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2005年 10月 23日
『身体化された心』―― 仏教思想からのエナクティブ・アプローチ
フランシスコ ヴァレラ、エレノア ロッシュ、エヴァン トンプソン、田中 靖夫 工作舎 P347 まず、心が瞬間ごとに行っていること、その落ち着かない、絶えざる執着を正しいやり方でみることを始める。これによりその常習的なパターンの自動性を一部断つことが可能になり、それがより深い三昧に至り、現実のいかなる経験にも、自己がないことを悟りはじめる。そこで当惑するかもしれないし、他の極端へ揺れて落胆するかもしれない。本章のはじめにみた、ニヒリズムへの哲学的逃避は、ある心理学的プロセスの裏返しである。執着する行動様式がごく強くて根深いために、確固たる基盤がないとなると、完全な喪失つまり絶望のどん底に陥ってしまうのだ。 しかし、修行を続けるうちに、学徒の心はさらにゆったりとしてアウェアネス(覚)へ深まり、暖かさと抱擁感に満ちた感覚が現れだす。自己利益に腐心するストリート・ファイターの心構えはどこかへ解き放たれ、他者への関心に置き換わる。どんなに否定的な態度であっても、他者志向的になっていて、家族や友人のような人々に対して暖かな気持ちになっている。親愛発生法のような様々な黙想修行が三昧/覚伝統において奨励されているのは、より公正な暖かさの感覚を育成するためである。無根拠性(空)の大悟は暖かさなくして起こりえないと言われる。 このために、空としての無根拠性に中心的に関わるものとして紹介してきた大乗仏教の伝統には、同じくらい重要で相補的な慈悲という概念がある。実は、ほとんどの伝統的な大乗仏教の教えでは、無根拠性から始めず、むしろ感覚ある存在物すべてへの慈悲を養うことから始めるのである。例えば、ナーガルジュナは、大乗の教えは「空と慈悲を本質とする」とある著作で述べている。この陳述は、空は慈悲に満ちていると簡潔に言換えられるときもある。 したがって、空(自己にも他者にも、それらの間にも固定された基準点や根拠がないこと)は、コインの裏表や鳥の両翼のように、慈悲から分かちえないと言われる。この見解によれば、われわれの自然な衝動はある種の慈悲なのだが、通りすぎる雲によって太陽が見えなくなるように、自我に固執する習慣によってみえなくされているのだという。 しかし、これで終わりというのではない。ある伝統には、縁起の空、すなわちありのままの空を越えてはじめて理解されるように進んだ段階があるからだ。これまで、われわれは、主に否定的なことば(「無」自己、「無」自我性、「無い」世界、「無」根拠性)によって悟りの内容を語ってきた。実は、世界の仏教徒の大多数は、否定的なことばでその深奥の関心を語らない。上記の否定的な表現は予備的なもので、執着の常習的なパターンを取り除くのに必要であり、この上なく重要ではあるが、肯定的にこそ考えるべき状態を悟るためのものなのだ。西洋世界(例えば、キリスト教圏)は、たぶん西洋伝統にあるニヒリズムを論じるための方法として、仏教の否定的な側面と対話することを歓迎するが、やがて(ときには意識的に)仏教徒の肯定的な面を無視しようとするのである。 確かに、仏教徒の肯定(解脱)は脅威である。何の根拠もないし、どんな根拠、基準点、自我感覚の焦点としても把握できないからだ。それは存在するとも存在しないとも言えない。心や概念化プロセスの対象にもなりえない。見ることも、聞くことも、考えることもできない。盲人の視覚、空に咲く花といった伝統的なイメージがあるだけだ。概念的な心がそれをつかもうとしても、何もみつからないので、空のようにそれを体験する。それは直接的に(しかもそれだけで)知られうる。ブッダの本質、無心、原初の心、絶対的な菩薩、叡智の心、武将の心、すべての善性、大いなる完成、心によって創りえないもの、自然性ともそれは呼ばれる。それは寸毫も日常世界から異ならず、無条件の至高状態として自然に発露されること、身体としてあることが無条件の、怖れなき、自発的な慈悲なのである。「理屈を求める心がもはや固執することも執着することもないとき……人はもって生まれた叡智に目覚め、慈悲のエネルギーが嘘偽りなく生起する」。 無条件の慈悲とは何か。われわれは、仏教徒のより世俗的な視点から慈悲が発展することを跡づけ、考察する必要がある。他者への慈悲心が芽生える可能性はあらゆる人間に存在しているが、自我の感覚に混在するのが常なので、承認や自己評価への渇望を満たそうとする欲求と混ざってしまう。人が常習的なパターンにとらわれていないとき(宿業の因果から意思行動をしていないとき)に生起する自発的な慈悲は見返りを求めない。行動に緊張と阻害が生じるのは、見返りを気にするからである。損得勘定なく行動するときには、リラックスした感じが伴う。至高の(超越した)寛大さ(大慈大悲)と呼ばれるものである。 以上のことが抽象的に思われる読者には簡単な練習問題がある。われわれは本書のような書籍を漠とした目的意識をもって読む。そこで、君がこれを読んでいるのは他者を利するだけのためである、としばし想像してみよう。この読書作業への感じ方が一変するのではないか。 慈悲の視点から叡智について論じるときに頻用されるサンスクリット語は、bodhicitta(菩提心)であり、「悟った心」、「解脱の心」とか単に「目覚めた心」というように様々に訳されてきた。菩提心には絶対的と相対的という二つの側面があると言われる。絶対的な菩提心とは、所定の仏教伝統において、究極的(根源的)と考えられるあらゆる状態、空の無根拠性の経験や(肯定的に定義される)自然な覚醒状態そのものの突然の輝きなどに適用されることばである。相対的な菩提心とは、純粋体験から生じ、素朴な同情を超えた他者への至福の関心として出現する(と修行者が報告する)現象世界への根源的な暖かさである。上記の経験を記述した順序とは逆に、この世界に対する疑いなき暖かさの感覚が発展すると絶対的な菩提心が閃く体験につながると言われている。 仏教徒が上記の事柄(三昧でさえ)同時に悟るわけではないことは明らかである。彼らは、更なる精進を促す心の閃きをとらえるのだ、と報じている。最も重要な段階の一つは、自我―自己に自らが執着することに対し、慈悲心を育むことである。この心構えの背後にあるのは、自らの執着性に対峙することが自分自身に対する親密な行為であるという考え方である。この親密さが醸成されるにつれ、アウェアネスと周囲の人々に対する関心も同じように拡大する。より開かれた自我中心でない慈悲を心に宿せるのはこのときである。 常習的なパターンの意思作用からは生起しない、自発的な慈悲のもう一つの特徴は、それがいかなる規律にも従わないということである。倫理綱領や、まして実践的な道徳律から派生するのではなく、特定の状況の求めに応答するものなのである。ナーガルジュナによると、この応答性の態度は、、 >文法学者が文法を学ばせるように、ブッダは弟子たちの辛抱強さに応じて説法する。罪を断つことを説くものもいれば、善をなすことを教えるものもいる。あるものには二元論を、他のものには非二元論を諭す。そして、あるものには、深遠で、おそろしいほどの悟りの実践を説くが、その本質は慈悲である空なのだ。
by nbsakurai
| 2005-10-23 18:48
| エリア7 (「空」・「唯識」)
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from ヴィパッサナー通信 Vi..
at 2005-11-28 17:14
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