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2005年 03月 07日
『脳は美をいかに感じるか』 ― ピカソやモネが見た世界
セミール・ゼキ 河内 十郎 日本経済新聞社 【 美術についての神経生物学的見解 】 > 美術は視覚脳の機能と極めて類似した総合的機能をもち、事実上視覚脳の延長であって、その機能を遂行する上では視覚脳の法則に従わざるを得ない。(P34) 【 美術の機能の定義 】 > 物体、表面、顔、状況などの不変かつ永続的、本質的かつ恒久的な特徴を表現し、カンバス上に表現された特定の物体、表面、顔、状況についての知識を与えるだけではなく、そこからその他の多くのものに一般化できる知識、すなわち広い範囲に及ぶカテゴリーの物体や顔についての知識を与えること。(P37) 【 美術の神経学的定義 】 > 美術は恒常的なものの追求であり、その過程においては画家は多くのものを捨て去り、本質的なものを選択していくので、美術は視覚脳の機能の延長にあたる。(P61) この本に書かれていることを、神経科学的あるいは脳科学的なものとみる視点からは、語句の使い方や表現の仕方に、個人的には多少の引っ掛かりを時に感じることがあった以外、特に異とするところは見当たりませんでした。目を見張るような、尋常ならざることが書かれているわけではない。これは、すべてが私には既知だったという意味ではなく、私にとっても有益なことがもちろんあったのですが、今回、私はそういう発想でこの本に臨んだわけではなかった。 一方で、肝心の美術論ということで見るなら、これを読んで、あぁそうか、なるほど、と膝を打つような理解や納得が得られたかというと、そういうこともない。残念なことにと言うべきか、当然のことながらと言うべきか、この本に書かれていることが美の話としてどれくらい妥当なものなのか、私には何ら判断することができませんでした。 で、私としてはどうしても、神経科学で美を語る、ということの意味の方に関心が向いてしまう。 でもその前に、この本は果たして、美について語っていると言えるのかどうか。 > この定義を追及することによって明らかとなってくるのは、あくまでも知覚レベルでの関係であり、美術の持つ情動的内容、すなわち、心をかき乱したり、刺激したり、インスピレーションを与える力については考慮に入れていない。(P28) > 個々の美観がどのようにして神経科学者の想像する高次の美観に寄与しているのかは明らかではないし、それどころか、そのような問題はまだ取り組まれてもいないのである。(P180) > このように私たちは、脳がどのように作品全体を知覚するのかについての理解にはまだほど遠い状況にある。脳がどのようにして美術に美的性格を認めるのかという問題の解明からは、さらにさらに遠く離れているのである。(P254) > 脳が何処でどのようにして美術作品に美的構成要素を賦与するかも、神経生理学的研究によってまだ説明されていない。実際には、まだ取っかかりさえつかめない大きな問題の一部なのである。(P306) > 視覚脳の働きについて、とりわけ美の神経生理学的基盤については、私たちはいまだ無知なのである。(P344) > 私たちは脳についてまだほんのわずかしか理解しておらず、美的体験を神経科学の用語で解説するためには不充分な知識しか持ち合わせていないのは事実だからである。(P413) > 美的体験を直接脳内の事象と関係づけることが現在のところはまだできたいないのは事実であり、(P414) > 美術作品の主要な特徴の一つ、すなわち私たちを感情的に混乱させたり、高揚させたりする作品の力についてはほとんど何も語ることができないことも事実である。(P415) > 美術作品を見ているときに何が美的体験を生み出すかについても、現在ではほとんど何も説明することができない(P416) 私にはこれは、神経科学で美については語れない、語るには至っていない、と言っているようにしか読めない。 おっしゃるように、「美をいかに感じるか」ということについては語っていない、というふうに私にも思える。これが感じるということなのかというと大きな疑問である、というよりもむしろ、そういうことは語れないと言っている。 ではこの本は何を述べているのか、何を述べようとしているのか。 この本は、本文のノッケから、 > この本は美術についての本というよりは、脳についての本である。(P20) という文で始まっている。 > 筆者の意見はあくまで神経科学的な観点からのものであり、それ以外の観点から絵画について意見を述べるつもりはない。(P124) > 筆者はこれらの作品の価値について意見を述べるが、つつしみと謙遜の気持ちを持って一神経学者としての意見を述べるにすぎない。(P63) > 視覚脳は、周囲の世界に関する知識を獲得するという卓越した機能をもっている。そして、視覚芸術は、すべてではないにしろ、ほとんどがこの視覚脳の活動の産物である。(P33) > 筆者はきわめて特異的な細胞群の活性化によって美的体験が生じるといっているのではない。これらの細胞なしにはそのような美的体験はありえない、と言っているだけなのである。(P228) > 生物学的基盤に基づかない美学論はどのようあものであれ、完全なものにも深遠なものにもなり得ない、(P414) 私としては、以上のことに特に疑問は感じません。(いわゆる人文系の発想の方には、大いに疑問な方もいらっしゃるのではないかと推測しているのですが、どうなのでしょう。なお、著者は、美術の機能は「脳の機能」に還元される、と言っているわけではなく、鑑賞者の生育環境、持っている文化、人生経験に依存して鑑賞が行われていることを否定しているわけではないし、個別の体験に依ることを否定しているものでもない、と私は思います。また、つい一般化可能な「脳の機能」のお話を優先して考えてしまう、とか、「意味や意図」のお話をすっ飛ばして「脳の機能」のお話にいってしまう、ということではなくて、脳の機能を出発点にして考える、という発想なのだと私は思います。) でも、それだけでは私は不満足なのであって、”神経科学的な観点”で語れば、”美学”として果たしてそれで充分なのか、神経科学で美を語れば、それで美についてすべてを語ったことになりうるのか、ということが問題です。 (この本は) > 大きく言えば、美術と脳の機能は同一のものであり、少なくとも「美術の目的は脳機能の延長にある」という筆者の確信を出発点にしている(P20) > 脳の働き、その中でも特に視覚脳の働きを知ることによって、生物学を基礎とする新しい美学・美術論のアウトラインを展開できると考えられる(P20) > 私たちは今、人間のもっとも高貴かつ深遠な試みの一つである美術に関して、その神経生理学的基礎を手に入れるという壮大な冒険に足を踏み出そうとしている。(P22) > 本書では主に「美術作品の知覚」について扱うが、筆者はかねてから美術のもっとも慈しまれ、喜ばれている側面、すなわち美的魅力、感動を呼び起こす力、心をかき乱し、刺激する力について何か一言でも言うことができたらと思い続けてきた。現在はまだとてもそのような状況にはないが、いずれそうなるものと強く期待している。(P」196) > 筆者の願いは、視覚芸術を脳内で生じている事象から説明することのできる一般的見解があるのかどうかを突き止めることであった。(P413) > 美学の神経科学、つまり神経美学とも呼ぶべき学問の基礎を築き、美的体験の生物学的基礎を理解する上で、本書がわずかでも貢献できれば幸いである。(P22) > 筆者は、美術を脳の産物として、脳の働きと機能を通して見ていくプロセスが続いていくことを強く希望している。(P414) 私も、こういう研究が続けられて更に多くの成果が生まれ、それによってもっと確かなことが言えるようになることを期待したいと思います。でも、そういう研究によって”美”がすっかり解明されると期待していいのかどうか、そこのところには疑問を感じます。この本を読んでも、そうだという気にはなれませんでした。「意味や意図、「感じる」」というような話が、ここで出てくる。で、どこまで行っっても、神経の話は神経の話し、脳の話は脳の話しであって、ついに”美”には届かない、ということもありうるのではないか。つまり、このふたつは、いわば次元が違うものである可能性も大いにありうるのではないかと思う。。 ということで、月並みですが、今後のこういう研究の進展に期待する以外にない、ということでしょうね。 ☆ この続きは ⇒ DABUN extra へ
by nbsakurai
| 2005-03-07 18:48
| エリア6 (生物学的発想)
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