニングもできる。 ただ答えが出ても、自らの生活活動に活用するわけではない。
②は、①の言うことを必ずしも聞かない。 聞き分けの悪い、童心が騒ぐ。 ①の知らないうちに、無意識的・自動的に作動したりする。 論理的・合理的でなくとも、生存・繁殖に役立てばいい。 ①の情報処理には時間もコストもかかる。 そんな時間やコストをかけていては間に合わない場合もある。 後で情報処理してみると、まずかったということもあるだろう。 わかっちゃいるけどやめられない。 同じ失敗をくりかえしたりもする。 何でそんなことをしたのか、自分で自分がわからない。 わからなくても差し支えない。 それは造り付けになっている。 コンピュータと違って、ソフトを簡単には書き換えられない。 でも繰り返し訓練することはできる。 各種技能を、いわゆる体で覚える、ことができる。 一度身に付けば、意識せずに活動・実行できるようになる。
このたとえはなかなかなもので、これを使うと、様々なことがうまく説明・理解しやすくなる。 ヒトは悲しもうとして悲しみ、怒ろうとして怒るわけではない。 自ずから悲しみが込み上げてきたり、怒りが沸き上がってきたりする。 これは、本人の意図や意志とは無関係に、肉体の生理機能の変化とともに、どこからかやって来る。 偏見やステレオタイプ的な見方も、同様に気づく前にそうなってしまっている。 物思いに耽ったりするのも、そうしようとしてそうしているのではなく、いつの間にかそうなっている。 そうしたヒトの想いや考えは、本人の意図とは無関係に起こってくる。 ヒトが実際にしていることの多くが、本人の意識的な努力や意志とは無関係な、出来事として起こっている。 それに気づかなければ、そのまま通り過ぎてしまう。 気づいてそうしないように意志したとしても、うまく制御できるとは限らない。 逆に、何かを意識的・意図的に実行しようとしても、うまく制御できないことがある。 ダイエットとか、禁酒・禁煙とか。
自己が幻想であるにしろ何にしろ、前の『蛇足1』の瞑想実践には、自己制御が課題となるだろう。 ①による②の制御。 また、後の『蛇足3』の人工生命・人工意識の実現性にも関連するだろう。 ②は人工生命に、①は人工意識に。 両者併せて人工生命意識 ? 生存・繁殖の肉体・情動をもたない、合理的情報処理って、意味ある意識? (2023.7)
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( 更なる蛇足 )
この宇宙が138億年前にでき、46億年前にできた地球に、生命が誕生したのが38億年前。 それ以来生物は、その時その場で生存・繁殖に、より適したものが生き残って子孫を残し、 そうでないものは消えてゆくという進化の過程を、今日まで延々と繰り返してきた。 当初の生物は、生存・繁殖の単純な無意識的生存機構でしかなかったが、 永年にわたるそれらの過程を経て、次第にその機構を高度化・複雑化させていって、 ついには、合理的な行為選択をするための、緻密な情報処理の機構まで持つようになった。
それは当初は、環境から有用な情報を集め、その時その場で生存・繁殖に適した行為をするものであったが、 やがては、過去の行為を反省してその後の行為を改めたり、将来をシミュレートして現在の行為を選択するまでになった。 いつもうまくできるわけではないが。 そしてついには、直接に生存・繁殖に役立つとは限らない、抽象的な情報処理までもするようになってきた。 数学や自然科学、相対論や量子論は、そのようにして生まれ、結局はヒトの生存・繁殖に役立てられるようになった。
しかしながら、最終的に生存・繁殖に役立つのかわからないことまで論理的に考え始め、 ついには、次のような哲学的・ケイジジョウ学的なことまで考えるようになった。 存在とはなにか ? 世界は何のためにあるのか ? ヒトや社会はどうあるべきか ? ヒトが生きることの意味は ? 何のために生きるのか ? 何を目指すべきか ? ヒトが生きる目的とは ? 死んだらヒトはどうなる ?
これらは、生存・繁殖のために造られた情報処理機構の、本来のアリ方からは逸脱した、 逃れられようのない、もしかしたらある種の副作用・暴走であるのかもしれない。 それが一方では哲学や科学を産み、他方では文学や芸術などの高尚な文化を産み出したのかもしれないが、 結局は建設的ではない、不毛な泥沼に足をとられたまま、そこから抜け出せなくなる、のかな。 どんな疑問にも必ず答がある、というわけでもないだろう。 そのような、客観的・論理的な情報処理では答えの出せない問題、答えのない疑問(疑似問題)に拘らずに、 本来の業務である、生存・繁殖機構の順調な運行のメンテナンスに専念していられるなら、あるいはそれがシアワセというものなのかも。 (2023.7)
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科学では扱えない問い
上に述べたような哲学的、ケイジジョウ学的な問い。 この宇宙や世界は、どうしてこのようなものとしてあるのか。 ここで今このようにして、(自己を含む)ヒトが生きているのは、なにゆえなのか。 ヒトはいかにより良く生きるべきか。
このような問いは、事実認識を超えたものであり、科学によっては答ええない。 宇宙はこのようなものとしてあり、ヒトはこのように生きているという以上のことは、科学的には言いえない。 世界やヒトや自分の生の意味を求め、真・善・美等について、何らかの仮説を仮に立てたとしても、 それを客観的・科学的に検証するなどいうことは、原理的に不可能であろう。
それでは、神話・哲学・宗教・思想・文学・人生論・幸福論・賢人の箴言・・・等によってはどうだろう。 答えうるという前提で、数千年前からのヒトの歴史のなかで、様々に答えが提示されてきたようだ。 いろいろな時代のいろいろな社会で、いろいろなヒトがいろいろなことを唱えてきた。 それらは、ヒトはかつて、こんなことやあんなことを考えていたんだという、 ヒトの歴史的事実の検証・確認という点では意味のあるものであろうし、 それがそれぞれの時点でヒトや社会に何らかの効果を有効にもたらした、ということもありうるだろう。
ただ、次々と提示されてきたありとあらゆる多様なものはバラバラで、それらの全体を整理・統合するようなことはできそうにもない。 普遍性や客観性があるわけではなく、次々と新たに生まれては、確証されることも反証されることもなく、それぞれに流行と衰退を繰り返してきたもののよう。 それらは結局は、個々のそれぞれのヒトの、直観や感性・想像力や論理に基づくもので、 究極的には、自分はこう思う、という以上のものではないようだ。 〇〇(誰某)の信仰・思想・哲学・真実・正義・信念・想い・・・等ではあっても、 答えはヒトそれぞれで、誰もが納得するような決定的な答え、というものはどうもないようだ。 いつまでも議論が終息することはない。 もっとも、答えがない(見つからない)問いだからこそ、考え続け問い続けること、 それこそが哲学するということだ、ヒトが生きるということだ、というような見解もあるようだ。 ある見方によれば泥沼に足をとられて抜けられらくなっている困った状態を、 別な見方ではそれこそがテツガク的な深淵な深みだと積極的に評価する、ということもありうるだろう。
それらの説の中には、現在までに得られた科学的知識や事実に、明らかに反する内容のものもある。 ヒトの認知は、生存・繁殖に役立つよう、生物進化という創造主によって、バイアスがかけられている。 相対論や量子論によると、ヒトの生来の直観は誤っており、それによって様々な混乱が生じているようだ。 科学的世界観によるとするならば、科学的な知識や事実に反するもの、単なるドクサ(思い込み)は、排除または矯正されなければならないだろう。
その上で、個人的な信念として、それらの説のいずれかを受け容れ、支持するということはありうるのかもしれない。 ただ、どのようなテーマや場面においても、ヒトや社会の全体の考えが一致するというようなことはなく、 多元的にある混沌とした多様なな意見や立場のうちのひとつ、という以上のものにはなりようがない。 自分がいくら疑いえない確実な真理だと思っても、その信念の内容は絶対的・必然的・普遍的なものではありえず、 他のヒトに共感・共有されるとは限らない、あくまでも個別的・相対的なものに留まることだろう。 そこから生きる上でのヒントを得たり、それに感動して勇気を与えられるヒトもいるかもしれないが、つまらないものとして、 違う意見や立場のヒトから見れば、なんて不合理で愚かなんだろう、というように評価されることもありうるだろう。 それでもおそらく多くのヒトが、そのような問いの答えを求め続けるのだろう。
それぞれがその時点である程度の支持を得て、学派や主義者のグループができたとしても、意見が相違する別の立場が常にありうる。 科学の仮説の場合にも意見や立場の相違があるが、最終的にはそれが終息することが想定されている。 簡単に思いつく例では、天動説と地動説、定常宇宙論とビッグバン宇宙論、(絶対)空間・時間と(歪んだ)時空、(神はサイコロを振らないというアインシュタインの)古典論と量子論、等。 科学の場合には、検証という試練があって、それに叶わないものは排除され、それにパスしてきたものが生き残っていく。 科学の歴史を振り返ると、廃棄された仮説や理論が山をなしている。 そういう検証にかからないものは、忘れられ衰退することはあっても、独自の見解としていつまでも残っていける。 そして細々と生き永らえていたものが、あらためて注目され息を吹き返して、新たな形で流行することもありうるだろう。 (2023.10)
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形而上学的な問い は 疑似問題?
〇 『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考』 古田 徹也 2019/4/26 https://amzn.asia/d/9WLx4Lz
古来人々は、「哲学」や、その一部門としての「倫理学」、「美学」、「形而上学」といった名の下で、経験的な内容を超えた世界の本質や原理について問うてきた。 そして、それに対する解答を探ってきた。 たとえば、なぜ世界は存在するのか。 人生の生きる意味は何か。 普遍的な倫理や美はどのようなものか。 魂は不滅なのか。 神は存在するのか。 世界は因果法則に従っているのか、等々。 ウィトゲンシュタインの考えでは、これらの問題はすべて人々の言語使用の混乱から生じたものにほかならない。 つまり、昔から哲学の領域でなされてきた大半の議論は、言語が従っている論理について人々が十分な見通しをもっていないがゆえに延々と続けられてきた、全く無意味な問いと答えの応報にすぎない、というのである。(P27)
『論考』は、・・(中略)・・哲学の問題の大半が語りうることの外にあることーー哲学の命題や問いのほとんどはそもそも無意味であることーーをア・プリオリなかたちで論証しようとする書物である。 もしこの目論見が正しいとすれば、哲学の問題に対する答えに真や偽という判定を下すことはそもそもできないことになる。 なぜなら、哲学の問題という最も深淵な問題は「実は全く問題ではなかった」ということになるからである。 これまでの哲学者たちは、自分たちが用いている日常言語の見掛けに惑わされ、その論理を理解できず、結果として様々な疑似問題をこしらえてきた。 そして、それに答えようという無駄な努力を重ねてきた、ということである。(P150)
ウィトゲンシュタインにとって哲学とは、「言語批判」に尽きる、ということはすでに確認した。 自分からは、語りうること以外は積極的に何も語らないこと。 すなわち、自然科学をはじめとする諸科学の命題ーー真なる命題ーーのみを語ること。 そして、他の誰かが、「人生の意味は〇〇である」とか、「人が従うべき普遍的な倫理は〇〇である」とか、あるいは、「神は存在する」、「魂は不滅である」、「世界は他ならぬこの私に対して開かれている」等々の語りえないことを語ろうとすれば、そのたびごとにそう指摘すること。 すなわち、・・(中略)・・哲学が発している問いがそもそも有意味にはなりえず、したがって答えるのも不可能だと明確にすること。 彼によれば、その活動こそが哲学にほかならない。(P330)
我々はこの活動に踏みとどまらなければならないとウィトゲンシュタインは訴える。 ここを越え出て、絶対的に価値があると信じるものについて、あるいは形而上学的主体ないし哲学的自我などについて語ろうとすれば、そのものをむしろ失ってしまうし、価値の根拠が示されれば、それは相対的な価値に堕してしまうし、逆に、示さなければ、文字通り根拠を失ってしまう。(P331) だから、我々は語りうることだけを語らなければならない。 そして、語りえないことを語ろうとする営みをーー形而上学的としての哲学をーー批判しなければならない。(P331)
しかし、ウィトゲンシュタインはその詮無き行為を批判し、あざけっているわけではない。 むしろ、その反対である。(P257) やむにやまれず、切実にこれらの表現が発せられているのであれば、そこでは真に重要なことが示されていると彼は考える。 講演の最後を、彼はこう言って締めくくるのである。(P257)
倫理学が人生の究極の意味、絶対的善、絶対的に価値のあるものについて何かを語ろうとする欲求から生ずるものである限り、それは科学ではありえません。 それが語ることはいかなる意味においても我々の知識を増やすものではありません。 しかし、それは人間の精神に潜む傾向をしるした文章であり、私は個人的にはこの傾向に深く敬意を払わざるをえませんし、また、生涯にわたって、私はそれをあざけるようなことはしないでしょう。(P257)
才気あふれる哲学・論理学者の、この若き日の確信は、しかしおよそ十年後には瓦解することになる。 いったん大学から去ったウィトゲンシュタインは、1929年、40歳になる年にケンブリッジへと舞い戻る。 そして『論考』の議論を自ら批判し始める。 その後の彼の歩みは、一般に「後期ウィトゲンシュタイン」として知られるものである。(P343) (2024.1)]]>
補足3: 人工物による生命・意識の実現性の問題
http://nbsakurai.exblog.jp/32278580/
2022-10-11T00:00:00+09:00
2023-11-26T04:47:56+09:00
2022-09-14T13:04:31+09:00
nbsakurai
★ ★ 総 括 ★ ★
生命も意識も、この世にあるものならば、その意味や仕組みが分かり、技術的問題が解決されれば、原理的に実現できないという理由があるとは思えない。 何らかの人知が及ばない神秘があって、決して実現不能と言えるような、そんな謎や理由があるという、まともな根拠は聞いたことがない。
生命については、その原理的なことはかなり明らかになってきてはいるとしても、詳細についてはまだまだ不明な点が大いに残されており、さらに、技術的な面についてはこれからというところだろう。 既にある生物を操作することは、かなり危なっかしいところがあっても、ある程度できるようになってきてはいるように思うが、全くのゼロからの生命創造ということになれば、まだまだ先の話ではないか。
操作の方では、人工授精、体外受精・顕微授精等の生殖補助医療いわゆる不妊治療で誕生するヒトが、いまでは新生児のかなりの割合にのぼっているらしい。 成功率はそんなに高くはなく、かなりの金銭的・精神的負担があるようだが。 また、一時、クローン人間というものが話題になったことがあるが、これは遺伝子が同じ別人ということであり、年齢の違う一卵性双生児のようなものであって、倫理的にはともかく、特に深刻な哲学的問題が発生するようなものではないだろう。 遺伝子組み換えは相当程度行われているようだが、ヒトに行うことは、倫理的・法的に問題視されている。
それでは、意識はどうか。 意識という言葉が何を指しているのか、なんかいかにも分かっているような気になっているが、 きちんと定義してみろと言われると、これがなかなかに難しい。 それぞれの人によって様々なイメージがあるものと思うが、これが意識だという誰もが納得する、みんなに共有される定まった定義があるかというと、これがなかなかどうして、一筋縄ではいかない。 ただしその操作ということになると、政治的・商業的にかなりあからさまに行われているように思う。 ヒトは意外にたやすく誘導されるようで、その方面の研究も相当に熱心になされているようだ。 ヒトはたとえ誘導されたものであっても、それには気づかずに、あたかも自分の自由な判断で行ったように思ってしまう。 ヒトの意識をいかに巧妙に操作するか、 もしもその手口や技術、それが世界の行方を決するのだとすれば、この世界をいったいどう考えればいいんじゃい、というのはまた別のハナシ。
意識の研究については、かつては、各種の精神疾患や脳卒中、脳腫瘍や、頭に損傷を負ったヒトの研究や、癲癇治療のために左右の脳半球を繋ぐ脳梁を切断した分離脳の研究、等によって行われていた。 重篤な精神疾患をもつ患者に対する抜本的な治療法として、前頭前野の神経線維を切断する脳外科手術、ロボトミーが行われ、悲惨な結果を招いたこともある。
生理学的な脳神経系のレベルでの最近の研究方法としては、
EEG 脳の電気的変化をみる脳波測定、MEG 磁気的変化をみる脳磁図、CT エックス線を使用したコンピュータ断層撮影、PET 陽電子を使ったポジトロン断層撮影、fMRI 機能的磁気共鳴画像法、等がある。 もっと侵襲的な操作としては、手術の際に脳に電極を差し込んで電気刺激する方法や、脳に埋め込む脳深部刺激装置、等によって研究・治療がなされている。 非侵襲的な手法としては、経頭蓋の電気刺激、磁気刺激、超音波刺激、等の方法があり、研究や治療に役立てようとしている。 それらにより研究がかなり進んできたとは言っても、空間分解能、時間分解能とも、満足できるようなものではなく、隔靴掻痒で痒いところに手が届くような研究はできておらず、 脳の神経回路について分かっていることはまだホンの僅かであって、むしろ分かっていないことだらけと言うべきだろう。
分かっていないものを機械に実装したり、移植したり、コンピュータでシミュレートしたりできるはずもない。
脳神経系の研究により、意識とはこういうもので、こういい仕組みで動いてます、などと言えるような状況ではない。 いまだ、多数の盲人が像を撫でて、自分が触れた部分で像とは何かを言うという、"郡盲像を評す"の状態に近いのではないか。 単純で分かりやすい明快な説明など、ありようもない。 脳科学者を自称するヒトは、何かもっともらしいことを言う前に、ホントはまだ本質的なことは何も分かっていない、と言うべきかもしれない。
意識というのはニューロンのネットワークなんだから、コンピュータ上にニューラル・ネットワークのシミュレーションを造って、深層学習させれば、それで意識の出来上がり、 意識の本質は情報なんだから、コンピュータ上にそれらしい情報の流れを造れば、はい意識の出来上がり、 と考えている人もいるらしい。 それで意識を造ったとして、その人にとってはそれが意識なのかもしれないが、みんながそれが意識であると納得するかどうかは、かなり疑わしい。 チューリングテストというのは、外から会話してみてヒトと区別できなければそれでいいじゃん、という発想のものだが、それでみんながみんな、納得するものだろうか。 ロブナー賞という賞があり、チューリングテストの大会が行われているようだが、今のところ人と区別が付かないと判定されたものはないようだ。
もっともヒトには、山や岩や雲のような無生物にも、生命や意図や魂をついみてしまうという、アニミズムのような傾向もあるようで、 そういう傾向は、狩猟・採集生活をしていたご先祖様には、なにかと適応的だったのかもしれない。 感情を持っているという触れ込みのソフトバンクのロボット、ペッパーに身近に接して覗き込まれたりすると、ただのメカだと頭では分かっていても確かに妙な気分になる、ということはある。 また、ソニーの犬型ロボット、アイボを家族同然に可愛がっていたヒトが、アイボが"死ぬ"とお葬式をする、さらに献体する、ということもあるようだ。 これは、使えなくなった縫い針を供養する針供養や、刀は武士の魂というのとは、ちょっと違うような気もする。 ヒトは案外簡単に、人工意識を認めてしまうのかもしれない。
意識というものは、生物を生存・繁殖に適するように行為させるという、大事な機能を発揮しているものなんだ、という認識に立つと、
肉体がなく、ただ情報処理や論理計算をやっているだけのものを、意識と呼べるのかどうか。 それを動かし、その結果のフィードバックを受け、行為を調整するという、そういう身体のない抽象的な情報処理を、果たして意識と言えるのかどうか。 ヒトには、喉の乾きや飢えの感覚があり、飲食する喜びや、排尿・排便の快感、性欲やオーガズムという感覚もあり、これらは生物としてのヒトの生存・繁殖の基本のようにも見える。 また、カラダが元気な時と疲れたり弱ったりしている時とでは、意識のあり方も変わってくるだろう。 眠たくなったり、酒を飲んで酔いたくなったりもする。 毎日、顔を洗い、歯を磨き、風邪をひいたり、二日酔いになったりする。 そのような情動を持たない、ビット情報処理のコンピュータのハード・ソフトウェアは、ヒトの意識と相同のものになりうると、果たして言えるのかどうか。
それは、AI人工知能とは言えるとしても、ヒトの知能とは違うし、まして人工意識とは言えないだろう。 そういう人工知能は、論理計算や情報処理によって、例えば、
・ ヒトが嫌がるキミの悪いゴキブリを、駆除しようとするのか、 それとも、・ ヒトにいじめられてかわいそうなゴキブリを、邪悪なヒトの魔の手からなんとか救おうとするのか、 どのような基準で、どのように判断するのだろう。 また AI はそもそも何を自らの課題とし、その知能を何をするために活用するのか。 AIはそれを造り・利用するヒトの、正当な・あるいは邪悪な目的に利用されるものではあっても、 それが乗ったメカそれ自体では、情動や動機や独自の意図を持ってはいないだろう。 そもそも、根底にその前提となる、身体を使った生の生活経験というものもないし、 ただただ生きようとする盲目の意志、のようなものがない。
全体として、生命については、その活動のプロセスが科学的に説明できるものとして理解され、
″いのち″とは何か、というような哲学的・形而上学的疑問の余地が、残されているようには思えない。
それでは意識についてはどうかというと、
そもそも意識というものがどういうもので、どのような仕組みでできているのか、その核心ともいうべきものがほとんど分かっていない。 そういう現状にあるもかかわらず、 あたかもヒトの意識を物理的にコピーしたり、培養液の水槽に浮かべたり、冷凍して保存したり、人工的に容易に造れるかのように言うのは、どうなのかとも思う。 まずは、意識の意味や仕組みを充分に解明するというのが先決問題ではないのかな、と思うがどうだろう。
➡️ 補足2: ヒトは象使い https://nbsakurai.exblog.jp/33340931/
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補足4: 自己の物語り
http://nbsakurai.exblog.jp/32282536/
2022-10-10T00:00:00+09:00
2023-10-19T20:41:04+09:00
2022-09-15T11:28:56+09:00
nbsakurai
★ ★ 総 括 ★ ★
この blog を書いているヒトは、科学者でもなければ哲学者でもありません。
ただの素人、市井の一般人です。
本人はその思索・読書の動機を、(たぶんカッコイイつもりで?)、次のように表現していました。
われわれの住むこの宇宙は、どのようにして始まったのであろうか。
そのなかで生命はどのようにして生まれ、人類はどのようにして誕生したのか。
自分はどこから来てどこへ行くのだろう。
自分の生きているこの世界はどのようなものであり、そして自分とは何なのか。
人生の目的や意味はどこにあるのだろう。
運命のようなものですべてのことが決定されているのだろうか。
・・・。
そして本人は、科学的な知識や事実をもとにして、(無謀にも?)世界の統一的な把握を試みようと、
あちこちさ迷いながら、ともかくも読書・思索を続け、時にはネット上で意見交換(?)をしたりもしてきて、その経過(残骸?)がこの blog に今も残されています。
この blog には十数年間のブランクがありましたが、その間もその試みが細々と継続されてはいました。
その間には、科学の方でもいろいろと進展がありました。
また、必ずしも科学とはいえない分野にも手を出し、宗教全般、特に仏教哲学にはちょっとは深入りしました。 なお、宗教一般について、
ヒトに宗教的経験・神秘的とも言える内的体験がありうることは確かだろうと思いますが、
そうした体験なくしては宗教の理解はありえないのか、
それとも、ヒトがそうした体験をすることを、大脳生理学や進化論的に理解するのが妥当なのか。
後者の途が、科学的な世界観というものだろうと思います。
仏教には2千5百年もの歴史があり、現在までに、生物進化の系統樹のように、様々に分化し枝分かれしてきたようです。
現在の仏教を大きく分けると、
① 初期仏教の流れを受け継いでいるという、上座部系(長老派、テーラーワーダ)、
② 根本分裂・部派仏教の時代を経て5百年後に現れた、大乗仏教系、
③ さらにその後のヒンドゥー教っぽい曼荼羅やマントラ・加持祈祷の、密教系、の3つに分けられるようです。 なお、発祥の地のインドでは、ヒンデュー教に飲み込まれるようにして衰退し、ヒンドゥー教の立場からみると、仏教はその一分派に過ぎないともみられているらしい。
日本の禅宗の曹洞宗は、不立文字・只管打坐といってただひたすら座禅するという精神論・体育会系のようにも見え、臨済宗は公案といういわゆる禅問答をするようなもの、というのが当方の見立てです。
それ以外の日本の大乗仏教系や密教系は、創始者であるゴータマ仏陀が生き返ってご覧になったら、なんじゃそりゃ、と目を丸くするようなものだろうと思います。
(全くの余談ですが、イエスが今のキリスト教の世界をみても、ムハンマドが今のイスラムの現状をみても、おそらく似たようなものじゃないか。)
ゴータマ仏陀の時代には、阿弥陀仏も、妙法蓮華経(法華経)も、観音サマも、大日如来もありませんでした。
ゴーダマ仏陀も、目覚めたヒトであり、偉大な指導者ではあっても、やはり人間であって、祈りや拝みの対象となる、神秘的・超越的な神仏などではありませんでした。
日本に、インドから中国・朝鮮経由で伝来した仏教というのは、①ではなく、②や③のみのようです。
そして日本独自の展開・発展もしてきた。
日本の仏教宗派には、それなりの存在意義があるのでしょうが、初期仏教の哲学という点では、大きくかけ離れているように見えます。
特に浄土真宗ともなると、悟りの仏教というよりも、救いの宗教であるキリスト教の方ににずっと近い、ように見えます。
一方は西方極楽浄土と地獄、他方は天国と地獄(と煉獄)。 たとえイエの宗派が浄土真宗であっても、科学的な世界観に立つ限り、ナミアムダブと唱えて極楽浄土に往生しようというのは、ちょっとムリ。
曹洞宗から浄土真宗、さらには神秘主義的な真言宗まで、日本の仏教は、とても一つの宗教とは思えません。
言ってることが、まるでバラバラです。
その中でも、宗教団体として成功しているのが創価学会や立正佼成会という、日蓮宗・法華経系なのなぜなのか、不思議と言えばフシギです。
日本の仏教の僧侶は、一般に、
戒律を守らず、肉食・飲酒・妻帯し、剃髪しない宗派もあり、寺の住職を家業のように世襲する、
徳川時代の寺檀制度のもとで、まるで檀家の戸籍管理係のような、いわば統治機構の下部機関の役割を果たしてきた、
さらに遡れば、権門体制の一部門であったり、国家鎮護の官僧であったりした、
という、特異な事情もあるようです。
なおこれは、それら日本の僧侶やお寺を批判するという趣旨ではなく、事実関係を述べているものです。
死後戒名や寺墓の葬式仏教も、仏様を拝む拝仏仏教も、それなりの存在意義があるのでしょうから、それを否定するつもりはありません。 それらは、ゴーダマ仏陀の仏経とは違う方向性のものだ、というだけです。
自分が求めていないものであり、それに惑わされて(勝手に)混乱した、というに過ぎません。
なお、過去記事の、「空」・「唯識」というのは、②の大乗仏教系のものです。
「空」というのは上座部系というより、大乗仏教の中観派が重視したもののようですが、当方はそれにこだわらずにいっしょくたにしています。
インドからスリランカ経由で東南アジアに拡がった、上座部的に言えば、無我・無常・空ではなくて、無我・縁起・無常とか、無我・無常・苦とかいう方がふさわしいかもしれません。
「空」には大乗的な独特な匂いがして、上座部的には避けるべきものなのかもしれません。
ただ自分としては、自己は幻想であるという「無我」とか、すべては過ぎ去っていくという「無常」とか、意識内容は実体のない「空」であるとか、
物事は自分の思い通りにはならないとか、共感や怒りが込み上げるとかいうことはあっても、実のところ、本質的に「苦」であるとは実感できないんですよね。
生・老・病・死は自然なことに思えるし、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦も、何度も転居を繰り返してきた身としては、事実としてそんなものだろうと思っています。
仏教用語で言えば、無記というか。
ヒトの実存にとっての最大の脅威は、"自己"という人格の消滅で、死への恐怖が最大の"苦"なのかもしれません。 生物進化では、生存・繁殖に成功したものが生き残り、失敗したものは淘汰される。 その範囲で、死を恐れて避けようとすることは、いわば当然に想定されることでしょう。 哲学的に合理的であろうがなかろうが、ヒトは生物として死を恐れるように造られていて、何らおかしくない。 また、必要があれば死を受け容れるのも、合理的である場合があるでしょう。 カマキリの雄は、交尾に成功すると雌に食われるらしい。 鮭は川を遡上して、生殖作業を終了すれば、その時点で息絶える。 ヒトは繁殖能力を失ってもなかなか死なないが、"おばあちゃん仮説"というのがあって、女性は孫の生存・繁殖に大いに役立ってきたらしい。 死への恐怖はそういう意味で、生物学的にみて合理的である、と言えるでしょう。
また、人口に膾炙する大乗仏教の般若心経は、見方によっては、まるでゴータマ仏陀の全否定、のようにも見えてしまいます。
悟りを開いたアラカンであり、智恵一番の仏陀の代表的弟子とされるシャーリー・プトラに対し、観音菩薩が、上から目線で説教を垂れるような構成になっているし、
ゴータマ仏陀が説いたとされる各種の教義を、いかにもズサンに扱っている、ように見えます。
最後には、おまけなのか本気なのか、マントラ・呪文までついているという。
まるで密教のよう。
当方は、『般若心経』について、
一時は CD を買って熱心に暗誦したりもしたのですが、今では、
新興の分派である大乗仏教が、それまでの仏教を否定し、貶め、自派の素晴らしさを喧伝するための、プロパガンダ、コマーシャル、スローガン、のようでもであり、
内容の詳細を具体的に示さずに、どのようにでも解釈・敷衍できる、意味深げな印象深い短い言葉「色即是空」等をちりばめて、人々を惹き付け、自らを広めるための、キャッチフレーズ、のようでもある、
という印象を持っています。
よくできたミームとして、人々の間にうまく拡がっている。
Amazon で「般若心経」を検索すると、その数5千件以上。
(ちなみに、「悪人正機説」がウリの「歎異抄」は、2千5百件以上。)
一時的とはいえ、まんまとこれに乗せられてしまった。
もしかしたら、意味など考えずに、集中して無心に唱えられるまでに三昧になれば、禅定と同じような効果が得られるのかも知れないが、そこまで夢中にはなれなかった。
そこには客観的に確定できるような厳密な意味などないので、ヒトは自分の見たいものを、それぞれ都合よく、好きなように読み込むことができる。
般若心経についての書物は、様々なものを読めば読むほど、ますます混乱して訳がわからなくなる。
誰もがそれぞれの解釈や発想で、もっともらしいことを好き勝手に言える状況にある、と口の悪い人なら言うかもしれません。
そういうこともあってか、日本の仏教関係の本には、実に様々な多様なものがあり、
それぞれがそれぞれの立場や視点や発想で書かれたもので、当方にとっては混乱の極み、というしかありませんでした。
「空」についての理解が深まる、なんてことはまったくなかった。
なお、説一切有部という部派仏教に、アビダルマ・倶舎論という論書があるが、その内容にはとてもついていけなかった。
大乗仏教の唯識瑜伽行派の、識の緻密・些末な分類・分析も同様。
中観派の空の論理の展開も、よく理解でき、納得できるようなものではなかった。
今になって思えば、ヒトいうのは、こんなこともあんなことも (イリュージョンとして) 考え出すんだ、ということが分かった以外、ほとんど時間と労力のムダだったという気がしています。
ヒトはそれぞれ驚くほど多様な、実に様々な異なる考えや信念を持つことができる。
なおこれは、大乗仏教等を批判し、否定するという趣旨ではなく、そこには自分が(勝手に)求めていたものがなく、別のところにあったというに過ぎません。
般若心経を入口にして大乗仏教に向かう方がいても、特に何の異存も異議もありません。
この混沌とした多様性を積極的に評価するとすれば、仏教思想の豊穣さ、とでも言うべきでしょうか。
ただ、一旦出来上がった仏教思想というものは、検証されて間違っているとされて排除されるということはなく、魅力を失って忘れ去られるという以外には、いつまでも生き残っていくのでしょう。
そこが科学とは決定的に違います。科学では、後に間違っていることが判明して捨てられた仮説が、累々と山をなしている。
ともかくも求めていた、無我・無常・空の仏教哲学の、これぞという本はなかなかに見当たらなかった。
『蛇足1: 仏教哲学と瞑想実践』で述べた、ヴィパッサナー瞑想というのは、上記①の上座部系のものです。
(※ ただ、ティク・ナット・ハンは、ベトナムの大乗仏教系の出身のよう。)
日本の仏教宗派の中では曹洞宗がもっともこれに近いと思いますが、
ただひたすら座れというのではなくて、もっと技法の伝統の事細かな蓄積があり、比較的初心者にも体系的に順をおって、ずっと親切な指導が受けられるもののようです。
仏教哲学ということになると、瞑想実践と一体化した、まずはこれらの本ということになる、のではないかと思っています。
様々にある多様な仏教のうち、科学的な世界観と整合しうるのは、ゴータマ仏陀の初期仏教・上座部系のようです。
仏教の縁起という(因果)関係は自然法則というのと親和性があり、超越的な神的存在を措定せず、万物は流転するという無常や、自己の実体性を否定する無我というのも、科学的世界観と相性がいい。
ただし、六道輪廻や業は除きます。輪廻転生する苦の世界からの解脱、というのはちょっとムリ。
この輪廻というのは仏教独自の教義というより、当時のインドでは誰もが認める、一般常識だったようです。
乞食・托鉢に対して布施したり、精舎を寄贈したりする民衆は、それで善業を積みたいという、宗教心を持っていたのかもしれません。
現在のマインドフルネスは仏教瞑想から宗教色を除いたものだ、という言い方もされるけど、もともとの仏教にはそれほどの宗教色などなかった、と言えるかもしれません。
ただ指導者としてのゴータマ仏陀の言うことを信じて、瞑想修行に専念するという以上のことは、特にないように思います。
ほかのは、それはちょっとムリということで、これでようやく整理がつく。
意識 (自己) が実体のないイリュージョンであることを、科学的・理論的にアタマで理解するというだけではなく、 ホントに実感してちゃんとカラダでしんから納得したいなら、これによるのがおそらくイチオシ、なのだろうと思います。
そうすると、普段見ている世界とは、違った世界が拓けて観えてくるという。
こういう瞑想を実践している熟達者の脳波や fMRI 画像をとると、それなりの変化・効果がみられるらしい。
禅の世界では、不立文字、教外別伝とか言って、本当に大事なものは言葉や文字にはならなず、体験を通して身体でつかみ取っていくしかないという。
自分では実践をチャンとやってもいないのに、いささか無責任ではあるのですが。
ゴータマ仏陀の時代の精舎とは、出家者が集団生活をしながら瞑想実践をするいわば修行道場のようなものであったようで、葬式・法事や礼拝・祈りの場ではなかった。
もちろん、釈迦牟尼仏・如来・菩薩・観音様などの、仏像や仏絵や掛け軸等の″ご本尊″が安置されている、ということもない。
唱名念仏も、お題目を唱えることもなく、マントラも漢文経典のありがたい読経もない。
また、小難しい哲学論議 (戯論) をすることもなかった。
そういう意味でも、蛇足1で述べた、合宿による瞑想実践(リトリート)というのは、本来の仏教に近い。
(敬称略)ロバート・ライトも、ユヴァル・ノア・ハラリも、魚川祐司も、想田和弘も、それぞれの立場で、みなこれをやっているようです。
これへの参加が無理でも、どういうものかがしっかり分かれば、個人的にそれなりに実践した生き方をしてみることは、あるいはできるかもしれません。
今回の記事は、そうしたことの現時点での総まとめ、改めて整理・確認するもの、というつもりのものです。
この作業を始めて約3ヶ月、自分がこれまで何を考え何をどうしてきたのかという自己の物語りが、整理されて次第に明確になってきました。
これもイリュージョンではないのか、といえば、そうではないとは言えませんが。
都合の悪いことは忘れられたり省略されたりし、全体の辻褄が合うように編集・作話されたりもしている?
とりあえずこれで一段落、ということになるでしょうか。
こういうふうに文章化してあらためて眺めてみれば、少しは客観視できるようにもなり、
もしかしたら、これを偶然に見た奇特な方が、盲点を指摘してしてくれたり、思いもかけぬ視点や発想を教示してくれるかもしれない。
今のところ特に反響はありませんが。
またいろいろ思い返しているうちに、その他の参考図書・その後の参考図書の目録も、だんだん増えてきました。
きりがないので、これもそろそろもういい加減にしようかと思います。
それではこれで、本人にとって問題解決なのでしょうか。
今では上記の当初の疑問に、そのまま文字通りに答えようとすれば、それなりになんとか答えられるような、つもりにはなっている、
そういう意味では、問題は「解消」したと言えるのかもしれません。
でもきちんと「解決」したと言えるのかどうかは、実のところよくわかってません。
これですっかり納得して満足、というわけでもない。
結論としてあんまり大したことも言ってないし、これですべての旅が終わり、すっかり終結したのかというと、なかなかそういうわけにもいかない。
これがひとつの終着点のようでもあり、新たな出発点でもあるような。
なんかここまで随分と遠回りしてきたな、というような気がしないでもありません。
もっと早く現在のような認識に達していたら、その後の世界や人生はずっと違ったものになっていたかもしれないな、などと思ったりします。
当時とは見える世界が違ってきているので、当然、視点も課題のあり方も変わってきています。
少なくともこれまでのような、科学的な図書の読書や、科学的な思考法で対応しようとするのが妥当するような課題では、もはやなくなってきているのかな。
ここから先は、そういう意味で、『科学的世界観のblog』の範囲内ではなくなってしまう、のかもしれません。
もしかすると、エンターテイメントとしての科学を気楽に楽しむ、というあり方も、あるいはあるのかもしれませんが。
~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~
( 追 記 )
一般にヒトのエピソード記憶は、
その時その場の状況をありのままに写し取ったものを、(コンピュータの)ディスクやメモリにそのまま保存する、というようなものではなくて、
特定の視点から把握されたものが、情動に彩られて選択的に、アナログな印象として残される、というようなもののようです。
同じ状況を一緒に経験しても、それぞれのヒトの経験・記憶内容が異なることは、普通にありうる。
記憶は、記銘されたものがその状態で固定されて、そのまま保存されていくというのではなくて、
その後の経験や新たな記憶の上書き等によって、微妙に変動していく。
外からの働きかけによって、記憶内容が誘導されたり、新たに付け加えられたりすることもある。
記憶内容の想起も、ディスクやメモリからデジタル情報をそのまま呼び出すようなものではなくて、
その時々の状況下で、必要に応じ、他の情報とも総合されて再評価され、意味付けされ、再構成されていくもののよう。
そのようにして、ヒトの自己の物語りが構成、再構成、更新されていく。
日記等の過去の記録を見ると、現在の記憶とは相当に異なっていることは、よくあること。
記憶は脆弱で変容しやすく、不確実で不正確なものである。
ヒトの記憶や自己の物語りは、本人がすっかりそう思い込んでいても、それほど当てになるものではない。
その後、『追記1』~の記事を書き加えていますが、これは、本文の内容の一部を拡大して、敷衍したものです。
本文の記事の作成の際は、できるだけ科学的世界観の範疇をはみ出さないよう、またなるべく表現が過激ととらえられないよう、留意していたつもりですが、
そういう制約の枠を振り切り、曖昧にしていたところをハッキリとさせ、考えていることすべてを思いのたけ述べてみよう、と試みたものです。
これで、良くも悪くも、自分の考えていることをより正確に客観視できるようになった、ものと思っています。
その内容は既に相当に確定・固定化してきていて、ドグマ化し、
読書・思索を続けても、新たな発見や発想や視点にはめぐり会えず、ほとんど進展がみられなくなってきている。
そろそろ行き止まり、撃ち方やめ、なのかな。
そこであらためて思うのは、自分の主たる関心は、世界はどのようであるか、というところにあって、
世界はどのようであってほしいとか、ヒトや世界はどのようであるべきかとか、自分はどうすべきか、というところにはない。
したがって、行動哲学や人生哲学にはなりえず、社会変革の活動家等にもなりようがない。
そして、ヒトや世界はこのようである、つまり、ヒトは幻想にまみれていると思っても、
造り付けられたその意識を、振り払うこともできない。
そういう、ヘナチョコなんだな、ということです。
ヒトの意識や意志を、象使いイメージでとらえるたとえがあります。
このポンコツ象 (禅の十牛図で言えば牛) を、自分はどう扱ったらいいのか。
牛を捕らえて手なずけようとするが、牛が暴れて始末におえない、第四図の得牛というところか。
牛を飼い慣らすなんてできそうにもない。
やっぱり、次のようなところに行き着くしかないのかな。
とりあえずは、象 (牛) の好きなようにさせる、特段の事態が生じない限り。
限界のある、決して万能ではない世界観としての科学、なんかとは手を切って?
進化は、適応的行動を導くようにヒトの知覚を造ってきたのであって、真実を見るようにではない。
創造主にあえて逆らう必要も、ないのではないか。
真実など追求しなくとも生きていけるし、知らないでいる方がむしろ生きやすく、気分も軽快で楽しいかもしれない。
イリュージョンでもバーチャルでも、そんなことは気にせずに、まさに見たり感じたりしているその通りの世界の中で、
自己の物語りを大切にしつつ、真摯に生きて楽しく過ごせれば、まさにそれが適応的で充分に満足できる、充実した人生というものなのではないか。
実感・素朴・常識的な世界の見方で幸せに楽しく人生を過ごせるなら、周りがとやかく取り沙汰することもないかもしれない。
(2023.7)
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蛇足5: コメント歓迎
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2022-10-09T16:24:00+09:00
2023-11-20T03:14:03+09:00
2022-10-09T16:10:08+09:00
nbsakurai
★ ★ 総 括 ★ ★
今般の作業を開始して、3月以上が経過しました。 とりあえず新たな加筆や補完等は、何も思い浮かばなくなりました。 その後も、多少の追記等をしたりしましたが、 これでまた、休眠状態に戻ります。
ただ、コメントは歓迎いたします。 なにかご指摘・ご教示・ご感想等がある方が、もしいらっしゃれば、 ここに気軽にコメントしていただければ、幸いです。
予期せざる偶然の出会いで、もしかしたら新たな視点が得られたり、しないかな。
今のところ、当分の間はこのブログを公開しておくつもりです。
こんなブログが何になるのか。
こんなことにかかずらわずに、ポジティブに生きられるなら、
その方がずっといいのかも。
あっても意味のないゴミであるなら、いずれ消え去るでしょう。
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休眠中
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2010-12-31T23:59:00+09:00
2023-07-31T14:46:41+09:00
2007-01-21T07:40:48+09:00
nbsakurai
『科学的世界観』のBlog
❰ 休 眠 中 ❱
休眠します。ていうか既に休眠状態に入ってます。
これまで気に留めていただいた方、ありがとうございました。
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科学的世界観のBlog の 目次
http://nbsakurai.exblog.jp/573682/
2010-12-30T23:59:00+09:00
2024-01-26T20:53:22+09:00
2004-10-16T17:00:19+09:00
nbsakurai
《 過去記事の目次 》
そこで、全体を見渡せるようにし、最初から順を追って読めるようにと、「目次」をつくってみました。 なお、
← 左の「カテゴリー」の「未分類」 の中に、 未整理の最新投稿 (とりあえず)
また、参考図書の目録も作ってみました。
★★ 目 次 ★★
000 このBlogについて
001 『科学的世界観』のBlog
149 blogを始めて約2月
099 時系列で整理した『科学的世界観』
144 世界でいちばん美しい物語
146 ガリレオの指
147 人類が知っていることすべての短い歴史
151 ビッグバン宇宙論史
101 私の意図
011 「世界観としての科学」
102 若干の補足説明
エリア1 (科学の周辺)
002 事実とは1
003 事実とは2
004 事実とは3
005 実在論とモデル論
006 量子論の多世界解釈
098 量子論の解釈問題
007 科学と哲学の関係
008 古代の偉大な思想と現代科学の世界理解
009 科 学 の 誕 生
010 世界を説明する統一理論
096 万物の理論(究極の統一理論)
152 万物の理論?
118 現代科学の宇宙論
158 宇宙論の現在
012 決定論と予測可能性
150 「決定論」と「自由意志」(―― は両立する)
110 科学の限界
エリア2 (客観Xと主観Y)
013 客観と主観、世界と私、ないしはXとY
014 物と生と心
015 Ⅹとしての生や心と、Yとしての生や心
016 意識し、実感する心Yとしての「私」
017 人間の二つの目、ないしは、観客席と舞台
018 右の目で見た世界、ないしは、橋もないし川もない
019 主観・主体・Yと内的知覚
020 世界認識とその根拠
021 自由意志
022 当為-何をなすべきで何をなすべきではないか
105 事実と価値
133 進化生物学――科学と価値のあいだ
134 事実認識と価値判断
153 科学は善悪を問うことができない
023 世界観と私1
024 世界観と私2
025 唯物論と観念論
026 Y が認識した理論の体系、 X
027 全ての基本は客観Xか
028 客観、X は実在するか
エリア3 (ロボットの心)
029 心の物語 - ロボットの心
030 ボクの夢
031 知的ロボ開発へ
032 触ると感じる新型ロボット
033 日本ロボット着々前進
034 不気味ですか? 「人間そっくり」
035 心をもつロボットについての雑感
036 機械の心
037 心を持つロボットを作ってよい
038 ロボットの心はバックアップできるか
058 『虚構色』について
059 ボトムアップ知能という発想
060 人はチューリングマシーンではないという発想
061 人の心はシミュレーションでは実現できないんではないかな?
062 やっぱ答えなんて無理かという弱気
092 心のメカニズム創造のアプローチ
エリア4 (問題の所在)
039 心の物語 - クオリア党宣言
040 「私」というミステリー
041 人間の二つの目
042 人間の二つの目、ないしは、観客席と舞台
043 当為-何をなすべきで何をなすべきではないか
044 対立やブンレツをドウする
045 Ⅹとしての生や心と、Yとしての生や心
046 意識し、実感する心Yとしての「私」
047 主観・主体・Yと内的知覚
048 客観的世界と主観的世界
049 心が認識する客観的世界
050 Y が認識した理論の体系、 X
051 全ての基本は客観Xか
エリア5 (様々な発想)
052 科学的知性と文化的知性の統合という発想
053 「情報流」の一部としての私たちという発想
054 心は<プロセス>という発想
055 主客の分裂という近代の余計な自意識という発想
056 クオリア・マニフェストという発想
057 ユーザーイリュージョンという発想
064 四つの象限という発想(1)
065 四つの象限という発想(2)
066 四つの象限の統合という発想
067 観想の眼、悟りという発想
091 心についての新しいパラダイムの提案――活動選択
095 スピリチュアル・マシーン
109 物と心についての様々な考え方
119 物理主義
120 生活実践のための要請される、素朴心理学、心の素朴実在論
121 世界内存在としての心
122 中央参謀本部としての心
124 社会情報処理装置としての脳
125 進化しすぎた脳
126 身体としてある行為
127 自己の無根拠性
128 自由意思、自己のない行為から真の自由が生じる
131 物理的記号系仮説、ないしは、コンピュータと脳とのアナロジー
132 意識 ―― 世界をシミュレートする脳
148 現実世界のモデル
エリア6 (生物学的発想)
063 認識装置が欠けているという発想
068 人の心は進化の産物という発想
069 自己意識は対人関係から生まれたという発想
070 『心の理論』と『ミラーニューロン』
071 天性の心理学者という発想
072 心は最も強力な実践理論という発想
073 精神→身体のつながりという発想
087 承前というか事後的補足というか
094 人間の本性を考える[上]
097 心の仕組み
100 進化心理学という発想
103 進化論的な視点で人間を見る
104 モジュール脳構造
106 進化の傷跡
107 脳と心の地形図
111 脳は美をいかに感じるか
112 意識的な自己の支配は幻想という発想 - 意識は潜在意識の産物
113 「ほんとうの自己」と「仮想の自己」
114 心に関する「進化的機能主義」
115 脳の進化の歴史
116 情動の力
141 生き残るために有効なバーチャル・リアリティ
143 自己とは?
145 チンパンジーの心
154 意識の探求
156 まず意思決定、理由は後付け
157 自我はどこに存在するのか
エリア7 (「空」・「唯識」)
074 nb釈 「空」という発想
076 付録 - 空を悟るための修行
079 「私」と「全体」の関係
084 ようやく<中観>を読んだゾ
085 どうにか<唯識>も読んだゾ
093 「空「と「唯識」
117 縁起・空・中道
123 「無常観」と「空観」
129 中道
130 慈悲
135 縁起・無自性・空・中道 の関係
136 空の論理 ―― 無自性
137 唯識(の識) と 分別知
138 アーラヤ識 : 遺伝子
139 無我 と 非我
142 唯心 と 唯識
077 おまけ 分別知の限界という発想
078 おまけの反論
080 唯識は非科学
081 禅の実践をnbがしない理由
082 輪廻からの解脱?
083 人間の脳は四層構造
075 唯物から「空」に至る道
086 進化の過程を生き延びてきた生物としての人という発想
088 もう少し説明
140 「空」と「唯識」の核心
~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~
エリア0 (この blog の総括)
◉ 意識 (自己) というイリュージョン
◎ 追記1: 自然法則・予測可能性・自由意志
◎ 追記2: ヒトの現状 ・ ヒトの近未来
◎ 追記3: 「自由意志と責任ある主体」という虚構
◎ 追記4: 「自己」という幻想 ・ 量子論と「空」
◎ 補足1: 仏教哲学と瞑想実践
◎ 補足2: ヒトは象使い ・ 形而上学的な問い は 疑似問題 ?
◎ 補足3: 人工物による生命・意識の実現性の問題
◎ 補足4: 自己の物語
( 総 括 ) https://nbsakurai.exblog.jp/i13/
~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~
未分類
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引用した参考図書の目録
http://nbsakurai.exblog.jp/1996098/
2008-12-29T16:00:00+09:00
2023-07-31T14:46:41+09:00
2005-02-12T13:58:22+09:00
nbsakurai
☆ 参 考 図 書 ☆
『 宇宙創成から人類誕生までの自然史 』 ―― 140億年の9つの進化を探る
和田純夫 ベレ出版
・・・・ 099 時系列で整理した『科学的世界観』
『 世界でいちばん美しい物語 』 ― 宇宙・生命・人類
ユベール・リーヴズ イヴ・コンパス ジョエル ド・ロネー ドミニク シモネ
木村 恵一 筑摩書房
・・・・ 144 世界でいちばん美しい物語
『 ガリレオの指 』― 現代科学を動かす10大理論
ピーター アトキンス 斉藤 隆央 早川書房
・・・・ 146 ガリレオの指
『 人類が知っていることすべての短い歴史 』
ビル・ブライソン 楡井 浩一 日本放送出版協会
・・・・ 147 人類が知っていることすべての短い歴史
『ビッグバン宇宙論』上・下 サイモン・シン 青木 薫 新潮社
・・・・ 151 ビッグバン宇宙論史
エリア1 (科学の周辺)
『 意識する心 』 ―― 脳と精神の根本理論を求めて
デイヴィット・J・チャマーズ 林 一 白揚社
・・・・ 098 量子論の解釈問題
『 サイエンス21 』 ミチオ・カク 野本陽代 翔泳社
・・・・ 096 万物の理論(究極の統一理論)
『 科学にわからないことがある理由 』 ― 不可能の起源
原著副題 ― 科学の限界と限界の科学
ジョン・D・ バロウ 松浦 俊輔 青土社
・・・・ 152 万物の理論?
岩波講座 『宗教と科学』4 『宗教と自然科学』 岩波書店
9 『現代宇宙論と宗教』 田中 裕
・・・・ 118 現代科学の宇宙論
『自由は進化する』 ダニエル・C・デネット 山形浩生 NTT出版
・・・・ 150 「決定論」と「自由意志」(―― は両立する)
『プリンストン高等研究所物語』 ジョン・L.カスティ 寺嶋 英志 青土社
・・・・ 110 科学の限界
エリア2 (客観Xと主観Y)
『社会生物学論争史 ―― 誰もが真理を擁護していた』 2
ウリカ・セーゲルストローレ 垂水雄二 みすず書房
・・・・ 133 進化生物学――科学と価値のあいだ
エリア3 (ロボットの心)
『 ロボットの心 』 ― 7つの哲学物語 柴田正良 講談社現代新書
・・・・ 029 029 心の物語 - ロボットの心
『 サイエンス21 』 翔泳社 ミチオ・カク 野本陽代
・・・・ 059 ボトムアップ知能という発想
・・・・ 060 人はチューリングマシーンではないという発想
『 ケンブリッジ・クインテット 』 Crest books
ジョン・L・キャスティ 藤原 正彦 藤原 美子 新潮社
・・・・ 062 やっぱ答えなんて無理かという弱気
『 心をもつ機械 』 ―― 人工知能の誕生と進化
スタン・フランクリン 林 一 三田出版会
・・・・ 092 心のメカニズム創造のアプローチ
エリア4 (問題の所在)
『 心を生みだす脳のシステム 』 ― 「私」というミステリー NHKブックス 茂木 健一郎
・・・・ 040 「私」というミステリー
エリア5 (様々な発想)
『 知の挑戦 』 ― 科学的知性と文化的知性の統合
エドワード・オズボーン ウィルソン 山下 篤子 角川書店
・・・・ 052 科学的知性と文化的知性の統合という発想
『 こころの情報学 』 ちくま新書 (204) 西垣 通 筑摩書房
・・・・ 054 心は<プロセス>という発想
『 モンテーニュ私記 』 ―― よく生き、よく死ぬために 保苅瑞穂 筑摩書房
・・・・ 055 主客の分裂という近代の余計な自意識という発想
『 ユーザーイリュージョン 』 ― 意識という幻想
トール ノーレットランダーシュ 柴田 裕之 紀伊国屋書店
・・・・ 057 ユーザーイリュージョンという発想
『 統合心理学への道 』 ― 「知」の眼から「観想」の眼へ
ケン ウィルバー 松永 太郎
・・・・ 064 四つの象限という発想(1)
・・・・ 065 四つの象限という発想(2)
・・・・ 066 四つの象限の統合という発想
・・・・ 067 観想の眼、悟りという発想
『 心をもつ機械 』 ―― 人工知能の誕生と進化
スタン・フランクリン 林 一 三田出版会
・・・・ 091 心についての新しいパラダイムの提案――活動選択
『シリーズ心の哲学〈Ⅰ〉 人間篇』 信原 幸弘 (編集) 勁草書房
『第一章 心因主義と物理主義』 美濃 正
・・・・ 119 物理主義
『シリーズ心の哲学〈Ⅱ〉 ロボット篇』 信原 幸弘 (編集) 勁草書房
・・・・ 121 世界内存在としての心
・・・・ 122 中央参謀本部としての心
『心の進化 ―― 人間性の起源を求めて』 松沢哲郎・長谷川寿一 岩波書店
『言語の起源』 Robin I. M. Dunbar 訳:平石 界、長谷川寿一
・・・・ 124 社会情報処理装置としての脳
『進化しすぎた脳』 ―― 中高生と語る[大脳生理学]の最前線
池谷祐二 朝日出版社
・・・・ 125 進化しすぎた脳
『身体化された心』―― 仏教思想からのエナクティブ・アプローチ
フランシスコ ヴァレラ、エレノア ロッシュ、エヴァン トンプソン、田中 靖夫
工作舎
・・・・ 126 身体としてある行為
・・・・ 127 自己の無根拠性
・・・・ 128 自由意思、自己のない行為から真の自由が生じる
『脳から心へ』 ―― 心の進化の生物学
G・M・エーデルマン 金子隆芳 新曜社
・・・・ 131 物理的記号系仮説、ないしは、コンピュータと脳とのアナロジー
『利己的な遺伝子』―― 増補改題『生物=生存機械論』
リチャード・ドーキンス
日高敏隆 岸 由ニ 羽田節子 垂水雄二 紀伊国屋書店
・・・・ 132 意識 ―― 世界をシミュレートする脳
『考える脳 考えるコンピュータ』
ジェフ・ホーキンス サンドラ・ブレイクスリー 伊藤文英 ランダムハウス講談社
・・・・ 148 現実世界のモデル
エリア6 (生物学的発想)
『 スピリチュアル・マシーン 』 ―― コンピュータに魂が宿るとき
レイ・カーツワイル 田中三彦・田中茂彦 翔泳社
・・・・ 095 スピリチュアル・マシーン
『 心の仕組み 』 スティーブン・ビンカー 山下篤子 日本放送協会
・・・・ 063 認識装置が欠けているという発想
『 科学にわからないことがある理由 』 ― 不可能の起源
原著副題 ― 科学の限界と限界の科学
ジョン・D・ バロウ 松浦 俊輔 青土社
・・・・ 068 人の心は進化の産物という発想
『 われ思うゆえに思考実験あり 』 ― 最新科学理論がもたらす究極の知的冒険
橋元 淳一郎 早川書房
・・・・ 069 自己意識は対人関係から生まれたという発想
『 内なる目 』 ― 意識の進化論 ニコラス・ハンフリー 垂水 雄二 紀伊国屋書店
・・・・ 071 天性の心理学者という発想
・・・・ 072 心は最も強力な実践理論という発想
『 サイエンス21 』 翔泳社 ミチオ・カク 野本陽代
・・・・ 073 精神→身体のつながりという発想
『 宇宙のたくらみ 』 J・D・バロー 菅谷 暁 みすず書房
・・・・ 087 承前というか事後的補足というか
『 人間の本性を考える[上] 』 ―― 心は「空白の石版」か
スティーブン・ピンカー 山下篤子 日本放送出版協会
・・・・ 094 人間の本性を考える[上]
『 心の仕組み 』 ―― 人間関係にどうかかわるか
スティーブン・ピンカー 山下篤子 NHKブックス
・・・・ 097 心の仕組み
『 モラル・アニマル 』 〈上、下〉 ロバート ライト 小川 敏子 講談社
・・・・ 100 進化心理学という発想
『 進化論の挑戦 』 角川ソフィア文庫 佐倉 統 角川書店
・・・・ 103 進化論的な視点で人間を見る
『 オデッセウスの鎖 』 ― 適応プログラムとしての感情
R.H.フランク 大坪 庸介 サイエンス社
・・・・ 104 モジュール脳構造
『 ことばの起源 』― 猿の毛づくろい、人のゴシップ
ロビン ダンバー, 松浦 俊輔 , 服部 清美 青土社
・・・・ 106 進化の傷跡
『 脳と心の地形図 』 ― 思考・感情・意識の深淵に向かって
リタ カーター, 藤井 留美 養老 孟司 原書房
・・・・ 107 脳と心の地形図
『脳は美をいかに感じるか』 ― ピカソやモネが見た世界
セミール・ゼキ 河内 十郎 日本経済新聞社
・・・・ 111 脳は美をいかに感じるか
『脳の探求』 ―― 感情・記憶・思考・欲望の仕組み
スーザン・グリーンフィールド 新井康允 中野恵津子 無名舎
・・・・ 112 意識的な自己の支配は幻想という発想 - 意識は潜在意識の産物
『 喪失と獲得 』 ― 進化心理学から見た心と体
ニコラス ハンフリー 垂水 雄ニ 紀伊国屋書店
・・・・ 113 「ほんとうの自己」と「仮想の自己」
『人はなぜ感じるのか?』 ビクター・S. ジョンストン 長谷川 真理子 日経BP社
・・・・ 114 心に関する「進化的機能主義」
『EQ ― こころの知能指数』 ダニエル ゴールマン 土屋 京子 講談社
・・・・ 115 脳の進化の歴史
・・・・ 116 情動の力
『悪魔に仕える牧師』―― なぜ科学は神を必要としないのか
リチャード・ドーキンス 垂水 雄二 早川書房
・・・・ 141 生き残るために有効なイリュージョン
『脳の中の幽霊、ふたたび』 ―― 見えてきた心のしくみ
V.S.ラマチャンドラン 山下篤子 角川書店
・・・・ 143 自己とは?
『 限りなく人類に近い隣人が教えてくれたこと 』 角川21世紀叢書
ロジャー ファウツ、スティーヴン・タケル ミルズ 高崎 浩幸、高崎 和美
・・・・ 145 チンパンジーの心
エリア7 (「空」・「唯識」)
『 唯識のすすめ 』 ― 仏教の深層心理学入門 岡野 守也 日本放送出版協会
・・・・ 074 nb釈 「空」という発想
・・・・ 076 付録 - 空を悟るための修行
・・・・ 077 おまけ 分別知の限界という発想
『 サイエンス21 』 翔泳社 ミチオ・カク 野本陽代
・・・・ 083 人間の脳は四層構造
『 空の論理<中観> 』 仏教の思想 (3) 角川文庫ソフィア 梶山 雄一 上山 春平
・・・・ 084 ようやく<中観>を読んだゾ
『 認識と超越<唯識> 』 仏教の思想 (4) 角川文庫ソフィア 服部 正明 上山 春平
・・・・ 085 どうにか<唯識>も読んだゾ
『 仏教「超」入門 』 白取春彦 すばる舎
・・・・ 093 「空「と「唯識」
『龍樹 ― 空の論理と菩薩の道』 瓜生津 隆真 大法輪閣
・・・・ 117 縁起・空・中道
『身体化された心』―― 仏教思想からのエナクティブ・アプローチ
フランシスコ ヴァレラ、エレノア ロッシュ、エヴァン トンプソン、田中 靖夫
工作舎
・・・・ 129 中道
・・・・ 130 慈悲
『仏教思想6 空 』上 仏教思想研究会 平楽寺書店
第一章 空の意義 中村 元
・・・・ 135 縁起・無自性・空・中道 の関係
『空の思想』―― 仏教における言葉と沈黙 梶山 雄一 人文書院
・・・・ 136 空の論理 ―― 無自性
『大乗仏教の思想』-人と思想132 副島 正光 清水書院
・・・・ 137 唯識(の識) と 分別知
『唯識の心理学』 岡野守也 青土社
・・・・ 138 アーラヤ識 : 遺伝子
・・・・ 139 無我 と 非我
『知の体系 迷いを超える唯識のメカニズム』 竹村 牧男 佼成出版社
・・・・ 142 唯心 と 唯識
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その他の参考図書
http://nbsakurai.exblog.jp/32039294/
2008-12-28T23:59:00+09:00
2024-02-08T14:07:24+09:00
2022-07-13T14:49:54+09:00
nbsakurai
☆☆ 参 考 図 書 ☆☆
〇 『物の本質について』 ルクレティウス 1961/8/25 https://amzn.asia/d/jeLIv82
〇 『楢山節考』 深沢七郎 1964/8/3 https://amzn.asia/d/ba4ILNo
〇 『宗教的経験の諸相』 ウィリアム・ジェイムズ 1969/10/16 https://amzn.asia/d/idUXBtC
〇 『科学革命の構造』 トーマス・クーン 1971/3/6 https://amzn.asia/d/7pYQDVz
〇『成長の限界―ローマ・クラブ「人類の危機」レポート』 1972/5/1 https://amzn.asia/d/gwFqH0v
〇 『沈黙の春』 レイチェル・カーソン 2001/6/1 新装版 https://amzn.asia/d/aFnxFjP
〇 『カラマーゾフの兄弟』 ドストエフスキー 1978/7/20 https://amzn.asia/d/ejOxeAZ
〇 『その日アメリカが崩壊する―大暴落の始まった暗黒の木曜日』 トム・シャクトマン 1980https://amzn.asia/d/5F9xUyA
〇 『日本の弓術』 オイゲン・ヘリゲル 1982/10/16 https://amzn.asia/d/2o3dyJa〇 『新訳 弓と禅 付・「武士道的な弓道」講演録』 オイゲン・ヘリゲル 2015/12/25
https://amzn.asia/d/c0iAH3f
〇 『新版 科学論の展開 A.F.チャルマーズ』 1983/5/25 https://amzn.asia/d/0bvbaRa (2013/4/4 改訂新版)
〇 『中論 ―縁起・空・中の思想』 三枝充悳 1984/3/1 https://amzn.asia/d/h1iVFYc
〇 『失敗の本質―日本軍の組織論的研究』 戸部 良一 1984/5/1 https://amzn.asia/d/28Hns8s
〇 『恐竜はなぜ絶滅したか―進化史のミステリーに挑む』 ジェームス・ラブロック ミカエル・アラビー 1984/12/1 https://amzn.asia/d/2F8UahG
〇『ゲーデル、エッシャー、バッハ―あるいは不思議の環』 ダグラス・R.ホフスタッター 1985/5/1 https://amzn.asia/d/hXuayVE (2005/10/1 20周年記念版)
〇 『「死の医学」への序章』 柳田邦男 1986/12/1 https://amzn.asia/d/8fwNx94
〇 『科学者とキリスト教―ガリレイから現代まで』 渡辺正雄 1987/4/1 https://amzn.asia/d/9ChnPCL
〇 『実存主義とは何か』 ジャン=ポール・サルトル 1987/5/1 https://amzn.asia/d/6dQZOs8
〇 『延長された表現型―自然淘汰の単位としての遺伝子』 リチャード・ドーキンス 1987/7/1 https://amzn.asia/d/j8gyjgW
〇 『禅』 鈴木大拙 1987/9/1 https://amzn.asia/d/9Jmvym
〇 『徳川家康』 山岡 荘八 1987/10/1 https://amzn.asia/d/bCI4atO
〇 『宇宙創成のとき』 J.S.トレフィル 1987/12/1 https://amzn.asia/d/cnPRYwN
〇 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』 マックス・ヴェーバー 1989/1/17 https://amzn.asia/d/fjIC5jh
〇 『ホーキング、宇宙を語る―ビッグバンからブラックホールまで』 スティーヴン・W・ホーキング 1989/6/1 https://amzn.asia/d/6efkxZC
〇 『思想としての物理学』 ジョナサン・パワーズ 1990/2/1 https://amzn.asia/d/3pnA7KI
〇 『影響力の武器―なぜ、人は動かされるのか』 ロバート・B.チャルディーニ 1991/9/1 https://amzn.asia/d/4aweuId (2014/7/10 第三版)
〇 『妻を帽子とまちがえた男』 オリヴァー・サックス 1992/1/30 https://amzn.asia/d/4Z6Brpf
〇 『ローマ人の物語』 塩野 七生 1992/7/1 https://amzn.asia/d/i11WFQj
〇 『マインズ・アイ―コンピュータ時代の「心」と「私」』 ダグラス・R.ホフスタッター 1992/11/1 https://amzn.asia/d/azQiECy
〇『人間はどこまでチンパンジーか?―人類進化の栄光と翳り』 ジャレド・ダイアモンド 1993/10/1 https://amzn.asia/d/cEbSh9s〇『第三のチンパンジー 完全版 人類進化の栄光と翳り』 ジャレド・ダイアモンド 2022/4/14 https://amzn.asia/d/coQZqdE (文庫版)
〇 『究極理論への夢―自然界の最終法則を求めて』 スティーブン・ワインバーグ 1994/10/1 https://amzn.asia/d/0TGiYuE
〇 『皇帝の新しい心―コンピュータ・心・物理法則』 ロジャー・ペンローズ 1994/12/20 https://amzn.asia/d/gv8NbsZ
〇『宇宙創成はじめの三分間 スティーブン・ワインバーグ 1995/2/1 https://amzn.asia/d/6m9socQ https://amzn.asia/d/iR570Mu (2008/9/10 文庫版)
〇 『ソフィーの世界 哲学者からの不思議な手紙』 ヨースタイン・ゴルデル 1995/6/1 https://amzn.asia/d/iyypQ7m
〇 『文明化した人間の八つの大罪』 コンラート・ローレンツ 1995/10/1 https://amzn.asia/d/gLBeeEx〇 『サブリミナル・マインド―潜在的人間観のゆくえ』 下條信輔 1996/10/25 https://amzn.asia/d/5lSBotz
〇 『科学の終焉(おわり) 』 ジョン・ホーガン 1997/11/1 https://amzn.asia/d/7UGHtRJ〇 『心はどこにあるのか』 ダニエル・C・デネット 1997/11/1 https://amzn.asia/d/iXclV61
〇 『解明される意識』 ダニエル・C. デネット 1998/1/1https://amzn.asia/d/15upJ9z
〇 『死ぬ瞬間―死とその過程について』 エリザベス・キューブラー・ロス 1998/4/1 https://amzn.asia/d/8Usgene
〇 『人間にとって自分とは何か』 鎮目恭夫 1999/2/1 https://amzn.asia/d/jfyQ8Y9
〇 『清潔はビョーキだ』 藤田紘一郎 1999/2/1 https://amzn.asia/d/4JAAb7q
〇『脳が心を生みだすとき 』 スーザン・グリーンフィールド 1999/4/1 https://amzn.asia/d/eQy5M0q〇 『もしも月がなかったら―ありえたかもしれない地球への10の旅』 ニール・F・カミンズ 1999/7/1 https://amzn.asia/d/5KfvqFZ
〇 『世界のたね―真理を追いもとめる科学の物語』 アイリック・ニュート 1999/10/1 https://amzn.asia/d/31ch6mu〇 『罪と罰』 ドストエフスキー 1999/11/16 https://amzn.asia/d/62Wi5Tr
〇 『生存する脳―心と脳と身体の神秘』 アントニオ・R・ダマシオ 2000/1/1 https://amzn.asia/d/b23XlIi〇 『デカルトの誤り 情動、理性、人間の脳 』 アントニオ・R・ダマシオ 2010/7/7 文庫版https://amzn.asia/d/2uXoWZl
〇『進化と人間行動 』 長谷川寿一 長谷川眞理子 2000/4/20https://amzn.asia/d/g9hj09b (2022/4/25 第二版)
〇 『無心ということ』 鈴木大拙 2000/9/1 https://amzn.asia/d/aljGJye
〇 『銃・病原菌・鉄―1万3000年にわたる人類史の謎』 ジャレド・ダイアモンド 2000/10/2 https://amzn.asia/d/aTuT9vm
〇 『ダーウィンの危険な思想―生命の意味と進化』 ダニエル・C・デネット 2001/1/10 https://amzn.asia/d/e9fdYBe
〇『呼吸による癒し―実践ヴィパッサナー瞑想』 ラリー・ローゼンバーグ 2001/2/2 https://amzn.asia/d/9cjuq4b
〇『虹の解体―いかにして科学は驚異への扉を開いたか』 リチャード・ドーキンス 2001/3/1 https://amzn.asia/d/4OdIrG9
〇 『なぜ同胞を殺したのか―ポル・ポト 堕ちたユートピアの夢』 井上恭介 藤下 超 2001/9/1 https://amzn.asia/d/j227Oga
〇『生命進化8つの謎』 ジョン・メイナード・スミス エオルシュ・サトマーリ 2001/11/1 https://amzn.asia/d/3YXBZxQ
〇 『イヴの七人の娘たち』 ブライアン・サイクス 2001/11/1 https://amzn.asia/d/0fLJfB9
〇『エレガントな宇宙―超ひも理論がすべてを解明する』 ブライアン・グリーン 2001/12/1 https://amzn.asia/d/8yJsUvC〇 『心を生みだす脳のシステム 「私」というミステリー』 茂木健一郎 2001/12/22 https://amzn.asia/d/2g7yeVg
〇 『龍樹』 中村 元 2002/6/10 https://amzn.asia/d/6Y6TMcj
〇『相対論がもたらした時空の奇妙な幾何学―アインシュタインと膨張する宇宙』 アミール・D・アクゼル 2002/10/20 https://amzn.asia/d/2AZlCaK (文庫版)
〇 『夜と霧』 ヴィクトール・E・フランクル 2002/11/6 https://amzn.asia/d/i4AVvVP
〇 『やさしい唯識―心の秘密を解く』 横山紘一 2002/12/1 https://amzn.asia/d/9ZPSazH
〇 『疑似科学と科学の哲学』 伊勢田哲治 2003/1/10 https://amzn.asia/d/9tMf9m1
〇 『イヴの卵―卵子と精子と前成説』 クララ・ピント‐コレイア 2003/4/1 https://amzn.asia/d/3YekDWI
〇 『美しくなければならない―現代科学の偉大な方程式』 グレアム・ファーメロ 2003/5/31 https://amzn.asia/d/7ahz2aI
〇『ジェノサイドの丘―ルワンダ虐殺の隠された真実』 フィリップ・ゴーレイヴィッチ 2003/6/1 https://amzn.asia/d/bp59Srm
〇 『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』 立川武蔵 2003/6/11 https://amzn.asia/d/2QPunsL
〇 『無意識の脳 自己意識の脳』 アントニオ・R.ダマシオ 2003/6/20 https://amzn.asia/d/37NHeTK
〇『意識と自己 』 アントニオ・R.ダマシオ 2018/6/11文庫版 https://amzn.asia/d/gkEEuMr
〇 『宇宙「96%の謎」―最新宇宙学が描く宇宙の本当の姿』 佐藤勝彦 2003/11/15 https://amzn.asia/d/3MkhBdk
〇 『盲目の時計職人』 リチャード・ドーキンス 2004/3/24 https://amzn.asia/d/0b6ruaD
〇 『悪霊』 ドストエフスキー 2004/12/1 https://amzn.asia/d/erQse1i
〇 『哲学の冒険 「マトリックス」でデカルトが解る』 マーク・ローランズ 2004/12/15https://amzn.asia/d/77oDKLs
〇 『科学哲学の冒険 サイエンスの目的と方法をさぐる』 戸田山和久 2005/1/27 https://amzn.asia/d/8qltBo1
〇 『魂の重さの量り方』 レン・フィッシャー 2005/1/28 https://amzn.asia/d/daxMyOW
〇 『仏教の思想』 木村清孝 2005/3/1 https://amzn.asia/d/9JF5rav
〇 『心を生みだす遺伝子』 ゲアリー・マーカス 2005/3/24 https://amzn.asia/d/fBrSrHV
〇 『神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡』 ジュリアン・ジェインズ 2005/4/1 https://amzn.asia/d/fwerOs3
〇 『自分を知り、自分を変える―適応的無意識の心理学』 ティモシー・ウィルソン 2005/5/20 https://amzn.asia/d/4SSq4H3
〇『生物から見た世界』 ユクスキュル クリサート 2005/6/16 https://amzn.asia/d/bw2gPNL
〇 『文明崩壊 滅亡と存続の命運を分けるもの』 ジャレド・ダイアモンド 2005/12/21 https://amzn.asia/d/g0lqVJq
〇 『紛争と難民 緒方貞子の回想』 緒方/貞子 2006/3/24 https://,amzn.asia/d/g5y4cdN
△ 『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』 野矢茂樹 2006/4/10 https://amzn.asia/d/h9QZrvb
〇 『ソロモンの指環―動物行動学入門』 コンラート・ローレンツ 2006/6/30 https://amzn.asia/d/5MSBVvO
〇 『資本主義に徳はあるか』 アンドレ・コント=スポンヴィル 2006/8/1 https://amzn.asia/d/2hvCsf7
〇 『誘惑される意志 人はなぜ自滅的行動をするのか』 ジョージ・エインズリー 2006/8/30 https://amzn.asia/d/4u7Lqu8
〇 『祖先の物語 ~ドーキンスの生命史~』 リチャード・ドーキンス 2006/8/31 https://amzn.asia/d/dUWH9My
〇 『だまされる脳―バーチャルリアリティと知覚心理学入門』 日本バーチャルリアリティ学会VR心理学研究委員会 2006/9/21 https://amzn.asia/d/f6PYAvt
〇 『老師と少年』 南直哉 2006/10/24 https://amzn.asia/d/aeOo2iq
〇 『幸せはいつもちょっと先にある―期待と妄想の心理学』 ダニエル・ギルバート 2007/2/1 https://amzn.asia/d/aTL8ECv
〇 『人類史のなかの定住革命』 西田正規 2007/3/9 https://amzn.asia/d/1BQDXjh
〇 『信じない人のための〈宗教〉講義』 中村圭志 2007/5/24 https://amzn.asia/d/0Kn7iw4
〇『神は妄想である―宗教との決別』 リチャード・ドーキンス 2007/5/25 https://amzn.asia/d/iz22cHk
〇 『脳と心的世界―主観的経験のニューロサイエンスへの招待』 マーク・ソームズ オリヴァー・ターンブル 2007/7/1
https://amzn.asia/d/0vWjrIU
〇 『定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行』 ベネディクト・アンダーソン 2007/7/31 https://amzn.asia/d/eOuqov3
〇 『マインドフルネスストレス低減法』 ジョン・カバットジン 2007/9/5 https://amzn.asia/d/5O90HrR
〇『『正法眼蔵』を読む 存在するとはどういうことか』 南 直哉 2008/7/11https://amzn.asia/d/az039ML
〇 『予想どおりに不合理: 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」』 ダン・アリエリー 2008/11/22 https://amzn.asia/d/7aKwvVn (文庫版)
〇 『サブリミナル・インパクト―情動と潜在認知の現代』 下條信輔 2008/12/1 https://amzn.asia/d/bIR8Oe4
〇 『仏教瞑想論』 蓑輪顕量 2008/12/1 https://amzn.asia/d/cX4yZYN
〇 『宇宙を織りなすもの――時間と空間の正体』 ブライアン・グリーン 2009/2/23 https://amzn.asia/d/acyZivb
〇 『ブラック・スワン―不確実性とリスクの本質』 ナシーム・ニコラス・タレブ 2009/6/19 https://amzn.asia/d/dmEOMFF
〇 『ミンスキー博士の脳の探検 ―常識・感情・自己とは―』 マーヴィン・ミンスキー 2009/7/1 https://amzn.asia/d/bpnl3nL
〇 『「気づきの瞑想」を生きる―タイで出家した日本人僧の物語』 プラユキ・ナラテボー 2009/8/30 https://amzn.asia/d/0Mh6h35
〇 『葬式は、要らない』 島田裕巳 2010/1/28 https://amzn.asia/d/eEBWqnG
〇 『リーマン・ショック・コンフィデンシャル』 アンドリュー・ロス・ソーキン 2010/7/9 https://amzn.asia/d/4BCt94o
〇 『禅マインドビギナーズ・マインド』 鈴木俊隆 2010/8/2 https://amzn.asia/d/5Cibhhw
〇 『偶然とは何か――その積極的意味』 竹内 啓 2010/9/18 https://amzn.asia/d/5XEHD8i
〇 『繁栄――明日を切り拓くための人類10万年史』 マット・リドレー 2010/10/22 https://amzn.asia/d/9qzwMEp
〇 『ブッダの〈気づき〉の瞑想』 ティク・ナット・ハン 2011/5/11 https://amzn.asia/d/7elmY0l
〇 『しあわせ仮説 古代の知恵と現代科学の知恵』 ジョナサン・ハイト 2011/7/6 https://amzn.asia/d/6gzmgtu
〇 『隠れていた宇宙』 ブライアン・グリーン 2011/7/22 https://amzn.asia/d/7UaZDR2
〇 『ソウルダスト――〈意識〉という魅惑の幻想』 ニコラス・ハンフリー 2012/4/27https://amzn.asia/d/eQmP4xk
〇 『現代坐禅講義―只管打坐への道』 藤田一照 2012/7/24 https://amzn.asia/d/3IItzgu
〇 『ヒトはなぜ神を信じるのか―信仰する本能』 ジェシー・ベリング 2012/8/1 https://amzn.asia/d/1x973QR
〇 『自然葬のススメ』 吉澤武虎 2012/8/10 https://amzn.asia/d/3t2eyyP
〇 『マインドフルネス 気づきの瞑想』 バンテ・ヘーネポラ・グナラタナ 2012/8/23 https://amzn.asia/d/9Y6FKOl
〇 『ファスト&スロー あなたの意思はどのように決まるか? 』 ダニエル・カーネマン 2012/11/22 https://amzn.asia/d/epUrcGa
◯ 『バグる脳 ---脳はけっこう頭が悪い』 ディーン・ブオノマーノ 2012/12/19 https://amzn.asia/d/2zmJGr4
〇 『昨日までの世界 文明の源流と人類の未来』 ジャレド・ダイアモンド 2013/2/1 https://amzn.asia/d/3W2tVV3
〇 『脳のなかの天使』 V・S・ラマチャンドラン 2013/3/23 https://amzn.asia/d/beM4OgL
〇 『経済と人類の1万年史から、21世紀世界を考える』 ダニエル・コーエン 2013/3/30 https://amzn.asia/d/dFzEufJ
〇 『科学を語るとはどういうことか ---科学者、哲学者にモノ申す』 須藤 靖 伊勢田哲治 2013/6/11 https://amzn.asia/d/7xikQ1Y
〇 『世界はなぜ「ある」のか?: 実存をめぐる科学・哲学的探索』 ジム・ホルト 2013/10/25 https://amzn.asia/d/eZFFMpS 〇 『世界はなぜ「ある」のか?:「究極のなぜ?」を追う哲学の旅』 ジム・ホルト 2016/11/22 https://amzn.asia/d/1fiHyRc (文庫版) (文庫版)〇 『科学するブッダ 犀の角たち』 佐々木 閑 2013/10/25 https://amzn.asia/d/1hD8Xud
〇 『自己が心にやってくる 意識ある脳の構築』 アントニオ・R.ダマシオ 2013/11/22 https://amzn.asia/d/3zj3rcg
〇 『0葬 ――あっさり死ぬ』 島田裕巳 2014/1/24 https://amzn.asia/d/79Aa7t6
〇 『哲学入門』 戸田山和久 2014/3/5 https://amzn.asia/d/494QMYG
〇 『社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学』 ジョナサン・ハイト 2014/4/24 https://amzn.asia/d/11ZQJA3
〇 『地球進化 46億年の物語』 ロバート・ヘイゼン 2014/5/21 https://amzn.asia/d/da8vqat
〇 『意識をめぐる冒険』 クリストフ・コッホ 2014/8/7 https://amzn.asia/d/iBsNboy
〇 『21世紀の資本』 トマ・ピケティ 2014/12/6 https://amzn.asia/d/7CwhqKl
〇 『現実を生きるサル 空想を語るヒト―人間と動物をへだてる、たった2つの違い』 トーマス・ズデンドルフ 2014/12/10 https://amzn.asia/d/iKCsBoD
〇 『きみの脳はなぜ「愚かな選択」をしてしまうのか 意思決定の進化論』 ダグラス・ T・ケンリック ヴラダス・グリスケヴィシウス 2015/1/23 https://amzn.asia/d/9a3kwXP
〇 『新版 アフォーダンス』 佐々木正人 2015/1/10 https://amzn.asia/d/a9CeLfT
〇 『暴力の人類史』 スティーブン・ピンカー 2015/1/28 https://amzn.asia/d/cMgbJ8y
〇 『仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か』 魚川祐司 2015/4/24 https://amzn.asia/d/6nfIFf8
〇 『意識はいつ生まれるのか――脳の謎に挑む統合情報理論』 マルチェッロ・マッスィミーニ ジュリオ・トノーニ 2015/5/26 https://amzn.asia/d/hHF4zou
〇 『第二次世界大戦』 アントニー・ビーヴァー 2015/5/28 https://amzn.asia/d/7Kc0uUv
〇 『その〈脳科学〉にご用心: 脳画像で心はわかるのか』 サリー・サテル スコット・O. リリエンフェルド 2015/7/1 https://amzn.asia/d/4TvxltJ
〇 『反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」』 草薙龍瞬 2015/7/31 https://amzn.asia/d/aKQmplJ
〇 『意識と脳――思考はいかにコード化されるか』 スタニスラス・ドゥアンヌ 2015/8/27 https://amzn.asia/d/8Y2evK
〇『人体600万年史:科学が明かす進化・健康・疾病』 ダニエル・リーバーマン 2015/9/18 https://amzn.asia/d/bTTV9MD
〇 『世の中ががらりと変わって見える物理の本』 カルロ・ロヴェッリ 2015/11/6 https://amzn.asia/d/c4mq8VB
〇 『コネクトーム:脳の配線はどのように「わたし」をつくり出すのか』 セバスチャン・スン 2015/11/18 https://amzn.asia/d/6HImP4U
〇 『ブッダが説いたこと』 ワールポラ・ラーフラ 2016/2/17 https://amzn.asia/d/chfyNCM
〇 『言ってはいけない 残酷すぎる真実』 橘玲 2016/4/15 https://amzn.asia/d/2s2QRHa
〇『科学の発見』 スティーヴン・ワインバーグ 2016/5/14 https://amzn.asia/d/6ApM214
〇 『人類進化の謎を解き明かす』 ロビン・ダンバー 2016/6/20
https://amzn.asia/d/7JAZsE4
〇 『死すべき定め――死にゆく人に何ができるか』 アトゥール・ガワンデ 2016/6/24 https://amzn.asia/d/7MAR8mN
〇 『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福 』 ユヴァル・ノア・ハラリ 2016/9/8 https://amzn.asia/d/eF1YNVS
〇 『悟らなくたって、いいじゃないか 普通の人のための仏教・瞑想入門』 プラユキ・ナラテボー 魚川祐司 2016/10/28 https://amzn.asia/d/7GvKEj3
〇『脳はいかに意識をつくるのか―脳の異常から心の謎に迫る』 ゲオルク・ノルトフ 2016/11/5 https://amzn.asia/d/6m00caC
〇 『自由への旅: 「マインドフルネス瞑想」実践講義』 ウ・ジョーティカ 2016/11/25 https://amzn.asia/d/dSJ6RlD
〇 『真理の探究 仏教と宇宙物理学の対話』 佐々木 閑 大栗 博司 2016/11/30 https://amzn.asia/d/2tmTx3K (つづく)
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