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2005年 07月 16日
『EQ ― こころの知能指数』 ダニエル ゴールマン 土屋 京子 講談社
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062080486/qid=1121247142/sr=1-11/ref=sr_1_2_11/250-1392905-5387439 P20 われわれ人間は有史以来、いや有史以前はるか太古の昔から、親が子のために命を投げ出すといった行為を数えきれないほどくりかえしてきたにちがいない。進化生物学者の目で見れば、こうした親の自己犠牲は自分たちの遺伝子を後代に伝える「種の承継」を目的とする行為だ。しかし、絶体絶命の状況でぎりぎりの決断をするひとりの親の立場からすれば、これは愛情以外の何物でもない。 ショーンシー夫妻の行為は、愛という情動の力を雄弁に物語っている。心のいちばん深いところから発する情熱や願望は人間を動かす根源的な力であり、人間という種の存続を支えてきた力だ。情動は、とてつもなく大きな力を発揮する。強い愛情があればこそ、大切な子供を助けたいという必死の思いがあればこそ、親は自分が助かりたいという衝動を超えられるのだ。理屈で考えれば、親の自己犠牲は大いに議論の余地ある不合理な決断かもしれない。けれども心で考えれば、選択肢はこれ以外にない。 進化の過程で情動がこれほどの力をもつようになった理由として、社会生物学者は重大な局面で感情が理性を凌駕するショーンシー夫妻のような例を引き合いに出す。つまり、危機に瀕したとき、大切なものを失ったとき、挫折を克服しなければならないとき、夫と妻が心を結ぼうとするとき、家庭を築いていくときなどのように、理性だけに任せておくわけにはいかない重大な局面において、情動が前面に出て人間の行動を導く、というわけだ。情動は、それぞれ特定の行動パターンにつながっている。それは幾多の困難や危機をくぐり抜けて進化してきた歴史のなかでサバイバルに有効な情動のレパートリーが神経に深く刻みこまれ、やがて生得的で自然な心の働きとなった結果なのだ。 人間の本質をとらえるうえで、情動の力を視野に入れない見方は賢明とはいいがたい。人間を「ホモ・サピエンス」すなわち「理性を持った人」と呼ぶこと自体、今日の科学が情動の力を改めて評価しはじめている現状からすれば、あまり適切とはいえないだろう。何かを決断したり行動を起こしたりする際に人間が理性と同じくらい(あるいはそれ以上に)感情に頼っていることは、誰でも経験から知っている。 P22 情動は、人間が長い進化の道をたどるあいだ、貴重な先導役をはたした。しかしひとたび文明が誕生すると、進化の遅々とした歩みは現実の急速な変化についていけなくなった。実際、「ハムラブ法典」にしても、モーゼの「十戒」にしても、「アショーカ王の勅令」にしても、人類最古の法や倫理を定めたものは、どれもみな情動に支配されがちな人間の本性を律しようとしている。フロイトが『文化のなかの不安』で述べているように、人間社会は内側に渦巻く衝動の嵐を外側から規制しなければならなかったのだ。 けれど、社会がいかに規制しようとしても、激情はしばしば理性を凌駕する。このような本性は、人間の脳の基本構造に由来する。われわれ人間が持って生まれた情動の神経回路は、過去五万世代の産物だ。最近の五百世代や、ましてここ五世代ばかりのあいだににわかに形作られたものではない。ヒトの情動は百万年という長い時間をかけて完成したものなのだ。確かに最後の一万年で文明は急速に発達し、人口も五百万から五十億へと爆発的に増加したが、情動の面では人の反応パターンはほとんど何も変化していない。 P26 情動反応が形づくられていった長い進化の時代、人類は有史時代よりもはるかに厳しい環境になかで生きていた。新生児の大半は幼児期まで生きられず、成人も三十歳まで生きることはまれだった。常に捕食される危険と背中合わせで、日照りか洪水かという天気の気まぐれが生死を分けるような環境だった。ところが農耕が発生し、曲がりなりにも社会が形成されるようになると、ヒトの生存の確率は劇的に向上しはじめた。世界各地で文明が発生し、その後一万年のあいだにヒトの個体数の増加を阻んできた厳しい環境を次々に克服していった。 生きるために即座の情動反応が有効だったのは、ヒトが厳しい環境にさらされていたからだ。しかし環境を克服するにつれて、ヒトの情動反応のレパートリーには少しずつ現実に合わないものが出てきた。原始の時代には、一気に爆発する怒りの有無が生死を分けたかもしれない。けれども、十三歳の子供がオートマチック拳銃を持ち歩くような現在社会においては、爆発的な怒りはとんでもない結果を招く。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 以上の論旨からはちょっと外れるかもしれませんが、 動物や人間の心というものを考える場合、どうしてもその根底のところに、まず基本的な情動というものを考えなければならないのではないか。 心というものにとって、情動というものは本質的なものなのではないか。 そういうものを除外した心の計算理論のようなものは、やはり本質的なところで見落としがあるのではないか。 おそらく、情動を欠いた心というものは考えられないのではないか。 有機物ではない機械に心を持たせようとするなら、そこにはやはり、何らかの形で情動を持たせる必要があるのではないか。 ・・・なんてことを考えました。
by nbsakurai
| 2005-07-16 17:31
| エリア6 (生物学的発想)
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