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2005年 07月 10日
『人はなぜ感じるのか?』 ビクター・S. ジョンストン 長谷川 真理子 日経BP社
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/482224203X/qid%3D1120983705/250-1392905-5387439 P269 物質を心に変換するには、二つの重要な洞察が必要である。第一に、意識は消化などと同様に生物学的な組織のもっている性質であり、意識的経験は、岩や植物やコンピュータにあるのではなく、他のどこでもない、生きた動物の脳に存在する。第二に、消化や他のどんな複雑な生物の創発的性質と同様、意識も進化で出てきたものである。意識は生物学的な脳から生じるという、第一の洞察は最も把握するのが難しいだろう。なぜなら、そうするには、私たちを取り巻く世界に関する直感的な概念を捨てねばならないからである。たいていの人は、世界は光や色や音や甘い味や嫌な匂いや醜いものや美しいものに満ちあふれていると思っているが、それは間違いなく、大いなる幻想である。確かにこの世界は、電磁波や空気の圧力や、水や空気に溶けた化学物質に満ちあふれているが、生物のいない世界は真っ暗で音がなく、味もなく、匂いもない。すべての意識的経験は、生物学的な脳の創発的性質であり、この脳の外部には存在しない。 (中略) 私たちの感覚は、単に、外界のエネルギーや物質を神経インパルスのパターンに変換しているにすぎない。しかし、それらのパターンによって生起される創発的な性質が、一つひとつの意識的経験の質と量を決めているのだ。心的能力は、生物学的な脳の持っている創発的性質以上のものでも、以下のものでもない。そして、その性質は、進化で生じてきた神経組織に依存しているのであり、それを活性化させる世界の出来事の性質に依存しているのではない。意識がなければ、嫌な匂いもなければ、香ばしい香りもない。心地よい音楽もあふれる光もない。なぜなら、これらは心の持つ情熱と幻想であるからだ。 P270 心に関するこの理論、進化的機能主義は、心の性質は機能的であれば自然淘汰上有利となったので、脳の構造と機能は、そのような心的性質を表すように自然淘汰によって作り上げられてきたと主張するものである。 この進化の筋書きでは、一般汎用コンピュータの処方箋にはならないし、環境中にあるすべてのものを正確に表象させて理解する心も作られない。そうではなくて、遺伝子の存続にとって重要な意味を持つ物理的社会的側面のみによって覚醒されるような、創発的性質を備えた心ができ上がるだろう。その結果、私たちの心の唯一の機能は、私たちの生物学的存続に寄与している、または祖先の進化の過程で寄与していたような一連の創発的性質を備えるように進化してきたのである。 P271 現代の人間の心は、ニューラルネットワークの気まぐれの寄せ集めではなく、私たちの祖先が彼らに特有の複雑な物理的社会的環境で生存し繁殖するのを可能にしてきた、高度に発達した創発的性質の集まりなのである。 (中略) 自然淘汰は、そのような創発的性質が外界の正確な反映であろうがなかろうが「気にかけない」し、それを言えば、他のどんな基準から生まれた産物であろうとかまわない。それは、遺伝子の存続という単一の制限要因に反応しているだけなのだ。だからこそ私たちの意識的な心は、物理的社会的環境の中で生物学的に意味のある側面同士の間に区別をつけたり、それらを増幅したりする、高度に精密なフィルター群を備えるように進化したのである。私たちの視覚的世界は幻想かもしれない。しかし、それは適応的な幻想なのである。 P273 たとえ、シンボルでできた私たちの心的世界が外界の真実と完全に対応していたとしても、そのような心はどんな意味も持たないだろう。なぜなら、外的世界に意味は存在しないからだ。人間の心は、意味のない環境の出来事をいくら経験しても意味を獲得しない。それよりも、そうしなければ理解不可能な世界の出来事に対し、心が意味を与えるのである。私たちの意識的経験が、私たちが感知する現実の性質に指図を与えるので、必然的に、物理的社会的世界が解釈され、色付けされ、進化ででき上がった観点に沿って評価されるのである。私たちが持っている性質そのものが、私たちの恐怖や愛や怒りや苦痛を、そうでなければ「意味のない」物理的社会的出来事に対応して感じさせるのである。私たちはいくらそうしようとしても、環境をそのように解釈することから逃れたり、乗り越えたりすることはできない。実際、そのような環境評価を失うということは、すべての意味をなくすことであり、生命発生の最初の時点に戻ることである。
by nbsakurai
| 2005-07-10 18:23
| エリア6 (生物学的発想)
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