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2005年 11月 06日
『脳から心へ』 ―― 心の進化の生物学
G・M・エーデルマン 金子隆芳 新曜社 P274 このような考え方のもとには物理的記号系仮説というのがあって、ほとんどの人工知能研究の基礎になっている。この仮説は認知機能は規則に従った記号操作によって行なわれるとする。物理的な記号系では、記号は物理的実体の状態としてプログラムによって事例化される。感覚インプット、カテゴリー、行動、記憶、論理命題など、シズテムがかかわるあらゆる情報を表すために記号のストリングが使用される。インプット記号のストリングをアウトプット記号のストリングに変換する操作が計算である。そして物理的記号系仮説によれば、うまくプログラムされていれば、それはいかなるチューリング・マシンによっても実行される。この操作は純粋に形式的で、その記号の意味に関係なく行なわれる。 P276 なぜこの立場がだめなのか。理由はたくさんある。 P277 さてこの機能主義の息の根を止めようとしているのが、脳の進化、発達、構造論であり、今や脳がチューリング・マシンだとはとうてい言えなくなってきている。脳にはたくさんの組織水準にきわめて多くの個体的構造変異がある(3章)。脳の発達を見れば、脳はそれぞれ高度に変異的である。 P277 もっと打撃なのは、生態的環境的変動の分析や、動物と人間のカテゴリー化手続き(つぎの節で述べる)の分析からみても、世界(物理的社会的)はチューリング・マシンのテープではないということである。(中略) 環境との関係なしに個体の概念や信念はわからない。脳と神経系は世界状態と社会関係とから孤立してはあり得ない。しかるに環境的社会的状態は不確定であり、開放系である。ソフトウェアで簡単に記述できるものではない。 P278 彼の議論は人間のような高次の意識についてのものであるが、コンピュータ・プログラムは厳密に形式的なシンタクスによって定義されるということ、シンタクスはセマンティクスにはなり得ないということ、しかるに人間の心は意味内容がその特徴であること、などにある。セマンティクス(意味論)は意味を含むが、シンタクスは意味とは関係がない。この立場の機能主義批判は明快である。さらにサールによれば、人間の意識は志向と同じであり、志向が主観的体験を必然的に伴うならば、主観的体験のないいかなる生物も志向性を有しない。コンピュータにはそのような体験はない。 P278 そのような環境は開放系であるから、それはアルゴリズムの手続きによるいかなるアプリオリな事前の包含的な記述もありえない。さらに本書でわれわれは話し手の実際の身体が意味を決定するのに等しく大きな役割をはたしているということも見てきた。 P279 デジタル・コンピューターは脳の安易なアナロジーである。それが破綻する理由は今や明らかとなった。チューリング・マシンが読むテープは一つの有限の組から選ばれた記号で一義的にマークされている。反対に、神経系にくる感覚信号は本質的にアナログ量であり、一義的でもなく、その数は有限でもない。チューリング・マシンは定義によって、内部状態は有限であるが、人間の神経系のとる状態には明らかな限界がない(たとえば神経結合における多数のシナプス強度のアナログ変調)。チューリング・マシンの状態変異は完全に決定論的であり、人間のそれはどう見ても非決定論的である。人間の体験はチューリング・マシンのような簡単な抽象にもとづいてはいない。われわれの「意味」はわれわれが社会のなかで成長し、コミュニケートしなければ獲得できない。 P280 コンピュータと違って、神経の反応パターンは環境との相互作用を通して淘汰されてきたものであるから、システムの個体史に依存する。異なる個体(神経系)間に、あるいは一個体でもその時間経過の中で、体験のちがいによる変異性がある。認知系における広範な個体変異(3章)は、表象が物理的事例化に無関係な意味を有するという機能主義の基本前提を覆すものである。こうして機能主義システムの金科玉条とする物理的事例化の独立性は、ある程度のレベルの認知行動になると成り立たない。(このことは機能主義のリベラリズムを放棄して、極端なショーヴィニズム、つまり認知には有機化学や生の組織などが絶対必要だという立場、をとるということではない。もしそうなら19章で述べたアーチファクトはつくりようがない。) 機能主義がどのような内部表現をとるにせよ、表象における個々のユニット(シンボルないしその一般化)とその結合の意味を規定する手続きが必要である。シンタクス的表象に意味を与え、しかもこれらの表象に機能主義の本質的部分であるところの任意性を保証するメカニズムがどのようにして造られるか、プログラマーなしに理解するのは難しい。しかしそれこそがわれわれの厳しい立場である。頭の中にはノー・プログラマー、ノー・ホムンクルスである。 P280 知覚や認知過程についての「コネクショニスト」あるいは「ニューラル・ネットワーム」のモデルの近年の多くの研究について言わないでは話が終わらない。これらは形式モデルで、ネットワーク素子のコネクションがシナプスと似たような形で変容する。これはニューロンのメタファとしてならよいが、事実論としては不自然なところがある。 P281 これらのモデルは分散的ネットワークであり、コネクションの変化は部分的には厳密なプログラムなしで生じる。それにもかかわらず、コネクショニスト・モデルはそのインプットとアウトプットを規定するためにはプログラマーもしくはオペレーターを必要とする。さらにそれを規定するためのアルゴリズムがある。システムは「経験」による変化を可能とするが、この「学習メカニズム」は教示的であり、淘汰的ではない。価値についてのカテゴリー化を行なう淘汰系と違って、コネクショニスト・システムの反応(価値にあらず)は事前に規定されており、適切な条件のもとに適切なエラー・フィードバックで訓練するために、人間のオペレーターによって組み込まれる。 P281 デジタル・コンピューターでもコネクショニスト・モデルでもよいが、どちらにも同じ困ったことがある。脳をチューリング・マシンとみても、脳のどのような状態と状態遷移の表があるのかわからない。インプット・テープの記号は不確定で、あらかじめ定まった意味はない。遷移規則があったとしても規則的には適用されないだろう。さらに現実の動物ではインプットとアウトプットを教える教師もプログラマーもいない。コンピュータと脳とのアナロジーは失敗であり、結局、なにも得るところはないのである。 P184 心とコンピューターのアナロジーは、多くの理由で失敗する。脳は雑多と変性の原理でできている。コンピューターと違って、脳には複製記憶がない。脳には歴史があり、価値で動く。それはプログラム・シンタクスによってではなく、いろいろなスケールで作用する内部基準と拘束によってカテゴリーを形成する。脳が交互作用する世界は、古典的カテゴリーによっていっぺんの曖昧さもなしにでき上がっているような類のものではない。 ➡️ 当Blog の総 括 https://nbsakurai.exblog.jp/i13/ の 補足3: 人工物による生命・意識の実現性の問題
by nbsakurai
| 2005-11-06 18:15
| エリア5 (様々な発想)
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