現代科学の目で世界を見るというのが、私の基本的なスタンスです。現代科学の知識が、現在までに世界について人類の得た結論だからです。最終的な究極理論ができているわけではありませんが、現代科学の理論を踏まえない、あるいは含まない、まったく別の理論に取って代わられる、などということはありそうもありません。古代の思想や哲学は、そこに至る過程であり、途中経過です。その中には、やがては現代科学にもつながるもの、途中で乗り越えられてしまったもの、あるいは否定され、廃棄されてしまったもの、があるでしょう。科学は人間の日常的な直感や常識では想像もできないほど発展してしまっています。それらに基づく思弁からは、はるか遠くに隔たっています。科学が古代思想に戻ることは、もはや考えられません。古代思想は、そのままの形では結局は成功しなかった、過去の仮説です。
古代の(素朴な)思想や哲学が、まったく無価値だとは私も思いません。しかし、古代思想には、かつてはそのような考えられていたこともある、という以上の意味は、もはやないと思います。歴史と言う以上の意味はありません。人類の歴史を文献学的に研究する場合には、意味を持つでしょうが、それ以上の意味はないものです。少なくとも、実際の世界がどうであるかと言う議論では、現在ではほとんど何の意味も持たない、過去の議論と言っていいでしょう。世界の理解としては既に破綻したもので、もはやそのままの形で役に立つことはない、と私は考えています。
相対論は、日常の経験に基づく直感に反します。それをもって、アインシュタインの相対性理論は間違っている、というような議論が、あちこちの掲示板で行われているようです。しかし、間違っているのは、人間の日常の経験に基づく直感のほうです。人間のそういう直感は、地球上で生活していく分にはおそらく相当に有効なものなのでしょう。しかし、世界がどのようなものであるかを正確に知るためには、必ずしも適切なものではなかったようです。逆に言うと、世界がどのようなものであるかを厳密に知ることは、必ずしも人類の生存に不可欠なものではなかったのでしょう。生活に役に立つということと、それが正確であると言うこととは、必ずしも一致するものではないのでしょう。ヒトという生物種にとっては、当面の生存に役立つかどうかが問題なのであって、それが厳密に正確かどうかは問題ではなかったのでしょう。
相対論は、過去のどんな偉大な思索も追いつかないほど、奇妙なものでした。日常の直感に反するもので、日常的な経験を基にした思弁では、到達不可能なものなのでしょう。量子論に至っては、人間の日常的な直感や常識からは、奇妙奇天烈と言うほかありません。過去のどんな偉大な思想家も、哲学者も、おそらく、理解できないどころか、想像することもできなかったでしょう。相対論や量子論に至るためには、そこに至る科学の進展を待たなけらばならなかったのであり、おそらく、ニュートンの重力理論やマクスウェルの電磁理論を経ずして、または原子論や元素の周期律表、あるいは原子の内部構造の理解を経ずして、たどり着くことはできなかったのでしょう。それらを知らない古代の偉大な思想家に、相対論や量子論を考えることができなかったのは、おそらく当然のことでしょう。
量子論は、常識に反します。現代科学は、古代思想とはまったく別な、まったく驚くべき発想の上に立っています。日常的な直感や、常識ではまったく歯が立ちません。日常的な経験に基づく直感では、とうてい理解できないようなものです。現代科学は、人間の日常の常識や、毎日の生活で得たものに基づく直感や、現実の経験を基にした想像力では、もはや及びもつかず、古代の思想家たちの思索ではとても思いもよらないところまで、進展してしまってるようです。古代の思想家には、現代物理学の量子論を理解できないどころか、まったく想像もできないでしょう。世界は、日常的な経験や、それに基づく直感や、思弁などではとても追いつけないほど、想像を絶する奇想天外なものだったのでした。もはや古代思想は、世界を説明しあるいは理解するものとしては、ナンセンスになっているというほかありません。
日常の経験を一般化し、思索によってそれを体系化し、あるいは宗教的な信念を加え、世界を説明する任意の理論を造り上げることは、古代でもできたのでしょう。しかし、それは現代科学の批判に堪えられるものでは、とうになくなっています。それらは既に乗り越えられたのです。根拠のない思い込みであったことが、事実ではないものであったことが、間違いであったことが、既に明白になっています。古代の偉大な思想、哲学は、もはや歴史的な意味があるだけです。かつてはそのように考えていた偉大な人間がいた、という以上の意味はないでしょう。その思想や哲学を、現在でも通用するものと考えるのは、もはや思い違いという以外にないのではないかと思います。古代思想と現代科学の理論は全く違うものであり、古代の思想や哲学は、既に破綻し、否定され、その後の科学の進展によって乗り越えられてしまったものです。