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2005年 09月 24日
『シリーズ心の哲学〈Ⅱ〉 ロボット篇』 信原 幸弘 (編集) 勁草書房
『 第四章 拡張する心 ―― 環境-内-存在としての認知活動 』 染谷昌義 P175 >「これまでに認知の科学は、身体から切り離された知について、つまり世界から切り離された純粋な知について研究する傾向があった。今こそ、このようなアプローチに疑問を呈するとき、願わくは純粋理性批判を行うときである。人間は物理的世界の中でこそ機能する。私たちは物理的世界や他者を、情報源として、記憶を留めるものとして、そしてより普遍的には知的システムや推論システムを拡張するものとして使用している。人々は一種の分散された知として機能しているのだ。知的行動の大部分は、心的プロセスと、世界に存在する事物やさまざまな制約とのインタラクションの結果として生じ、また他者と共同するというプロセスを通じて行われるのである」(Norman,1993、邦訳199頁) 『 第五章 存在の具体性 ―― 世界内存在と認知 』 河野哲也 P223 「心とは何であるか」と問うことは、「自分はいかなる存在か」と問うことと直接つながってくる。現在の私たちは、心について次のような想定をしていないだろうか。 (1)個体内主義 心はひとりがひとりずつ持っているものであり、それは個体の内部、とりわけ脳の中に存在する。 (2)心の非立脚性 ちょうど、どのハードウェアに載せるのかという問題とは独立してコンピュータ・ソフトウェアについて論じられるように、心を考える場合にも身体やそれをとりかこむ環境についてはさしあたり考慮する必要はない。 (3)「中央参謀本部」理論 心は、行動を制御する脳の神経生理的過程のことである。それは、感覚器官から外界に関する情報をひきこみ、出力系をつうじて身体のすみずみまで指令をゆきわたらせてゆく「中央参謀本部」のようなはらたきをする。 (4)心のカテゴリーの自然性 心のカテゴリー(知能、動機、記憶、感情など、心に関する分類)は、生物学的・生理学的にあたえられたものであり、循環機能や呼吸機能のように生得的で自然な働きである。 以上のような前提は、二十世紀後半の心の科学(心理学、認知科学など)や心の哲学においてひろく共有されていた。 二十世紀後半の心理学の流れは、しばしば、行動主義から認知主義への移行として解説される。古典的な行動主義は、人間の行動を刺激と反応の結果として記述し、行動へといたるまでの内的なメカニズムを説明することを拒否してきた。これに対して1960年代から台頭してきた認知主義は、行為者の内部に生じている認知過程に眼を向ける。心とは行動そのものではなく、その原因となっているさまざまな内的過程(表象、計算、記憶・想起、連合、推論、解釈などの認知過程と、動機や欲求などの運動触発過程)のことである。この内的過程は、ある人たちによれば、脳の神経生理学的過程を究明することであきらかになる。心とはすなわち脳のことであり、脳の仕組みを解明することが心を解明することである。また、ほかの人たちはコンピュータ科学と手をくんで、記号処理システムとして心を理解しようとする。これらいずれの場合でも、認知主義の立場にに立つ人たちは、自覚的あるいは暗黙のうちに、1から4のような心の特徴づけをうけいれてきたと言える。 しかし、私はこれらの前提はすべて誤っていると思う。これに抗して、本論で主張したいことは次のことである。 (1)世界内存在としての心 脳内の過程としての「心」、中枢過程としての「心」は、身体に埋め込まれ、環境に立脚した世界内存在である。 (2)心と身体・環境の交換可能性 行為という出来事(事象)を中心にして考えたとき、身体も環境も「心(脳)」も、行為の制御において等価な役割をはたしうる。よって、「心(脳)」と、身体の物理的特性・道具の使用・環境の特性・社会制度などは交換可能である。 (3)心のカテゴリーの社会的実践性 心のはたらきは、自然の所与ではなく、社会的実践(政治的、教育的、経済的、宗教的など)文脈によってかたちづくられたものである。科学的対象が工学的なセッティングによって操作的に構成されるように、心カテゴリーも社会実践的なセッティングの中で操作的に生成されてきたものである。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ P229 またもうひとつ指摘しておくべきことは、かりに心が身体活動を制御するものだとしても、それはすでに一定の身体の存在を前提としており、それから独立した制御などありえないということである。心は身体活動の何を制御するようにプログラムされているのだろうか。(*中略*) 材質、サイズ、モルフォロジー(*nb注:身体の形状)、内部構造などの身体的特性や組成については、心は何の制御も行っていない。それらは、肉体そのもののなかにあらかじめ組みこまれている。それどころか、心が行う制御なるものは、身体の特性や組成が環境に対して一定の効果を持っていることを最初から前提としている。心という制御プログラムは、肉体のヴォキャブラリーによって書かれているのである。 P231 現象学者のメルロ=ポンティによれば、道具の使用はまさしく外界の事物をおのれの身体の一部としてとりこんでゆくことである。たとえば、私たちはテニス・ラケットでボールを打つと、ボールの感触を手のひらではなく、ラケットの面のある部分に感じる。紙に字を書くときには、紙のすべり具合を指先ではなく鉛筆の先に感じ、杖をついて歩くときには杖の先に地面の凸凹を感じる。道具は身体を拡大し、運動能力のみならず知覚能力も延長する。身体は棒状にばかり延長するのではない。ちょうどドアを通りすぎるのに自分の体の幅を測る必要がないのと同じように、自動車を運転するのに慣れた人は、せまい小道を通過できるかどうか判断するのに車の横幅を測定する必要はない。そのとき私たちの身体は、自動車の大きさまでに膨れあがっている。 P232 身体のサイズやモルフォロジーがうまく環境に適応していると、心のはたらきを削減することができた。同様に、道具の使用は心のはたらきの肩代わりをする。というよりも、その逆に、「心のはたらき」と呼ばれているものの多くが、道具なしには実現不能になっている。 P234 こころと道具は外的に関係しているのではない。道具はあきらかに心のはたらきの一部を担っている。というよりも、その逆が正しい。つまり、個人の「心のはたらき」なるものの多くは、実際には、道具や身体も含めた計算システムなり、書記システムなり、認識システムなりに組み込まれ、その一部をなしている。心は身体や道具のなかに埋め込まれており、どこまでが心のはたらきで、どこまでが身体や道具のはたらきであるとははっきり線が引けないような全体的行為システムを形成している。 P235 生態学的心理学では、心をつねに環境(状況)に立脚したものとしてとらえる。そこでは、生態学的ニッチとの相関関係によって動物の行動を説明しようとする。ニッチとは、生物種の生存や行動を可能にするような環境のことである。世界には歩いたり走ったりする地面があり、泳ぐための池、湖、川、海があり、飛行したり跳んだりする空間がある。これらの環境の特性は動物の移動を可能にしている。あるいは、穴や洞窟のような避難場所や隠れ家があり、巣や小屋をつくるためのさまざまな材料がある。また世界にはさまざまな食物があり、それを獲得するさまざまな仕方がある。食物は動物の存在を可能にしている。ギブソンによれば、「ニッチは、動物がどこに住んでいるかより、いかに住むかにより多く関係している」。生態学的ニッチがなければ動物の行動はなりたたない。動物の行動を、環境におけるその対応物から独立に論じることは無意味である。 生物学的ニッチは、それぞれ個別の特徴を持っている。動物もまた、特定の生態学的ニッチに適応することで生存している。したがって、普遍的な生態学的ニッチなるものが存在しないように、動物にも普遍的な動物などは存在しないし、普遍的な行動も存在しない。動物はつねに特定の環境に住んでおり、動物の行動もつねに特定の環境で実行される。行為はつねに局所的である。エージェントの行動は、本質的に環境(状況)に立脚したものであり、したがって、非普遍的である。生態学的ニッチの概念はこれらのことを含意している。 前出のファイファーとシャイアーは、以上のようなニッチの概念をロボットの設計にも適応する。ロボットも一定の特徴を持った環境に適応しなければならないかぎり、その行動は非普遍的でなければならない。この点で、ロボットの行動は、普遍的で汎用的とされるコンピュータ上での計算とはきわめて対照的である。 P237 ある環境に適するような身体の材質、サイズ、モルフォロジーを持つということは、ほかの環境には適さない身体を持つということでもある。汎用的なコンピュータ・アルゴリズムなるものは存在しえても、汎用的な身体などありえない。 P253 このように、記憶も知能も、すぐれて社会実践的なセッティングのなかで生まれてきたカテゴリーであり、消化機能のように自然がそのままのかたちであたえてくれたものではない。先に私たちは、「計算」とよばれている能力が筆記具や計算機の存在を前提としていること、また、「知る」という能力が科学・工学的なセッティングを前提としていることを見た。そのとき私たちは、心のはたらきが道具という物理的な存在を必要としていることを強調したかったのだが、それと同時に、それらの能力が社会実践的なカテゴリーであることも意味している。ヴィットゲンシュタイン派の社会学者のクルターは、感情について同じ趣旨の主張をしている。「たとえば、悲嘆と無念の違い、失望と残念の違いはどこにあるのか。内的な感覚や気分の状態は、むしろ同じである。その違いは、社会的世界において応答し反応し評価するしかたの違いであり、状況の違いにほかならない。」 (*注) 以下、項を改める。 ⇒ 『中央参謀本部としての心』
by nbsakurai
| 2005-09-24 17:35
| エリア5 (様々な発想)
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Tracked
from スキマ・スケッチと砂の像
at 2007-03-31 15:00
タイトル : 世界内存在
覚醒しているとき、人は世界の外に存在している。 それは世界から疎外されたハードボイルドな状態。 眠っているとき、人は世界の内に存在している。 それは踊る自分を中心に世界がまわる幸せな状態。...... more
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