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2004年 09月 22日
ニュートンの重力理論は、水星が理論の予言通りには動いていないという観測結果により、「反証」されています。質量のない光子が重力レンズにより(ニュートン理論からの予測とは違う形で)曲げられているという観測結果により、「反証」されています。(逆に、これらの観測結果により、アインシュタインの重力理論(一般相対論)が「検証」されています。また、同じ「重力」という言葉を使っても、ニュートンの重力Aと、アインシュタインの重力Bでは、その意味内容が違います。)
したがって、ニュートンの重力理論は、人間の認識とは関係なく(あるいはニュートンの理論とは関係なく)、初めからあるようにあった「事実」とは、違います。ニュートン理論以前から、「事実」として客観的に(もともと)あったものを、ニュートンが単に「発見」した、というようなものではありません。 しかし、ロケットの軌道計算というような実用的な計算では、ニュートン理論は使えます。実用的な計算には、もともと観測の精度(誤差)、計算の精度(小数点何桁以下)というような誤差が付きものです。理論自体に誤差があっても、実用上問題なければ使うことは差し支えありません。「事実」ではないとしても(理論が近似でしかないとしても)構わないのです。一般相対論の方程式が極めて複雑で、これを解いて答えを出すのがたいへんだという実用上の問題があるのであれば、既に「反証」されているニュートン理論で間に合わせてしまうのです。 量子力学は、現象の観測結果を驚くほどうまく説明し予測する計算方法を与えますが、その世界のあり方を理解するのはたいへんに困難です。量子論を初めて勉強した多くの人は、いったいこれはどういう意味か、いったいこの理論は何を言っているのか、いったいこれは本当のことなのか、理解できない、というような疑問を持つそうです。つまり、現実のものとして受け容れることに拒否反応を示し、途惑うのだそうです。量子論は、人間が通常持っている(実感している)日常的な現実のリアリティから、相当にかけ離れています。 しかし、何度もシュレディンガー方程式を解いて、その答えが満足すべきものであることを確認しているうちに、いつのまにかそういう疑問をどこかに置き忘れ、次第に疑問として感じなっていくのだそうです。つまり、それが現実的な事実であるかが問題の焦点ではなく、それが満足すべき答えを出すかどうかに関心の焦点が移るのです。 もしかすると、彼らはそれを、もともと世界に初めからあるべくしあった「事実」として、(喜んで)受け容れているのでは、(本当は)ないかもしれません。それが満足すべき答えを出す、という意味で(しぶしぶ?)受け容れているだけなのかもしれません。(正面きって質問すれば、そうは(アインシュタインのようには)言わないとは思いますが。)もし仮にそうだとしても、それでも差し支えないのです。 科学的な事実は、観測や実験、すなわち人間の感覚的知覚と矛盾しては困ります。つまり、それと本当に一致するのかどうかを、徹底的に疑い、検証する必要があります。したがって、科学は妄信ではありません。 しかし、それが観測や実験結果を矛盾なく説明できているということを超えて、それが「あるべくしてある、ありのままの、絶対の事実」であるかどうかを問題にする必要は(科学の範囲内では)必ずしもありません。 確実に言えるのは、この理論から予言されることが、(今のところ)観測や実験結果と矛盾していない、ということだけです。そして、現在の検証方法を超えたところで、いつかは反証される可能性もあるのだということを、すっかり忘れてしまっては困ります。それを超えて、これが本当の事実、あるべき事実、ありのままの事実、疑えない事実だと主張することは、科学理論の限界を超えた(必ずしも科学的とは言えない)、人間の(科学的根拠が不明な)思い込み、信念、哲学だと思います。 科学がどんなに進んでも、それが「本来の、あるべき、究極的な、事実」かどうかを判断する(科学的)方法はないように思います。これは、物質を分子に分解し、原子に分解し、原子核と電子に分解し、素粒子に分解し、クォークに分解し、・・・と繰り返し、それぞれの時点でそれが「究極の粒子」だと考えてきた、人間の歴史を考えてみれば、想像できると思います。 さらに、科学的方法――感覚的知覚と論理(数学)――で、「究極的な事実」が解明できるのだ、という信念も、(科学ではなく)哲学だと思います。 もっと言えば、そのような「究極的な事実」があるのだ、という信念も、(科学ではなく)哲学だと思います。 人間の科学は、科学の範囲内では原理的に証明できない、ある種の信念・哲学に基づいているのです。 この方法は、あまりにも豊富な内容を、あまりにも有効な理論を生み出してきましたが、それに目を奪われると、その基本的なあり方を忘れてしまいます。
by nbsakurai
| 2004-09-22 08:52
| エリア1 (科学の周辺)
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