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2005年 01月 05日
あまり深度のある研究の紹介や議論ではないけれど、なかなかにおもしろい本(^^)というだけではなく、進化論に関係する様々な議論や知識を位置づけ、整理するという点でも、私にはかなりよくできた本でした。
でも以下は、その全貌のご紹介というのではなく、私の関心のある部分のピックアップです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 『進化論の挑戦』 角川ソフィア文庫 佐倉 統 (著) 角川書店 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4043685017/qid=1104758635/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/250-8546588-5763444 (nb注):用語 ― 社会生物学、包括適応度、利己的な遺伝子、ゲーム理論、進化的に安定な戦略(ESS)、性選択(性淘汰)、互恵的利他行動 P71 誕生、社会生物学 ホールデンのこの計算は、きちんとした学術論文にはならなかった。が、彼の発想は受け継がれ、1964年、当時弱冠28歳の俊英、ウィリアムス。ハミルトンが定式化に成功した。それが、進化生物学会に一大革命を引き起こした「包括適応度」という概念である。 ある個体の適応度を考えるときには、自分だけの適応度を計算してはいけない。自分が助けた個体の適応度も考慮にいれなければならないのだ。つまり、自分が8人のイトコを救ったらそれは自分ひとりが助かることと遺伝的には等価なのである。 逆にいうと、自分の適応度を下げても多くの血縁者に利益をもたらす行動は、結果的に――というか遺伝的には、自分の適応度をあげることと同じになる。したがって、そのような利他的行動は自然選択の結果、残っていくのである。ダーウィンが直感的に見抜いた家族を通しての選択という機構は、100年の後に、遺伝のメカニズムと数理計算の支持を得て、定式化されたのである。 だが、ハミルトンの1964年の論文(『理論生物学雑誌』に掲載された「社会行動の遺伝的理論」)は、すぐには大きな反響を呼ばなかった。その真価があまねく知れわたるまでには、大ざっぱに、10年かかったといってよい。 P73 社会生物学の基礎知識――1 社会生物学論争の基本構造は、社会生物学は新たな遺伝的決定論、生物学至上主義、ひいてはナチ民族生物学の再来だ! という批判と、それに対する社会生物学側からの反論である。だが、論争の中身にはいる前に、社会生物学を理解するために必要な理論を、もう少しおさらいしておこう。 社会生物学関連の概念のなかでいちばん有名なのは、オクスフォード大学の動物行動学者、リチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子」だろう。これは、彼が1976年に発表した、やはりハミルトンの包括適応度を元にした同名の著書のタイトルでもある。この本でドーキンスは、包括適応度という概念を遺伝子の立場から見るという視線を提唱して、個体の利他的行動は遺伝子の立場から見ると「自分自身」(=遺伝子)を増やすための利他的行動であると主張した。このラディカルな物の見方は、ドーキンスの華麗な文体とも相まって、社会生物学の理論を普及させるのに大いに役立った。 ドーキンスが依拠したもうひとつの基礎概念は、「進化的に安定な戦略(ESS)」である。これは、ジョン・メーナード・スミスらが開発したもので、ゲーム理論を使って個体の行動の進化を記述する手法のひとつである。(・・・略・・・) メーナード・スミスは、タカ派(好戦的)とハト派(平和的)という、仮想的な二つのタイプの行動(戦略)の進化をゲーム理論で分析した。(・・・略・・・) 結果、タカ派とハト派がある割合のときに、その集団の構成は安定で変化しない平衡点になった。(具体的な割合は、利得の決め方によって異なる)。ESSとはこのように、ある集団の行動(戦略)の構成比率が安定している状態のことである。 P75 社会生物学の基礎知識――2 トリヴァースは性選択(メスの配偶者の好みによって形質が選択される過程)について注目し、配偶者を選ぶ際の基準がオスとメスとで異なることを発見した。たとえば、オスは多産のメスを好み、メスは資質の良いオスと交尾したがる。結果、オスの利益とメスの利益は対立することが多く、たとえば人間だったらメスはひとりの(すぐれた)オスと長期間のつがいを維持したがるのに対し、オスは交尾相手を次から次へと変えていくことを欲する。このような理論は、当初はフェミニストからずいぶんと批判されたが、それについては第五章で詳しく取り扱う。 トリヴァースはこのほかにも、親と子の間でも対立関係が生じる――親は保護を切り上げて次の子に投資したいのに、子はもっと自分への保護をほしがる――ことの理論モデルをつくったり、非血縁個体間の利他行動を説明する理論として互恵的利他行動という理論モデルを提唱した。 このほかにも、社会生物学の理論にはさまざまなものがあるが、基本的には、利他行動の進化というダーウィン以来の難問を、ダーウィンの手法、つまり自然選択で説明したのが社会生物学だといえる。 (nb注):社会生物学論争 P84 遺伝的に、あるいは生物学的にそうなっているということと、それが不可避であるということは違うのである。 死について考えてみよう。人はいつか死ぬ。これは、生物的にそう決まっている。しかし、だからといって、往来の真ん中で、衆人環視のなかで自殺したり、ましてや他人を殺していいということにはならない。 あるいは、日本の進化生物学の第一人者である長谷川眞理子(早稲田大学)が語ってくれた比喩にしたがえば、排泄行為は生物的に「決定された」、生得的な行動である。しかし、だからといって、往来の真ん中で、衆人環視のなかで糞尿を垂れ流していいということには決してならない。 性差や攻撃性や人種差についても、まったく同じことが言える。仮にそれらが生得的形質であったとしても、それを発現して良いかどうかは別問題である。むしろ、「人間にはこのような攻撃性や人種差別、性差別などを行う傾向が生得的にある。だからこそ、それを防ぐためには根本的な対策をとらなければならないのだ」と考えるべきなのだ。 P91 様々な職業や価値観や階級や、そして人種が絡み合っている現代社会において、科学者・生物学者はどのような責任を負うべきなのか? また、行政や政治権力や一般市民は、科学にどのようにコミットしていくべきなのか? 一応表向きは、社会生物学の理論は価値規範を論じるものではないということになっている。先にも述べたように、「である」ことと「べき」こととは違う、というのがその理屈である。この区分を侵すものは、自然主義の誤謬といわれ、いわば、禁じ手とされてきた(第四章参照)。 また、現代進化論は、進歩史観とも無縁である。進化的に適応しているということは、「優れている」ことは意味しないのだ。単に、ある環境において、たくさんの子孫を残すことができた、というだけの話である。進化は進歩とは関係ない(第一章参照)。 この二点、自然主義的誤謬と、進歩観と無縁な進化観をあわせておけば、ただちに、社会生物学理論が人種差別などと結びつくことはない。少なくとも、生物学者側の「アリバイ」としては機能する。だが、それだけでいいのだろうか? マイケル・ルースは、結局一皮向けば現代の進化論者も進歩主義者であると述べている。社会生物学に賛成する側も批判する側も。 P103 進化倫理学の三類型 さて、ダーウィンが唱えたような人間の道徳性や倫理的感情の起源は進化的に解釈するが、あるべき規範までは進化的に論じない立場を「進化倫理学の弱い主張」と呼ぶことにしよう。つまり、人間は道徳的に振る舞い、そのような感情をもつように進化してきたのだが、ではどのような規範が道徳的かということに関しては、進化論的には正当化できない、という意見である。 これに対して、「かくあるべし」という道徳判断の正当化も、進化論的の可能という説がある。どのような倫理的規範をもつべきか、それも進化論から導けるというのだ。これを、「進化倫理学の強い主張」と呼ぶことにする。後でもう一度触れるが、ダーウィンと同じ次代に活躍したハーバート・スペンサーの理論はこれに近い。 (・・・略・・・) さて、進化倫理学にはもうひとつ、反進化倫理学という立場がある。人間の倫理観の由来や特徴を進化論的に説明するのは無理だ、という立場である。進化的な過程はむしろ、非道徳的なものであるとすら主張する人もいる。これについても、後にもう一度触れることにしよう。 (nb注):ミーム P161 ドーキンスは、生命の進化が情報の伝達であることに注目して利己的な遺伝子という発想にいたったのだが、同じように人間の文化も、情報の伝達である。情報が伝達されるということは、そこで何かの情報が複製されたと考えることもできる。遺伝子の場合は、DNA分子がたしかに複製される。では文化は? ドーキンスはここで大胆に発想を転換する。なにが複製されているかを探すのではなく、とりあえず、文化伝達でも何かが複製されているという作業仮説をたててしまうのだ。そしてそれを「ミーム」と名づけた。名前の由来は、ギリシャ語の「模倣」をもじったものだが、遺伝子(ジーン)と韻を踏むという覚えやすさから、すっかり定着した用語となった。 P163 ボストン郊外にあるタフツ大学の科学哲学者、ダニエル・デネットは、認知科学からAI、進化論と幅広く活躍している元気のいい人だが、ミームの功績を絶賛する。彼によれば、ミームは、デカルト以来の西洋哲学の基本的な思想を根底から覆すものだ。人間個人の自我とか意識とかいったものを金科玉条のように崇め奉り、何よりも優先するというのが西洋近代の価値観の基礎にある。だが、最も基本となる自我意識が実はミームという情報の「乗り物」にすぎない――というのがミーム理論の帰結である。情報一元論的世界観は、自己を奈落の底に突き落とす。たしかに過激な話である。 デネットはむしろ、そのことを世の哲学者があまり自覚していないと嘆いているのだが、そのこと自体、(デネットやハルなどの稀有の例外を除けば)哲学の時代はもう終わったことを象徴しているのだろう。かつて、カントやデカルトがやっていたことは、現在はローレンツやドーキンスの守備範囲なのだ。いや、この表現は正しくない。カントもデカルトも当時の自然科学の動向にきわめて敏感で、それをマスターしていた。彼ら自身、今の表現にしたがえば「科学者」でもあったのだ。科学と哲学が分離していなかった時代――その幸福な知のあり方を、再び現代に甦らせるのが進化論であるとは、ちと言いすぎか。 P178 サブリミナル・マインド ドラッグ・ストアで洗剤を買う場合を想像していただきたい。いつも使っているのと新しく発売されたのと、どっちにしようかと迷ったあげく、新製品を買うことにする、理由は、どんなものかちょっと試してみたかったからだ。自分で決めたのだ。だがこれが、テレビ・コマーシャルの影響でないと、言い切れるだろうか? いや、自分で決めたのだ、とあなたは思うだろう。しかし、なぜそう言い切れるのだろうか? 自分で決めたと思っているということは、本当に自分で決めたことの根拠になるのだろうか。 なるはずがない。洗脳され、マインド・コントロールをかけられた新興宗教の信者たちは、「自らの意思と決定に基づいて」教祖に恭順の意を示し、時には集団自殺する。彼らは自分で決めたと思っているが、完全に第三者のコントロール下にある。人間、自分のことはそんなによく分かってはいないのだ。 ルネ・デカルトが「我思う、ゆえに我あり」といったのは、1637年のことだった。自分の存在の根拠を確かめようとして悩んだ彼は、結局、このように悩んでいる主体の存在は疑えないという結論に達したのだ。だが、それだって錯覚の可能性は否定できない。デカルトは、明白に間違えている。その出発点から間違えている。そして、自分のことは自分がいちばんよく知っているという前提に組み立てられている常識も、実はその根底が成立していないのだ。 東京大学に見切りをつけてカリフォルニア大学に移った下條新輔の著書、『サブリミナル・マインド』(中公新書)には、人間の「意識的な」決定がいかに無意識の過程に影響されているかという例が、いろいろ出てくる。たとえば店である商品を選ぶときの判断基準になっているのは、実はコマーシャルなどで繰り返し見せられた商品であることが多い。本人は意識していなくとも商品名のような刺激を繰り返し何度も与えられることによって、意志決定に大きな影響を与えることができる。洗脳(マインド・コントロール)というのは難しいことではないのだ。しかもこの効果は、本人が気づいていなかったり意識していない場合のほうが、影響力が大きい。ひそかに洗脳するほうが、うまくいくというわけだ。 (nb注):社会契約仮説・四枚カード問題 P184 人間は、社会的な共同体の中で進化してきたので、その環境に適応して、社会を円滑に運営するための様々な性質が備わっていると考えられる。そのうちのひとつが、「他人のぬけがけはゆるさない」という心理的傾向である。社会的な取り決めをぬけがけしてひとりだけ甘い汁を吸うという輩が頻出すると、共同体が形成できない。何かいい目を見るには、それ相当のコストを払わなければならないのだ。だから人の心は、そのような「ぬけがけ」や「いいとこどり」にはするどく反応して対処するように進化してきたのではないか。つまり、契約を守らないものは、敏感に察知するように進化しているのではないか。 コスミデスとトゥービーは、この「社会契約仮説」を検証するために、さまざまな実験を次々と行ってきた。「慣れ」なのか「ぬけがけ防止」なのかという問題なのだから、論理形式が同じでも「慣れていないが社会契約が成立している場面」(例:キャッサバの葉を食べるにはひたいに三頭のワシの入れ墨がなければならない)とか、「見慣れているのに社会的な契約がない場面」(例:お菓子が二種類[グリコと森永]、オマケも二種類[ウルトラマンとスーパーマン]あって、グリコにはウルトラマンのおまけが入っている)をつくって、同じようなテストをすればいい。彼らはこういった実験を繰り返し、いずれの場合も、慣れではなくて社会的契約場面になるとぬけがけするものを鋭敏に探知するということをたしかめた。社会契約仮説は支持されたのである。 人間は論理的に考えているのではない。適応的に考えているのだ――これがコスミデスとトゥービーの結論だ。適応的というのはこの場合、応分のコストを払わないで利益だけを受け取ろうとする「社会的ただ乗り(フリーラーダー)」を発見するということである。この傾向はアメリカだけではなく、日本やヨーロッパでも確認されており、「ヒト」という生物にかなりの程度普遍的に備わった性質なのだと考えられる。ただし興味深いことに、具体的な正答率などには、文化的な相違がみられる。[補注1]。抽象論理的形式の問題の正答率がいちばん高かったのは、受験競争を終えたばかりの日本の大学生であった! (東大の一年生を対象にして、40パーセントが正答)。日本の受験教育が論理操作(だけ?)が得意な人間を養成しているのは間違いない。しかしその東大生すらも、社会契約場面の方が正答率が高いというパターンを示している。 P211 補注1 《裏切り探知》……四枚カード問題に関する研究は、現在もさまざまに続けられている。事態は当初考えられていたほど単純ではなく、裏切り検知のモジュールだけでは説明できないという意見が増えてきた。たとえば、平石界と長谷川寿一は、自分自身が資源の分配を受けられるかどうかが判断の重要な要因であるとしている。 (参考ウェブサイト) 『進化心理学・人間行動生態学 ~ 進化研究と社会 用語集』 http://homepage1.nifty.com/NewSphere/EP/ (バランスの取れたわかりやすい教科書) 『進化と人間行動』 長谷川 寿一 長谷川 真理子 東京大学出版会 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4130120328/qid=1132733480/sr=8-4/ref=sr_8_xs_ap_i4_xgl14/249-2493378-2212342
by nbsakurai
| 2005-01-05 12:38
| エリア6 (生物学的発想)
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