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2004年 09月 22日
科学エッセー 朝日新聞 03-11-13
『情報流」の一部としての私たち』 西垣 通 東大大学院情報学環教授) サッカーを観戦していると、いつも不思議な気持ちになる。一流のチームは、全体がまるで一個の生き物のように、しなやかな統一性を保ちながら動く。そこには選手一人一人の意識的動作をこえたハーモニーとリズムがある。 もちろんMFが的確な指令を出したり、ゴールキーパーがDFの位置を調整したり、選手の意識的な努力も払われているには違いない。だが状況は一瞬で変わるから、すべてを意識的に判断する余裕などないはずだ。むしろ暗黙の情報流が旋回集散し、選手たちの体がそのもとで自動的に協調しているような気がしてこないだろうか・・・。 「試合の流れ」というものがある。負けていたチームが、たまたまラッキーなゴールを決めると一挙に動きが良くなって逆転したりする。一方、いったん歯車が狂いだしたチームはみじめだ。個々の選手が意識的に努力しても、すべてチグハグとなり、負けてしまう。 個々の人間が意識を持ち、理性にしたがって自由に行動できる、というのは近代主義の大前提だ(たとえ精神分析が意識下の暗部を指し示したとしても)。現代社会が自由な個人の集まりだという常識を疑う者は誰もいない。だがそこに、傲慢な思いこみは無いのだろうか。 われわれの感覚器官には、光、音、熱など、毎秒何百万ビットもの情報が流れ込むが、そのうち意識にのぼるものは、たかだか数十ビットだという報告がある。体内には神経処理だけでなく、代謝処理もふくめ膨大な情報流が渦巻いているが、そのなかで意識される部分はごくわずかなのだ。これは間違いない。サッカー選手は「論理的に判断しながら」というより、むしろ「無意識に感じながら」プレーしているのである。 無脊椎動物に意識は無さそうだが、生物進化史40億年のなかで、最初の脊椎動物である魚類の出現は、わずか5億年前である。多くの生物は意識無しでも立派に生きているではないか。 意識からの中央指令にもとづいて機械部品のように体が動いているという人間観は、もはやすっかり時代遅れになってしまった。人間の体は60兆もの細胞からできあがっている。生物学的には、「個人」とは半自立的な細胞群からなる共生体に他ならない。それは複雑な情報処理がおこなわれる「社会」だとすら言えるのだ。 共生というのは生物の本質的活動である。たった一つの細胞さえ、ミトコンドリアという「異種生物」と共生しなくては生きられない。そして、われわれのような多細胞生物は、各細胞が生きるために協働しているのだ。たとえば南方熊楠が研究した粘菌は、ふだんバラバラな単細胞アメーバだが、食物が不足すると互いに寄り集まり、あたかも一個の多細胞生物のような集合体となってそそり立ち、頂点から胞子を放出する。これも生存戦略だ。 とすれば「個体」とはいったい何だろうか。ひるがえって、社会生物であるハチを眺めてみよう。働きバチ同士が情報を交換し、蜜のありか等について巧みなコミュニケーションをおこなっている事実はよく知られている。働きバチに生殖機能はない。とすれば個々のハチは実は「個体」ではなく、女王バチをふくめた群れ全体を「個体」とみなすべきだという説も成り立つ。 われわれの社会や組織を「意識をもった個人の集まり」ではなく、無意識をふくむ複雑精妙なコミュニケーションが実行される「情報システム」と見なしたほうがいい場合もあるのではないか。サッカーチームの動作を見ていると、そんな気がしてくる。 元来、個人(individual)とは、キリスト教思想にもとづく特殊な概念である。つまり神の理性を分有する「分割できない絶対的存在」が個人なのだ。しかし人類史を振り返ると、むしろ一人一人は自分が帰属する共同体の一部をなす、という発想のほうが普通だっただろう。 だがこんなことを言えば、猛烈な反論が来るかもしれない。なぜならまさに、そういう過去を清算し、自由な「個」を確立することこそ、近代化運動の目標だったからである。「いまさら昔の全体主義に戻れというのか」という非難の声が聞こえてきそうだ。 いうまでもなく、個人の自由も責任も大切である。しかし肝心なことは、教条主義におちいらず、新たな科学的知見をふまえて、まず人間という存在の実態を虚心に見つめることだ。そしてそこから、近代的諸概念をとらえ直していくことだ。すると自由も責任も「前提」というより「課題」として見えてくる。 近代的個人の絶対視が、自己責任にもとづく無制限の市場主義と短絡すると、恐ろしいことになる。人々の連帯感や公共心は根こそぎ破壊されてしまうのだ。すでに症状は露呈している。働き慣れた職場からリストラされる中高年。自信を失い刹那的享楽を求める若者たち。経済発展の名のもとに激変していく地球環境・・・。 はたして情報学はこれらの問題に対処できるのだろうか。情報システムとは本来、生きるためのものであり、ITもその延長のはずだ。自分が他者と競争する孤立単位ではなく、つながった情報流の一部だと考えることも、一種の処方箋になるような気がする。
by nbsakurai
| 2004-09-22 11:43
| エリア5 (様々な発想)
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