記述の便宜として、【 世界(客観・客体)=Ⅹ 】、【 私(主観・主体)=Y 】とします。
まず、「知覚」という言葉を、「感覚的知覚」に限定することにします。これは、Yの外の世界からYに入る、あるいは、Yが外の世界から取り入れる、という意味で、Yが「外の」世界を知覚するものです。Yと「外」をつなぐ通り道は感覚器官です。ここでは、知覚という言葉の意味・内容が具体的で明確です。(なお、自分の肉体を知覚するのも感覚的知覚です。胃が痛いとか、内臓感覚とか、平衡感覚というようなものが、この意味で「外的な」知覚かどうかは議論があるかもしれませんが、これらは、感覚的知覚としては外的知覚だと、私は考えています。)
Yそのもの認識は、それとは全く違います。感覚器官を通すというような具体的な通り道を考えることができません。以上の「外的な」知覚とは別のものだ、という意味で、私は「内的」知覚」という言葉を使っております。したがって、知覚とは感覚的知覚であるという、最初の前提からすれば、これは言葉の矛盾です。不適切な言い方です。知覚という言葉の意味を、恣意的に拡張しています。
また、私は、Yの中身を、論理的に分析したり、整理したり、統一したりすることはできないと考えています。Yの中身は論理的には無秩序です。どれが論理的に正しく、どれが間違っている、というようなことは、(原理的に)言うことができません。数値化もできません。数学的な方程式で解くことはできません。したがって、科学の対象にもなりえません。
私がXとYという記号の表記にこだわるのは、それはまったく別(次元、レベル)のものであり、決して混同してはいけないと考えるからです。外的な世界と内的な世界は、まったく原理の異なった、別のお話だと考えています。
そして、私は、内的知覚という言葉に、具体的な意味・内容を考えておりません。内的知覚は、感覚的知覚のように、言葉の意味・内容が明確ではありません。むしろ、具体的な意味・内容を論理的に考察することができないものだ、と考えています。内的知覚というものは、これこれの仕組みによって、このような仕方で、このように行われているのだと、科学的・論理的に分析、説明、理解できるものではないと考えています。むしろ、論理的に分析できないところが、Yの特徴だと考えています。
Yにおいては、Yを認識すること自体もYの中身です。科学的にも論理的にも分析することのできないものです。Yを認識する行為をこれこれだと説明するのは、どれも、原理的に、どんな意味でも、科学的にも、論理的にも、確認することのできない主観・仮説だと考えています。この意味では、Yはそのまま、単に受け容れるしかないものだと思います。もし何らかの科学的な、あるいは論理的な根拠がないものを受け容れることを、神秘主義と言うのであれば、この点については、私は神秘主義者だということになります。
私はYを、一人称・単数・現在の「私」だと考えています。一人称でないものはYではありません。単数でないものもYではありません。また、過去、未来にはYはありえません。Yとは、本質的に、今現在ここにこのように、というものです。過去を回想することはできます。過去を回想する現在の「私」がYです。未来を予測し、希望を持つことはできます。そのようにする現在の「私」がYです。
私は、Yに、欲求や、希望や、感覚的知覚や、感情や、気持ちや、感動や、好き嫌いや、善悪や、価値の判断や、論理的な思考や、認識や、意思や、目標や、意志、意欲や、意識があることを認めます。しかし、抽象的なY自体がまずあって、それがこれらのことをしているのだ、というふうには考えません。これこれのことをしている時に、それをしていない「私」はありません。これらをしているということが、まさにYそのものなのだ、と考えます。「Y自体」と「Yのすること」に、何らかの論理的な関係、因果関係、その他のなんらかの関係を考えようという試みは、成功しないと考えています。
したがって、理性、純粋思惟というようなものがあるとしても、それはYの中身としてであり、Yを認識する方法とは、私には考えられません。