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2005年 12月 26日
○ 「物」は実在するか?
例えば、コーヒーカップという「物」を考えてみます。 この「物」にはある形があります。色があります。表面に何か模様のようなものが書かれています。触ると、つるつるしたある種の手触りがあります。硬くて、指ではじくと音がします。持ち上げると重みがあります。口に運ぶと香ばしい香りがした飲み物を飲むことができます。以上の意味で、物は「実在」するとします。 コーヒーカップは、ずっと前から実在していたわけではありません。この形になる前は、どこかの土であったかと思われます。その土には、かつて地球上に生息した生物の成れの果てが含まれているかもしれません。また、私がうっかり床に落とせば、粉々に砕け散って、コーヒーカップは実在しなくなり、陶器の破片かゴミが実在することになるかもしれません。 ちょっと待った、壊れても、コーヒーカップを構成していた分子や原子は相変わらず実在するのではないか。その通りですね。科学が教えるところによると、物は分子や原子でできている。原子は原子核と電子でできている。原子核は陽子と中性子で、陽子や中性子はクォークでできている。そうすると、物として実在するのはコーヒーカップではなく、電子やクォークである。 実在するものは電子やクォークである、とします。そうすると、そこにあるのは、それを表す記号や、質量、電荷やスピンといったパラメータや数式です。かつて色であったものは、電子やクォークとやり取りされる光子の振動数やエネルギーになります。音は大気の振動です。香りは何らかの化学物質です。あの重さの感じは既になく、質量という数学的な抽象概念が残ります。あのつるつるした手触りは、もはやありません。 さらに、相対論によると、物質の質量はエネルギーと等価だといいます。量子論によると、これらの素粒子は粒子である同時に、波でもあるといいます。物として実在していたはずのものが、今ではエネルギーや波動になってしまいました。さらに、超ひも理論によると、すべての素粒子は、奥行きや太さのない、長さだけの一次元の線の振動だそうです。実在していたはずの「物」は、一体どこに行ってしまったのでしょうか。 形、色、手触り、硬さの感じ、重さの感じ、質感・・・というような、物の「実在」感は、以上のような意味では、幻といってもいいのではないか、と私は思っています。 「心」の実在性の議論と、なんか共通性があるような気がしませんか。 思い切って言えば、「心」も幻だが、「物」も幻、かもしれません。そして、「私」も幻、かもしれません。もっと言ってしまえば、世界はすべてがバーチャルリアリティ、・・・なのかもしれません。 ○ 科学的世界観の帰結 『科学的世界観』 ―― 科学的知識に基づく世界の統一的把握とその帰結及び限界 桜井 登 (著) 近代文芸社 第4章 第1節 3 「科学的世界観の帰結」 P205 から われわれは、一人称単数現在の「私」という特別なものが存在すると考えている。しかしながら、私を特別なものであるとする根拠は何もない。そのことは、次のような問いに答えようとするとハッキリするであろう。──私が私の父と母との間に生まれたのはどのような理由からか。私はなぜ私の誕生日に生まれ、その前にも後にも生まれなかったのか。私が私であって、兄でも妹でもないのはどうしてなのか。私と兄や妹を区別する根拠は何であろうか。もし私の母が父とではなく、他の誰かと結婚していたら、私は生まれていただろうか。その結婚によって生まれた人間が私だろうか。私がまさにこの時代に、この父と母との間に生まれたということに何らかの必然性があるのだろうか。 人間は、自分が望んだ時代に、自分が望んだ場所で、自分が望んだ父と母のもとに生まれてきたというのではない。それらのことはその人間の人生に大きく影響するが、人間はそのような条件を引き受けるものとしてこそ存在する。親から子へ、子から孫へと続いていく生命の間に、本質的な断絶は何もない。私という人間は、連続する生命現象の一部であり、私の生命や精神は私の父母と連続し、そして子どもへと連続していく。そしてそれは、アウストラロピテクスや食虫目、原始単細胞生物からの連続であり、さらには地球上での物質進化、究極的にはビッグバンによって開始した宇宙の歴史と一体をなしている。 人間も、ビッグバンによって始まり、歴史と時空の広がりをもった宇宙の一部である。自然は一つのものであって、物と生命と心とはこの一つのものの違う側面である。人間はそのあり方にふさわしい仕方で宇宙のなかに位置付けられているのであり、人間や生命と自然との間に断絶はないのである。人間は科学によって世界を理解するが、人間のその営みもまた自然現象の一部である。人間は、そして「私」は、世界の中の特別な何かというわけではない。世界に存在するものはすべてそうであり、人間も自然の一部である。自然の中にあるすべてのものは等価であり、そのうちのあるものに価値があり、別のものには価値がないという区別が存在しないところのものである。 われわれは自分の成功と幸福を願っている。もしわれわれがそれを願うのであれば、他人のそれも同じように願うべきである。またわれわれは、人類の平和と福祉と幸福を願う。もしそうするのであれば、動物や植物のそれも、原子や金属や恒星のそれも、同じように願うべきである。それらは同じ仕方で生まれ、同じ構成要素によってできており、宇宙の歴史の中で同じ法則に従って育まれてきたものである。ある一つに価値があるなら、他の一つにもそれと同じ価値があるはずである。またあるものに価値がないなら、他のものにもそれはない。宇宙の中で、特別な地位を占めるような存在──たとえば私の存在──を認める根拠は、科学的・客観的・論理的には何もないのである。 世界をそのように捉えることによって、宇宙のすべてと「私」とは絶対的な同一性に到達し、一体となる。主観客観を超えて世界を把握することにより、科学的世界観は、宇宙のなかに人間自身をも溶かし込む。自分という個別我(エゴ)の感覚を放棄することによって、人間は宇宙の歴史の一部として、その中に身を委せることになる。宇宙に存在するのは構成要素と相互作用であり、階層構造であり、自然法則に従って生じてきた宇宙の歴史であって、「私」ではないのである。 ○ どうにか<唯識>も読んだゾ 外界の対象であるかのように認識されるものは、実は識の内部にある表象である。そのことを理解し修習しても、それだけではまだ、唯識の真理を知ったことにはならない。外界の対象は存在しないと考える自己そのものが否定されない限り、理論的・実践的知識は煩悩に他ならない。自我意識が否定されつくして、主観と客体の二元性を離れた、超世間的知識、絶対知に至ることが必要である。仏教では、原始仏教以来、人間存在は諸種の構成要素の集まりと見なされ、それ以外に恒常不変の自己(アートマン)があるという見解は否定されている。 ①すべてのものをイチオウ識の中に収めとったのちに、②識もナイという理解に達する。まず、①外界の対象が存在しないということを知り、次に、②対象がナイからそれをとらえるものとしての心識もナイと知る。こうして、客体も自己も識が描き出した幻にすぎないと理解する。つまり、心の方から、主体の側から「空」の真理を明らかにしていく。「空」という観点がまずあって、それを理論的に展開するのが唯識思想。唯識観というのは、空を悟るための方法であって、そういう二段階で、「唯識」は一切が「空」であるという境地に達する、ってもののようです。 で、私としては、同じく「空」に達するんであれば、ニ段階論としては、①すべてのものをイチオウ外界の対象の中に収めたのち、②外界もナイという理解に達する、っていう方が、やっぱりスッキリするな。つまり、モノの方から、客体の側から「空」の真理を明らかにしていく。 そして、なぜ人は自己(やモノ)に固執するのかっていうところも、禅定やヨーガのような実践的・主体的経験、無想定・滅尽定などという体験からアーラヤ識の自覚に至る、というんではなくて、客観的・科学的に(たとえば進化論なんかから)、生物としての人間の造られ方、あり方から理解する、って方がスッキリする。個体の生死を越えて存続するものをアーラヤ識のような(やや神秘的な)ものに求めるんではなく、むしろ客観的な世界のあり方のほうに求めたい。(そんなんではキット、唯識の悟りの深みには至らないんでしょうけどね。) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ つまり、こういうことです。 唯識から行っても、唯物から行っても、最後は似たような?『空』に行き着くことが、もしかしたらできるんではないか。てゆうか、どうも唯物からも空に行き着いちゃうんだよね、これが。 ・ 『唯識』→『空』 仏教の唯識では、『唯識』ということが中心主張なのではなくて、『空』という概念を説明し理解するための方法論として『唯識』がある(らしい)。つまりホントは『空』というのが言いたいことで、『唯識』っていうのはそのための方便みたいなもん。 ・ 『唯物』→『空』 科学的な世界観では、方法論としては、『唯物』をまずはとりあえず仮定して世界をみていくことにする。でも、そういう発想で世界をどこまでも極めていくと、最終的には『物的実在』というようなものは結局みえなくなってきて、結局は『空』に行き着く! (上記の『科学的世界観の帰結』って、唯識や中観の『空』とかなり似てません?) そして、『唯識』が言う、人間の”生への執着”みたいなもんも、進化生物学の発想で理解していく。 ⇒ 086 進化の過程を生き延びてきた生物としての人という発想 088 もう少し説明 科学の分別知でも、分別知という限度内では、それなりに縁起・無自性や空に達することができそう。(もちろん、涅槃や無分別知はムリなんでしょうが。)
by nbsakurai
| 2005-12-26 23:00
| エリア7 (「空」・「唯識」)
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