カテゴリ
全体 ★ ★ 総 括 ★ ★ ~ ~ ~ ~ ~ ~ 《 過去記事の目次 》 『科学的世界観』のBlog エリア1 (科学の周辺) エリア2 (客観Xと主観Y) エリア3 (ロボットの心) エリア4 (問題の所在) エリア5 (様々な発想) エリア6 (生物学的発想) エリア7 (「空」・「唯識」) エリア0 (Blog 総 括 ) ~ ~ ~ ~ ~ ~ ☆☆ 参 考 図 書 ☆☆ 検索
最新の記事
記事ランキング
最新のコメント
最新のトラックバック
タグ
ファン
ブログジャンル
|
2005年 12月 18日
『空の思想』―― 仏教における言葉と沈黙 梶山 雄一 人文書院
P72 したがって、『般若経』や『中論』がほんとうに云おうとしていることは、もしものが本質的存在として実在するならば、われわれがつねに経験している因果関係や生滅変化の世界が説明できなくなってしまう。だからものは本質的存在としてあるのではない。ものは本質的存在としては空である、ということなのである。「不生不滅の縁起」ということは、だから、すべてのものは本質的存在として生滅するのではなく、本質的存在の空なるものとして、夢や幻のようにあらわれ消えるのだ、ということである。 ここに本質的存在といったものは、本性とか本体とか実体とも呼ばれるが、羅什の漢訳では、「自性」であり、サンスクリット語では「スヴァバーヴァ」という。龍樹は『中論』第十五章でこの自性の吟味を行なっている。 > 自性が多くの原因や条件によって生ずるということはできない。原因や条件から生じた自性は作られたものとなってしまおう。(十五・一) けれども、自性がどうして作られたものであろうか。自性とは他のものに依存せず、作られることがないものであるから。(十五・ニ) もし自性として存在することがあるならば、それは無存在となることはないであろう。自性が変化することはけっしてありえないからである。(十五・八) もし自性がないならば変化というものは、なにものの変化であろうか。しかしもし自性があるとしても変化というものはなにものの変化であろうか。(十五・九) これらの龍樹の詩頌を通じてわれわれは自性つまり本質的存在を定義することができる。自性とは他のものによって作られたものでないから自立的存在である。それは決して変化せず、、生滅しないから恒常的存在である。そしてさきに紹介した因果関係の分析の中に見られるように、自性は部分をもたないから単一的存在である。したがって、龍樹のいう自性とは、自律、恒常、単一な実在のことであることがわかる。そしてこのような自性というものは実は概念の実体化されたものにすぎず、思惟とことばの世界以外にはどこにも存在しない。 いっぱんに、われわれの生活においてことばの占めている役割はあまりにも大きい。われわれは何かあるものを見たり、聞いたりしているときに、実は、そのものを見たり聞いたりしているのではなくて、そのことばの意味を見てしまっている。そしてことばの意味のもっている普遍性と恒常性をその対象に与えてしまう。われわれがものに愛着するのは、実はそのものをあらわすことばの普遍性と恒常性にとらわれるからである。人を見、机を見、村を見、町を見、都をみているとき、ひとはそれが昨日も今日も明日も変わらずに存在すると思い込んでいる。しかし、それはもとより事実ではない。 もしものに本質的存在性が固有のものとしてあるならば、一人の男がときには父と呼ばれ、ときには子として呼ばれることがどうして可能であろうか。毒が毒として固定しているならば、それがときとして薬として用いられることがどうして可能であろうか。常識の世界ではむしろそのような本質的存在性への思い込みから目覚めさせられる機会がまだしもある。しかし、ことばを実体化して構築された形而上学の世界に入り込んだ人は、本質的存在が真理であって、事実の世界とはたんに現象にすぎない、と考えてしまう。龍樹の時代にも、仏教のアビダルマ哲学をはじめとして、数種のことばの形而上学が盛んに行なわれていた。『般若経』も『中論』もそのような形而上学への執着を打ち破るためにかかれたものである。 P149 空の哲学を大成したナーガルジュナ(龍樹)が、すべてのものは空である、というのは、ものは本体をもたない、ということである。その場合の本体(自性)とは彼の定義によれば、自立的で恒常不変で単一な実体である。しかも現実に存在するものはすべて多くの原因や条件によって生じ、他のものと相対的にのみ存在するものであって、決して自立的ではない。したがって無常であり、複合的なものであるから恒常不変でも単一でもない。いいかえれば、本体とは事実の世界には決して見出されず、概念あるいはその実体化としてのみありうるものである。ものはすべて本体の空なるものであり、言葉のさし示す本体を離脱している。ナーガルジュナはこのような形でことばを批判し、迷いの世界の根拠からの解脱を示した。 P151 『般若経』やナーガルジュナは、あらゆるものは多くの因縁に依存して生起し存在しているから、本体をもたず、それ自体として有るわけでもなく、またまったく無いわけでもない、という空の真理を夢・幻に喩えた。夢・幻は事実としてあるのでもなく、見えている以上まったくの無でもないからである。あらゆる現象がわれわれの分別である本体を離れて空である、ということは、それが有でもなく無でもなく、あたかも夢・幻のようなあり方にある、ということである。 追記4: 自己という幻想 ・ 量子論と「空」
by nbsakurai
| 2005-12-18 15:26
| エリア7 (「空」・「唯識」)
|
Trackback
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||