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2004年 09月 22日
『内なる目』 ― 意識の進化論
ニコラス・ハンフリー (著) 垂水 雄二(訳) 紀伊国屋書店 P95 カメ、ホシムクドリ、ウシ――これらすべては、意識がなくとも十分うまく生き残っていけると思う。なぜなら、意識的な洞察が本当の意味の生物学的な利益をもちはじめることができるのは、動物がお互いに持続的で、しかも親密かつ困難な関係を維持する必要が生じたときのみだからである。そじてそれは、一定のレヴェルの高等な社会性哺乳類のみ、たとえば、オオカミ、クジラ、ゾウ、チンパンジーの群れにおいてのみ見られる。 チンパンジーだけが、意識をもつことが不可欠であるような仲間との心理学的関与のレヴェルに到達した動物として際立っている。 チンパンジーは本当に他のチンパンジーの心について推測するのだろうか? 人間以外の種における洞察についての理想的な実際的研究はないと前に述べたが、この問いに直接関係のある一頭のチンパンジーについての研究がある。デイビット・プレマックは、サラと呼ばれるチンパンジーについて、彼が「心の理論」と呼べるものをもつかどうかを調べるために、巧妙な実験を行った。 P97 サラに関する研究は、私の知るかぎり、この問題と直接のかかわりをもつ唯一の実験であり、今のところ、チンパンジー以外の種では誰も試みてはいない。だが、意識に関するもう少し説得力の弱いテストなら、あらゆる範囲のさまざまな動物で行われている。それは、「鏡テスト」で、動物が「自己」の感覚をもっているかどうかを見るために、ゴードン・ギャラップが考案したものである。 (nb注 この本の原著の出版は、1986年、つまり20年近く前である。) P100 私たちが彼らについてどう感じるかというのが最終的に問題なら、動物が自らについて感情をもっていようがいまいがほとんど問題にならないということだ。 P101 A・N・ホワイトヘッドはこう語る。 「自然は、本当ならわれわれにとっておくべき賞賛を得ている。バラにはその香り、ナイチンゲールにはその鳴き声、太陽にはその輝き。……詩人たちはすっかり勘違いしている。彼らはその叙情詩を自分に向かって語りかけるべきであり、それを、人間の心の素晴らしさを自賛する頌歌に変えるべきなのである。自然は退屈な代物であり、音がなく、匂いがなく、色がない。つまり、果てしなく、意味もなく、物質が大急ぎで通り過ぎていくだけなのだ。」 神秘主義者、詩人、あるいは彼自らの精神の力によって自然に生命を吹き込むあらゆる普通の人間(・・・ 略 ・・・)は、間違ってはいない。そういうことではまったくない。なぜなら、私たちの周囲の環境を関連づけ解釈するのに役立つもので、間違っているものなどありえないからだ。 私たちが直接知りうる唯一の意識は、自分の意識だということを忘れないでほしい。私たちが他の人間にさえ意識を見るとき、私たち自身が投影したものだけを見ているのだ。そうしていいという哲学的あるいは科学的な承認は、誰も与えてはくれない。しかし子供の頃からずっと、私たちはそうすることを習い覚える。なぜなら、実践上、それは他の人がどのように考え、振る舞うかを理解するうえで、驚くべき働きをするからだ。もしそれが実践的に、人間以外の世界の理解にも驚くべき働きをするなら、なおいい。 それは人間以外の世界にも効果があるのだろうか? アメリカの動物学者H・S・ジェニングスは、1906年に書いている。 「われわれはふつう、石に意識を認めることがない。なぜなら、そうしても、石の挙動を理解したり制御したりするうえで何の助けにもならないからだ。それは実際上、そのような対象を扱う際に、われわれにおおいに道を誤らせることになるだろう。一方で、われわれはふつうに犬に意識を認める。なぜならそれが役に立つからだ。実践的にそれは、ほかのどんなやり方よりも速やかに、犬の行動の評価・予測・制御を可能にする。……アメーバは肉食動物だ。もしアメーバが……クジラほどに大きければ、それに原始的な段階の意識を認めることが、素朴な人類を(それを認めないことによって生じる)破滅から救ってくれるような事態が生じるであろうことは、十分に考えられる。」 P103 実のところ、自分自身の解読を基にした宇宙についての意識モデルは、存在するかぎり最も強力な普遍的理論なのかもしれないのだ。 P104 内なる目は一つの目的のため、たった一つの目的(自分とよく似た他の人間の行動を読むことができるようになるという)のためだけに進化してきたのかもしれないが、それによって、私たちは自分の心をあらゆる事物の物差しとするという能力をもつことになったのだ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 確かにそうなのかもしれないが、・・・ 私たちがどう感じるかというのが最終的な問題である、とか、私たちの周囲の環境を関連づけ解釈するのに役立てばいい、とか、それで実践上驚くべき働きをしてよく役に立つならいいじゃないか、というような発想は、私の発想とは違います。 ヒトはおそらく、今までそういう考えを少しずつ乗り越えてきたのであり、今後も乗り越えていくのだと、私は期待したくなります。 ”真理が何であるかということがそもそも問題になるかどうかさえ確信がもてない”というのが究極の答えというんでは、ちょっとね。ワビしかぁないですか。 おそらく私は、”「科学番組」において真実が語られることを期待している””テレビの視聴者たち”の一人、ということなんでしょうねぇ。
by nbsakurai
| 2004-09-22 14:30
| エリア6 (生物学的発想)
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