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2005年 02月 06日
『ことばの起源』 ― 猿の毛づくろい、人のゴシップ
ロビン ダンバー, 松浦 俊輔 , 服部 清美 青土社 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4791756681/qid=1107618099/sr=1-12/ref=sr_1_2_12/250-1453781-5698612 P269 本章のタイトルはエレン・モーガンの著書の一冊から借用しているが、彼女はその著書において、我々の進化の遺物である数多くの人体部位のことを述べている。無用の虫垂から弱い背中にいたるまで、直立したために我々が持つことになったあらゆるものが、進化は必然的な完成のプロセスではないことを思い出させてくれる。それどころか、進化がピース・ロビンソン的な[ばかばかしいほど精巧で非実用的な]一時しのぎのプロセスであり、相容れない目標をいくつも抱えながら最善を尽くそうとした際の一連の妥協なのだ。我々は進化の遺物に途方にくれている不完全な生物であり、十八世紀の進化論者たちが神の創造物である証拠として解釈したような完全な設計からはほど遠い。 人間の頭脳も人間の体と同じで、できが良くない。我々は宇宙時代の肉体にすっかりとらわれた更新世の頭脳というわけではないが、行動の中に、我々の進化を反映し、少なくともある点では文化的な進化がその結果に対処できる能力を追い越したのではないかと思わせるような、いくつかの要素が存在している。 P290 訳者あとがき 松浦俊輔 進化というのは基本的に「やりくり」である。より高いレベルのものを目指すというより、その場の必要に合わせてやりくりした結果、いろいろ余計なものが増えて複雑になっってしまったというようなところがある。言語にしても、こういうものがあれば便利だからということで求められて計画的に得られたり設計されたりするものではなく、やむをえずその場しのぎに使っていたことが結果として言語という形をとるようになったということである。つまり言語にせよ何にせよ、生物が用いているものの起源には、せっぱつまって手許にある何かを流用したいう事情があるということだ。身も蓋もないと言われればそのとおりかもしれないが、起源を探る目のつけどころとしては、そのほうが有望なのは確かである。 本書で説かれる言語の進化の筋書きも、ごく簡単にまとめてしまうと、言語は、猿の延長で毛づくろいという肉体的接触によって集団の連帯を維持してきた人類の祖先が、より危険な環境で生きざるをえなくなったときに、より大きな集団を維持する必要が生じ、肉体的接触の不足を補うものとして、声による接触を用いてできたというものである。毛づくろいがその快感を利用してお互いの連帯を確認するものだとすれば、言葉も、快い言葉をかけ合うことが基本である。ただそれがさらに、自分たちの関係だけでなく、他の人間どうしの関係も確認するために利用されることにもなる。つまりはゴシップである。 もちろん現在の言語の機能はそれにはとどまらない。言語が有効に機能するようになれば、それはまた別の目的にも流用されるのは、進化の必然である。ただダンパーの説によれば、抽象的な観念を操る言語を用いた思考も、本来の機能からすれば、副次的な言わば余談であり、今では余談扱いになるゴシップの方が、むしろ本筋なのだ。 言語は集団の連帯を維持・強化するためのものだったとすると、その後の人間の歩みは皮肉な展開を見せる。つまり、人間の生活が工業化や都市化の上に成り立つようになってくると、集団の連帯を維持する必要がなくなってくる。むしろそこから脱出して、人間関係の希薄な都会で暮らすことが求められる。ところが生物はそう簡単に本性を捨てることもできない。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ (参考) amazon カスタマーレビュー レビュアー: kurubushi 京都府 Japan 毛づくろいは脳内麻薬を分泌させるらしい。つまり毛づくろいはお猿にとって気持いいらしい。 しかし、それだったら相手は誰でもよさそうなものである。しかし毛づくろいは、ちゃんと相手を定めて行われる。しかも録音した猿の声をつかった実験では、お猿は自分の毛づくろい相手の声を聞き分ける。 毛づくろいは、猿社会の紐帯なのだ。 より大きな群れをつくるお猿ほど、より長い時間を毛づくろいにかける。 しかし毛づくろいはかなりコストが高い。それをやってる間は他の事(食べ物を探したり、繁殖したり、といった生き物本来の仕事)ができないからだ。 より大きな群れをつくるお猿ほど、より長い時間を毛づくろいにかける。最大の群れ(平均で個体数50)を持つ猿はなんと、起きてる時間の1~2割もの時間を仲間との毛づくろいに費やす。 ダンバーは、いろんなサルの大脳皮質の割合と、そのサルの社会の大きさの間に、かなりはっきりした比例関係があることに気付いた。それを使って計算すると、ヒトの大脳皮質の割合から換算した「群れの大きさ」は約150人となる。そして、群れが大きいほど、より長い時間を毛づくろいにかけるのだから、ヒトというサルは大体起きている時間の40%を「毛づくろい」に費やさなければならないことになる。 これは大変だ。そこで、ヒトはもっと効率のよい「毛づくろい」としてコトバをつかうことにした。親密に話すには4人程度という限界があるが、それでも1対1の毛づくろいよりは、3倍効率がよいからである。 つまり内容のないコトバの交わし合い=ゴシップは、コトバによる「毛づくろい」である。それこそが我々の社会の紐帯である。 昔の人類は150人の群れでよかったが、都市に暮らす現代人はそんなに「毛づくろい」する相手がいないから、ゴシップ小説やカルトが流行る、とか、言わなくてもいいようなことを最後にちょっとダンバーは付け加えてる。
by nbsakurai
| 2005-02-06 00:59
| エリア6 (生物学的発想)
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