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2004年 09月 22日
私は、物理的実在は実在しない、と考えているわけではありません。一方で、「客観・客体」Xを認識する「主観・意識」Yがない、とも、私には思えません。「物理的実在」Xとそれを認識する「意識・主観」Yというものがあるとして、そのどちらが先で、どちらが後かというのが、ここでの議論のテーマです。その先後を判断する基準や根拠は何なのか、これをどのような基準で判断するのか、ということです。そのどちらが論理的に先で、どちらが客観的に後か、これは、私には相当に難しい問題です。いったい、XとYのどちらが、より基本的に確かなのものなのでしょうか。
科学の示す「物理的実在」Xが全ての基本である、という考え方がありえます。まずXが先にあり、その歴史の中から人間、そして意識が生まれました。人間はせいぜい数百万年の歴史しかないところ、Xである宇宙は百数十億年前から存在していたのです。そういう時系列的な構造は確かなものであり、つまり、人間より物理的実在が先にあったわけです。そうすると、Xが全ての基本であり、人間の意識・主観Yはその派生物だと考えられます。これによれば、人間はXにおける客観現象としてとらえられます。その意識・主観Yは、例えば脳内の電気化学現象というような、自然現象として論じられることになります。これはつまり、雷が落ちたり、川が流れたり、風が吹いたりするのと、本質的に同じです。物質と法則によって、科学で説明すべき対象です。 ところで、次のような図式で考えてみると、人間の考えている「物理的実在」は、「人間が認識した理論の体系」であることが分かります。(記号を使うのは記述の便宜のためです。) ――――― ――――― ---------- |意識・主観| ―(1)→ |理論の体系| ---- ¦物理的実在¦ | Y | ←(2)― | X’ | ---- ¦ X ¦ ――――― ――――― ---------- ・ 「物理的実在」(X) ・・・ 本当の世界、真実の世界の実在。 ・ 「意識・主観」 (Y) ・・・ それを認識する主体。 ・ 「物理的実在」(X’) ・・・ Yが認識した理論の体系としての物理的実在。 Yが物理的実在Xを基礎とし、それに従い、それによって成り立っている姿が、「←(2)―」で表現されています。YがXによって成り立ってると、(Yによって)理解されていることを示しています。初めにⅩの方が先だと前提してしまえば、Ⅹの中から、ⅩによってYが生じたことになります。科学の示す物理的実在Xを基本に考えれば、矢印の向きは、X → Y になります。 しかし、そういう理解の前提として、Yが物理的実在Xを経験し、観察し、実験し、認識している姿、「―(1)→」があります。矢印の向きが、YがXを認識していること表しています。Ⅹ’は人間が構築した理論であり、Ⅹ’はYの認識としてあるわけです。ⅩをⅩ’として認識しているのはYです。Yの中に、Yの認識として、Ⅹ’が生じることになります。この議論では、Ⅹ’は、Yの受け容れた認識としてあるわけです。人間の認識ということを基本に考えれば、矢印の向きは、Y → X になります。 ① Yの中に、Yの認識としてⅩ’が生じます( Y → Ⅹ’ )。その認識を基として、 ② Ⅹ(またはX’)によってYが生じている( Ⅹ → Y )というふうに、Yによって理解されます。 ③ さて、そのⅩとYの、どちらが「先」なのでしょうか。( X ⇔ Y ? ) Yが認識すると否とに関わらずⅩは実在する、Yが認識しなくとも、あるいは、Yの認識とは関わりなく、Ⅹは初めから実在する、と言えるでしょうか? これは、きっとそうに違いないという信念、思い込み、あるいは先入観であって、それに確かな根拠が本当にあるのかと言えば、そうとは言えないと思います。究極的には、Yによってそう認識されている、という以上の根拠が、あるようには思えません。 科学の示す「物理的実在」というものは、Yがそうだと思っているものX’であって、、Yの存在や認識に先立つものでは、必ずしもないと言えます。まずYが存在し、その認識としてX’があり、そのYの認識としてのX’をYに適用してYを説明する、という関係にもなっています。X → Y の一方通行、というわけではありません。 科学の理論体系X’は、確かに素晴らしいものです。それを基本としてYを考えることには、充分な理由があると思います。一方で、Yが論理的に先にある、という考え方もありうると思います。そのようにXの実在の本質に迫れるのは、Xの前に、それを認識する「主観・意識」Yが確かにあるからであり、Xが確かなのは、それを認識しているYが確かだからである、というような解釈も、ありうると思います。つまり、より確かなのはYであり、Xの確かさはYの確かさに基づく、ということです。 さて、XとYはそのどちらがより基本的で確かなものでしょうか。 X’は現実の客観世界に存在するのではなく、人間の意識・主観Yの中に存在するものです。ⅩとYは、① ⅩがなければYは生じない、② YがなければⅩは生まれない、という、鶏と卵の関係にありはしないでしょうか。これは、そのどちらが先かを決定する、ということができない問題ではないか、と私は考えています。ⅩとYのどちらが先か、という問題の設定の仕方は、あまり意味のある問いではない、と私は考えています。その先後を何によって判断するのか、一方を先とし、他方を後と決めることができるような、何らかの理由があるのか、ということになると、私はやはり、あるようには思えません。どちらが先かを決めることはできない、というのが私の考えです。 科学は、実に広い領域で、素晴らしく、確かで、豊かで、偉大な成果を収めてきました。したがって、科学で世界の全てが分かるはずだ、少なくとも科学が教えていることを基本とすれば、あらゆる問題に対処できるはずだ、と考えるのも、理由のないことではないと思います。これを突きつめていくと、人間の意識や主観や行動も、落雷や川の流れや風が吹くのと同じように、物質と法則で説明し尽くすことになると思います。究極的には、人間の主体性や人格の否定に行き着きます。そこでは、人間の主観的・主体的なもろもろ、認識、思い、考え、嗜好、価値、希望、志向、選択、行動・・・は、本来の意味を持たなくなります。私自身も、相当の期間、そのような発想で考えていました。『科学的世界観』の第4章までは、ほとんどそのような基本的考え方の下で書かれています。 しかしながら、科学は必ずしもオールマイティーではありません。科学にはそれ自身の独特の発想があり、限定された方法論があります。その発想や方法論の枠にそぐわないものは、扱うことができません。人は何をなし何をなすべきではないか、何を大切にし何を大切にすべきではないか、何を善とし何を悪とすべきか、何を目指し何を目指すべきではないか、何に心を動かされ何に動かされるべきではないか、何を好きになり何を嫌いになるべきか、何を問題とし何を問題とすべきではないか、・・・。これらの課題や紛争はすべて、選ばれた科学者で構成された、科学裁判所に持ち込んで判断を仰ぎ、解決すべきでことしょうか。そんなことはない、と私は思っています。 科学の理論体系や、それが示す「物理的実在」は、決して、あらゆること全ての基本、というようなものではないと思います。それには、人間によって外部に認識されたもの、という性格上、本来的な適用限界があります。 科学理論が示す物理的実在Xを全ての基本と考え、それを認識主体である人間にもそのまま適用し、人間の主観や意識をも客観的な自然現象に帰してしてしまうことは、―― ・ 自分が認識しているものの中に、それを認識している自分自身をも溶かし込んでしまう。 ・ 自分で鏡を造り、その鏡に映った写像を自分自身と思い込み、鏡を見ている本来の自分を消滅させてしまう。 ―― というような、奇妙な論理構造になっているのではないかと思います。
by nbsakurai
| 2004-09-22 09:40
| エリア2 (客観Xと主観Y)
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