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2004年 09月 22日
哲学を「世界を説明しようとする学問」とするなら、科学がそのようなものではないとは言えません。科学も、世界を理解し説明しようとする世界観の一つである以上、哲学の一つであると言うことができるでしょう。そういう意味では、科学だけではなく、宗教もある種の哲学と言えるかもしれません。この意味では、科学とは哲学(の一部)なのだと言ってもいいと思います。ただし、この意味の哲学の中には、「科学」と「科学ではないもの」があって、私にはこの区分が重要です。その違いは、感覚的知覚による検証を必要とするか否か、という点にあります。私は、以上の意味での哲学のうち、科学を除いたものを哲学と呼びたいと思います。以上のような広義の哲学のうち、科学以外のものを(狭義の)哲学とすることにします。(なおこれは、「科学」や「哲学」についての、他の用法を否定し、排除するという趣旨ではありません。)
世界を説明しようとする人間の活動としては、発想ややり方が違うものが、概念として区別されるのではないかと思います。 (形而上学) 人間が感覚的に知覚できるもの(それが存在するかしないかはともかく)、を必ずしもそれだけとは考えず、それ以外のものを考える。感覚的知覚による検証を(必ずしも否定するわけではないが)全ての真理が必要とするとは考えない。それに加えて、あるいはそれとは別に、感覚的知覚による検証を必要としない、科学的に実証できない真理がある。むしろ、感覚を通じて得られる経験的な知識は誤謬に満ちており、真理の源泉とはなり得ないと考える。そのような形で実証されるものではないものに、重きを置く。 純粋に観念的な思弁や直感によって認識される、存在の根本原理のようなものを問題にする。アプリオリな真理、自明で、思考によってしか理解できない原理が真実の存在である。純粋思考によってのみ理解可能な深遠な真理がある。感覚ではとらえられないもの、人間の感覚を超えた世界を、真実の実在と考える。超自然的、超経験的で、感覚的経験ではとらえられない、純粋思考、理性的思惟、独特な直感でとらえられる、究極的なものを目指す。形がなく、人間の経験の範囲を超え、自然的物理的なものを超えた、感覚的に知覚できないもの、超自然的なもの、究極的なものを、思弁や直感(だけ)によってとらえようとする。 (自然科学) 経験的対象のみを問題とする。感覚的知覚でとらえられるもの、感覚的な経験、われわれの知覚でとらえられる自然現象だけを問題とし、それに必要なこと以上のことを言おうとはしない。それを言う場合は、科学ではないもの、世界の哲学的解釈であることを明確に意識する。 歴史的に見た場合、これらは非常に長い期間、未分離のまま、つまり、純粋思弁と人間の感覚による実証とが、未分離のまま、どちらもとられてきたのではないかと思います。私の用法では、これが哲学(あるいは自然哲学)です。時間、空間、火、水、土、生命、心、意識、知、存在といった世界のあらゆるものは、かつてはどれもが哲学の課題であり、領分でした。現在のような科学的な発想や方法が明確に確立してきたのは、17世紀になってからだと思います。歴史的に見て、科学にはかつては哲学の一分野だった長い時代がありました。ニュートンも、その重力理論を「自然哲学」としていたようです。現在では科学に含められている多くのことが、かつては(自然)哲学の一部門でした。科学は哲学を父として生まれたのだと思います しかし、ここ何百年かの科学の進展により、今まで思弁でしか扱えなかったものが実証的に扱えるようになり、それらの多くが科学の領域に移ってきました。世界がどのようであるかについて、科学的方法が確立し、大きな成功を収めてきました。その過程で、多くの形而上学が、神秘的・抽象的な思弁による独断や根拠のない思い込みであったことが、次第に明らかになってきました。現在では、世界を理解し、説明し、予言し、操作することができる点で、科学はもっとも説得力があり、他を大きく引き離し、勝っています。そうなると(自然)哲学もこれを受け容れざるをえなくなり、この二つの区別が徐々に明らかになってきました。物理学が最も成功した哲学なら、かつての哲学は物理学に批判され侵食され続け、壁際にまで追い詰められてしまいました。今では、哲学(形而上学)の基礎も科学に頼らざるを得なくなっています(すべての哲学の基礎が科学である、と主張する趣旨ではありません。)。この意味で、従来の哲学と科学の区分は、今では明確になってきています。科学はあまりに成功しすぎ、大きく育って、哲学の一分野というような位置に留まらず、既に分家して、今では本家をしのいでいます。かつては哲学の分野とされていたことも、今ではその多くが科学で答えられるようになり、その分、哲学の領土は狭くなってきました。現在のところ科学では答えられない分野で生息している、と言ってもそう間違いではないでしょう。その結果、「科学は哲学の一分野」というよりも「哲学は科学の周辺」といってもいいような状況になっているのではないか、と私は考えています。 もし、以上のような哲学ないしは形而上学が、科学のように、真理を得るためには経験的な知識によらなければなければならないと認めたら、そのとき、自然哲学はきっと破綻するでしょう。(自然)哲学は、科学に飲み込まれてしまいます。そういう意味で、既に(自然)哲学は破綻していると私は考えています。 ただし、科学は客観世界がどのようなものであるかを説明するだけであり、それ以外の世界(それがあるとした場合)のことや、世界はなぜ存在するのかとか、人は究極的に何をすべきかというような問題には、原理的に答え得ません。私にはよく分かりませんが、そこに哲学の存在意義があるのかもしれません。私にとって哲学とは、形而上学と自然科学が未分離の状態、または、科学ではないところの学問、あるいは、科学で言えること以上のことを言う学問です。(繰り返しますが、これは、「科学」や「哲学」についての、他の用法を否定し、排除するという趣旨ではありません。) 『事実とは1』 http://nbsakurai.exblog.jp/319983/ ➡️ (科学的) 『事実とは2』 http://nbsakurai.exblog.jp/319988 『事実とは3』 http://nbsakurai.exblog.jp/319993 ➡️ 当Blog の総 括 https://nbsakurai.exblog.jp/i13/ の 補足2: ヒトは象使い https://nbsakurai.exblog.jp/33340931/ の、『科学では扱えない問い』
by nbsakurai
| 2004-09-22 08:56
| エリア1 (科学の周辺)
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Comments(1)
Commented
by
文殊のヒフミヨ
at 2023-09-25 19:53
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≪…「科学は哲学の一分野」というよりも「哲学は科学の周辺」…≫で、数の言葉ヒフミヨ(1234)が平面からの送りモノとして眺めると数の言葉の世界の自然数は、言葉の点線面・言葉のカタチ(〇△□ながしかく)・演算符号(+-×÷√=)・十進法の基における西洋数学の成果の符号(i e π)・無限(∞)・「1](アル)[0](ナ)・数式・方程式・直交座標・極座標などをウマクウマク纏め上げている。
この物語の淵源は、2冊の絵本で・・・ すうがくでせかいをみるの もろはのつるぎ (有田川町ウエブライブラリー)
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