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2004年 11月 23日
『スピリチュアル・マシーン』――コンピュータに魂が宿るとき
レイ・カーツワイル 田中三彦・田中茂彦 翔泳社 P93 そのような難問はいくらでも考え出すことができるし、実際人間はずっと昔からこうした問題を考えてきた。たとえばプラトンもこうした問題に心を奪われていた。『ファイドン』、『国家』、『テアイテソス』といった著作の中で、意識という概念、選択の自由をもつ人間の明白な能力という概念に、深刻なパラドックスがあることを示した。まず、人間も自然界の一部で自然の法則に支配され、人間の脳は自然現象だから、機械などの無機物に明白に見られる因果の法則に従わねばならない、とした。プラトンは機械が将来複雑なものになりうること、機械には複雑な論理的プロセスを模倣する能力があることをよく知っていた。しかしプラトンによれば、いかに複雑なものであろうと、因果的な機械装置が自覚や意識を生むことはないという。プラトンは彼の「形式」の理論の中で、まずこの問題の解決を試みている。それによれば――意識は思考という仕組みの属性ではなく、人間の存在の究極的リアリティである。人間の意識すなわち「魂」は不変である。つまり、物質世界と心の相互作用は、われわれの複雑な思考プロセスの「仕組み」のレベルにある。 だがプラトンは、これでは実際にうまくいかないことを知る。もし魂が不変なら、理性を学ぶことも分かち合うこともできない。なぜなら、経験を吸収したりそれに反応したりするには、魂が変化する必要があるからだ。結局プラトンは、意識をいずれの側に位置づけることにも満足していない。いずれの側とは、一つは自然界の合理的なプロセス、もう一つは理想的な自己ないし魂というレベルである。 自由意志の概念はいっそう難しいパラドックスだ。自由意志とは、意図的行動と意思決定である。プラトンは、因果という固定的、決定的な規則に基づく一種の「粒子物理学」を信じていた。しかし、人間の意思決定がそのような予測可能な基本粒子の相互作用によるものだとすれば、人間の意思決定も予測可能なものでなければならないが、そうだとすると、選択の自由と矛盾してしまう。自然法則にランダム性を付加するという手もあるが、それで問題が解決するわけではない。ランダム性をもち込めば、意志決定と行動が前もって決定しているという問題は消えるが、ランダム性には意図的なものは何もないのだから、今度は自由意志の意図性と矛盾してしまう。 それなら、自由意志を魂の中においてみたらどうか。いや、これもまたうまくいかない。自由意志を自然界の因果の仕組みから切り離すというなら、理性と学習も魂の中に置かなければならなくなるだろう。そうでなければ、魂は意味のある決定をする手段がもてないからだ。かくして魂それ自体が複雑な機械と化すが、このことは魂がもつ神秘的な単純さと矛盾する。 おそらく、だからプラトンは一連の「対話」を書いたのだろう。そうすることで、彼は二つの矛盾する立場を表明した。私はプラトンのジレンマに共感を覚える。というのは、どんな明白な立場も実際には十分ではないからだ。パラドックスの反対の面を照らすことによってのみ、より深い真実を読み取ることができる。 けっしてプラトンだけがこうした問題を熟考した思想家ではなかった。これらの問題にはいくつかの学派があるが、そのどれもあまり満足のいくものではない。 ○ 「意識は内省する機械にすぎない」派 この流派に見られる一般的なアプローチは、問題の存在それ自体を否定することだ。つまり、意識とか自由意志は、言語のあいまいさがもたらす幻想にすぎないというわけだ。 少し違うものに、意識は幻想などではなく別の論理プロセスだ、というのがある。つまり、意識は「それ自身」に応答し反応するプロセスだという。われわれは、そういうものを機械の中に構築することができる。すなわち、それ自身のモデルをもち、その手法を吟味し、またそれに反応するような手順を構築すればよい。プロセスにそれ自身を考えさせればよい。これで意識を手にすることができる。内省的思考方法は本質的に強力だから、それは進化した能力である。 「意識は内省する機械にすぎない」派に反論するのが難しいのは、その考え方自体には矛盾がないからだ。しかしこの見解は主観的視点を無視している。それはある人間の主観的経験の報告を扱うことができ、主観的経験の報告を外部行動と結びつけたりニューロンの発火パターンと結びつけたりできる。しかし、私以外の人間の主観的経験についての私の知識は、私の「客観的」知識と少しもちがいはない。私は他人の主観的経験を経験できない。私はただそれを耳にするだけだ。結局、この流派が無視している唯一の主観的経験は、私自身の経験だ(つまるところ、「主観的」という言葉の意味はそういうものだ)。そう、私は何十億という人間の中の、そして何十兆という意識をもつ生物のうちの、たった一人の人間である。そしてたった一人を除き、それらの生物はみな私ではない。 私の主観的経験を説明できないということは、きわめて重大なことだ。なぜなら、波長が0.000075センチの電磁波と私の赤い色の経験との違いを説明できないからだ。われわれがどのように色を認識しているか、人間の脳は光をどう処理しているか、光の組み合わせをどう処理しているか、これらはどういった神経発火パターンを誘起するか、といったことを学ぶことはできるが、わたしの経験の本質を説明することはできない。 ○ 論理実証主義者 私は精一杯努力して話をしているが、残念ながら問題が完全に説明可能ではない。D・J・チャルマーズは内的経験の不思議さを「ハード・プロブレム」と表現し、脳がどのように機能するかという「イージー・プロブレム」と区別している。マービン・ミンスキーは「意識を説明することには何かひどく奇妙なことがある。つまり、何を言うにしろ、人はその意味を明確にできそうにない」と言った。「意識は内省する機械にすぎない」派は、問題はまさにそこだという――意識をニューロンの発火パターン以外のものとして語ることは実証の望みのない神秘的領域に踏み込むことだ、と。 この客観主義的見解は、しばしば論理実証主義と呼ばれる。これはルードウィヒ・ウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』の中で分類した哲学である。論理実証主義者にとって語るに値するものは、直接的知覚にもとづく経験、そしてそこから構築できる論理的推論だけである。この著作におけるウィトゲンシュタインの最後の言葉を引用すれば、それは、「黙殺しなければならない」ものを除くすべて、ということになる。 だがウィトゲンシュタインは、みずから説いたことを実践しなかった。没後二年の1953年に出版された『哲学探究』において彼は、かつて黙殺されるべきものと説いた問題を、熟慮に値するものとしたのだ。あきらかに彼は、『論理哲学論考』における最後の言明の前件――つまり、われわれが語りえないもの――が、内省するに値する唯一真実の現象である、との見解に達した。 ○ 我思う、ゆえに我あり 初期のウィトゲンシュタインと彼に影響された論理実証主義者たちの哲学のルーツは、ルネ・デカルトの哲学的探求にあるとみなされることが多い。デカルトの有名な「我思う、ゆえに我あり」は、これまでしばしば西洋合理主義の象徴として引き合いに出されてきた。そしてその場合、「我思う、つまり私は論理と記号を操作することができる、ゆえに私は価値がある」とデカルトは言おうとしたのだ、と解釈されている。しかし、デカルトには合理的思考を賞賛する意図はなかったと私は思う。デカルトを悩ましたのは、何もないところからどのように心が生まれるのか、脳というありふれた物質からどのようにして思考や感情が生まれるのか、という、いわゆる「心身問題」だった。合理的な懐疑をその限界まで推し進め、「我思う、つまり意識性という疑いようのない心的現象が生じている。ゆえに、我らが確かに知っていることは、何かが――それを<我>と呼ぼう――が存在することだ」と、デカルトは言おうとした。こう考えると、デカルトと、意識を基本的なリアリティと見る仏教徒のあいだには、通常思われているほどのギャップはない。 2030年になる前に、ふたたびデカルトの言明を主張する機械が登場するだろう。しかもそれは、プログラムによる反応のようなものではないだろう。そうした機械は誠実で、説得力もあると思われる。では、その機械がみずからの意志で、自分は意識ある実在だと主張したら、そのときはたして機械の言うことを信じるべきなのか。 ○ 「意識は違う種類のもの」派 意識と自由意志の問題は、もちろん宗教思想の大きな関心事でもある。実際、仏教徒の意識の概念をはじめとして、精霊、天使、神々まで、さまざまなものがある。同じカテゴリーに入るものとして、意識を、基本的な力や粒子のように、この世の別の基本現象とみなす現代哲学者の理論もある。私はこれを、「意識は違う種類のもの」派と呼んでいる。この流派が科学的実験に反する「自然界における意識性」なるもので話を混乱させるのであれば、科学はその検証能力のゆえに、それを打ち負かさなければならない。一方この見解が物質界から離れているのであれば、それはしばしば検証し得ない複雑な神秘主義を生み出し、同意は得られなくなる。またその神秘主義を単純にしておくのであれば、主観的洞察は別問題だが、それは限られた客観的洞察しか提示できない(告白すれば、私も単純な神秘主義が好きだ)。 ○ 「人間はあまりに愚かである」派 人間にはその答えを理解する能力はない、と宣言するアプローチもある。人工知能学者のダグラス・ホフスタッターはつぎのように考える。「多分、単なる偶然の運命だろうが、われわれ人間の脳はあまりにも弱いから、みずからの脳を理解できない。たとえば低レベルのキリン。その脳は明らかに自己認識に必要なレベルからかけ離れている。しかし、その脳はわれわれの脳と驚くほどよく似ている」。だが私の知る限り、キリンがこういった問題を考えていることは知られていない(もちろん、われわれにはキリンが何を考えて時間を過ごしているのかわからないが)。私は、もし人間がこうした疑問を考えつくほど高等だとすれば、その答えを理解できるぐらいには進歩しているのではないかと思っている。しかし「人間はあまりに愚かである」派は、こう指摘する――それどころか、われわれ人間はこれらの問題を明確に体系化することに手を焼いているのだ、と。 ○ 見解の総合 以上の流派の言うことはすべて一緒にすれば正しいが、一つひとつ見ていくと十分ではない、というのが私の見解だ。つまり、真実はこれらの見解の総合にあるということ。私のこのような考え方は、世界のすべての宗教を「真実へのさまざまな道」と考えるユニテリアン派の宗教教育によるものだ。もちろん、私の見解は最悪のものと見られるかもしれない。表面上、私の見解は矛盾し、意味をなしていないからだ。これに対して他のどの派も、少なくともあるレベルの一貫性と整合性を主張することができる。 ○ 思考とは考えることなり もう一つ見解がある。私はそれを「思考とは考えることなり」派と呼んでいる。1950年の論文で、アラン・チューリングはいわゆるチューリングテストという概念について記している。 一人の判定者が、隔離された部屋の中のコンピュータと一人以上の人間に、端末を使って同じ質問をする。そしてもし判定者がコンピュータをにせの人間として確実に暴くことができなかったら、コンピュータの勝利である。このテストはコンピュータの一種のIQテストとして、つまりコンピュータが人間の知的レベルに達したかどうかを判定する手段として説明されることが多い。しかし私は、チューリングがこのチューリングテストで本当に意図したのは思考のテストであり、チューリングはこの思考という言葉を、単なる論理と言葉の巧みな操作という以上の意味を込めて使っていると思う。チューリングにとって思考とは、意識された意図性を意味している。 チューリングは指数関数的に成長するコンピュータ・パワーをそれとなく理解していたから、コンピュータが20世紀の終わりまでには、彼の名がついたテストをパスするだろうと予測していた。また、そのころまでには「言葉の使い方や、教育を受けた者の全体的な意見が大きく変化しているだろうから、反対されることを気にせずに機械の思考について語ることができるだろう」と言った。彼の予測は時間に関しては楽観的にすぎたが、程度においてはそうではなかったと私は思っている。 つまるところ、チューリングの予測はコンピュータの思考という問題がどのように解決されるかを予告している。われわれは機械を前にして、機械には意識がある、機械にはわれわれ人間の尊敬に値する思惑がある、そう考えるようになるだろう。動物に対する以上に、われわれ人間は機械の明白な感情や苦悩に感情移入することになる。なぜなら、機械の心はそもそも人間の思考をもとにつくられているだろうから。機械は人間の特性を具現化し、人間を名乗る。またわれわれも機械の言葉を信じるだろう。
by nbsakurai
| 2004-11-23 12:03
| エリア5 (様々な発想)
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