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2004年 09月 22日
『認識と超越<唯識>』 仏教の思想 (4) 角川文庫ソフィア
服部 正明 , 上山 春平 (著) 有部、中観、唯識という大乗の大きな三つの思想の係り方が、だいぶわかっってきた・・・、ような気は私にもしてきました。 「歴史的展開」 先に述べたアバウトなインド仏教の歴史に付け加えるなら、「唯識」という観点から見ると、「唯識」は、「般若経」や「中観」の「空」の思想を前提として形成されたというだけではなく、「如来蔵思想」の流れも汲み、「経量部」の発想も受継いでいる、ってことのようです。 P346 まず釈尊の教えをまとめた原始仏教が成立し、そのあと、BC三世紀ころから小乗(部派)仏教の哲学であるアビダルマ論がつくられる。紀元一世紀前後から空の思想を説く大乗仏教が起こり、その思想を体系化したナーガールジュナ(龍樹)の中観派がニ、三世紀ころに形成されるが、アビダルマ論の流れは廃れることなく、ヴァスバンドゥ(世親)の『具舎論』のような重要な著作がつくられた。唯識論は、紀元四、五世紀ころ、マイトーレーヤ(彌勒)とヴァスバンドゥによって確立された。つまりアビダルマと中観の二つの流れを統合する形で、唯識の哲学が生まれたのである。 「中観」は、「有」と「空」というように、存在論的な視点から理論を展開して、価値論は表面に現れない。(実在論に対する)一種の批判哲学で、独自の構成的な理論を持たず、世界観を立てない。「唯識」は日常性の立場を執着・汚れとして、それに対して清浄を際立たせる。煩悩・業という世界観の構築があり、学問体系をなしている。価値論があり、それを実現するための実践論がある。 唯識思想は、説一切有部、経量部、中観の後に出てきて、非常に包括的なものになった。インドの仏教思想もしくは仏教理論の集大成で、最高の理論的達成であり、仏教思想のもっとも成熟した姿を示すものである。インドでは仏教理論が、唯識思想で頂点に達した。そして、唯識を理論的に乗り越えるものは、その後、出てきていない、ということのようです。 「唯識」はそれから、二つの流れに分裂していく。 ・ 経量部と組んでいくもの、有形象唯識論、経量ユガ派、表象主義的認識論、心理現象の分析に重きをおく、哲学的傾向、認識論的考察、論理学、精緻な理論的展開 ・ 中観と組んでいくもの、無形象唯識論、中観ユガ派、ユガ行中観派、ユガ唯識派、開示される法界・真如の遍満性を強調する、宗教的傾向、空の思想を背景にする唯識思想、実践 私が先に述べた「唯識」っていうのは、どうやら後者の方のようです。 で、「唯識」後には「密教」が出てきて、最終的には、仏教はインドでは衰退してしまう。 「唯識」の意味 真にアルのはただ「非実在の仮構」という原理としてのアーラヤ識のみで、描き出される世界はただ表象にすぎない。すべてのものは心識の所産であり、生滅する心の流れが自ら生み出した表象である。ただ表象があるのみで、外界の存在物はナイ。「この世のすべては唯識である」と知ることによって、識の描き出す仮構の世界、夢の世界を超越しようとする実践的関心が、唯識の理論の背景をなしている。 「アーラヤ識」 人間存在の基底をなしている非存在の仮構。表象が外界の存在を待つことなしに形成されることを説明する原理。空を自覚せず、実在しない主観と客観を構想してしまう原理。 潜在意識であるアーラヤ識から、他の七つの現勢的な識が生じる。認識の主体も客体もアーラヤ識から生じる。自我意識(マナ識)はアーラヤ識から生じる。アーラヤ(住居)の中に種子として、実在しない自己を仮構する余習が保持されており、それが現勢化したものが自我意識。他の六識もアーラヤ識の中におかれた種子から生じる、とする。 P162 アーラヤ識の存在を認める理由として、無想定・滅尽定などの体験がしばしばあげられる。定を修めて心の動きを静止したとき、一時的に煩悩がおこらない境地がひらかれるが、定から立てば煩悩は再び生じてくる。現象的存在が空であることを知り、光り輝く心を得ようとする宗教的主体にとって、煩悩は単に偶然的なものというのはあまりにも根深く、執拗である。つねに心の輝きをおおい、空の真理を見失わせる煩悩は、深く人間存在の根底に巣くい、それ自体の根拠をもっていると考えられる。こうして、煩悩である現勢的な六識の根底に存在するアーラや識が自覚された。 「実践」 「唯識」思想は、実践的傾向が強い。誤った理解をもつ人たちに、自我とモノに実在性がないということ(ニ空)を正しく理解するようにする、というのが唯識の根本原理で、アーラヤ識を根拠とする現勢的な識が描き出す世界は煩悩の世界であって、その世界を超えることを意図している。自我の実在性に固執することによって煩悩障が生じ、モノの実在性に固執することによって所知障が生じるので、それを断って、菩提(悟り)と涅槃(解脱)を得させる。唯識の思想体系はユガ行、ヨーガの実践と深い関連をもっていて、ユガ行の実践によって煩悩障と所知障とを断滅する菩薩の修行道を説くのが唯識である。止観を骨格とするユガ行が、人を仏の体験の追体験、教えに関する正しい方法の実践に導くところに、ユガ唯識派の学説の根本がある。 ヨーガの実践は、唯識の理解にとって重要な意味を持っている。通常の経験的認識の地平を超えた超世間的認識、絶対知を見出すべきことを強調する学説が唯識であり、唯識思想体系の理解そのものが、ユガ行である。ヨーガに関する深い体験がなくては唯識は理解できない。ユガ行の実践抜きで唯識がわかるはずがない。 「空」 外界の対象であるかのように認識されるものは、実は識の内部にある表象である。そのことを理解し修習しても、それだけではまだ、唯識の真理を知ったことにはならない。外界の対象は存在しないと考える自己そのものが否定されない限り、理論的・実践的知識は煩悩に他ならない。自我意識が否定されつくして、主観と客体の二元性を離れた、超世間的知識、絶対知に至ることが必要である。仏教では、原始仏教以来、人間存在は諸種の構成要素の集まりと見なされ、それ以外に恒常不変の自己(アートマン)があるという見解は否定されている。 ①すべてのものをイチオウ識の中に収めとったのちに、②識もナイという理解に達する。まず、①外界の対象が存在しないということを知り、次に、②対象がナイからそれをとらえるものとしての心識もナイと知る。こうして、客体も自己も識が描き出した幻にすぎないと理解する。つまり、心の方から、主体の側から「空」の真理を明らかにしていく。「空」という観点がまずあって、それを理論的に展開するのが唯識思想。唯識観というのは、空を悟るための方法であって、そういう二段階で、「唯識」は一切が「空」であるという境地に達する、ってもののようです。 で、私としては、同じく「空」に達するんであれば、ニ段階論としては、①すべてのものをイチオウ外界の対象の中に収めたのち、②外界もナイという理解に達する、っていう方が、やっぱりスッキリするな。つまり、モノの方から、客体の側から「空」の真理を明らかにしていく。そして、なぜ人は自己(やモノ)に固執するのかっていうところも、禅定やヨーガのような実践的・主体的経験、無想定・滅尽定などという体験からアーラヤ識の自覚に至る、というんではなくて、客観的・科学的に(たとえば進化論なんかから)、生物としての人間の造られ方、あり方から理解する、って方がスッキリする。個体の生死を越えて存続するものをアーラヤ識のような(やや神秘的な)ものに求めるんではなく、むしろ客観的な世界のあり方のほうに求めたい。(そんなんではキット、唯識の悟りの深みには至らないんでしょうけどね。) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ それにしても、ここにきて仏教関係の本を3.5冊も読むことになろうとは・・・。 キリスト教やユダヤ教やイスラム教は、ほんのチョコットだけかじってみたことはあるんですが、仏教はこれが初めてです。いずれにしても、宗教は私には特にタイヘン。 中観と唯識だけではなく、原始仏教やアビダルマの存在の分析なんかも、もう少し知りたいとチョッピリは思ったりする。それに、中国や日本でのその後の展開なんかも・・・。でも、この「仏教の思想」シリーズの、残り十巻をゼンブ読むってのはかなりシンドイ。全体の整理のため、せめて『仏教「超」入門』でも、そのうち読んでみようかな。 「科学」からは、ずいぶんと離れてしまいましたねぇ。思えば遠くへ来たもんだ、・・・って感じがします。
by nbsakurai
| 2004-09-22 15:38
| エリア7 (「空」・「唯識」)
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