『唯識の心理学』 岡野守也 青土社
P268
まず、本書執筆以前も以後も、かなりの数の禅の師家の方々などにお会いすることができ、よく考えればあたりまえのことだが、そこで確認したのは、深い覚りを開いたとされる人であっても、「外界からの知覚をまとまりのあるものとして認識し、さまざまな記憶をまとまりのあるものとして思い出し、思考し、意思決定をし、特定の立場や役割や所有権をもって行動する、特定の名前を持った主体」といった意味での<自我>はかならずある、ということである。そういう意味での<自我>なしには、どんな人でも日常生活を行うことはできない。「自我がない」という意味での<無我>になってしまったら、人間は正常な生活をすることはできないのである。もちろん、仏教の目指すものは、覚りといういわば「超正常」な人格のあり方であって、そうした社会不適応の「異常」な人格状態ではない。
さらに仏教の学びが深まるにつれて、原始仏教からインドの大乗仏教にかけて<無我>の本来の意味は、「自我が無い」ということではなく、あらゆるものが「実体ではない」という意味だった、ということに気づいた。<無我>と漢訳された言葉のサンスクリット語の原語は、カタカナ表記すると「アナートマン」で、「アートマン」に否定の接頭辞「ア」が付けられたものである。「アートマン」は、①他の力を借りずそれだけで存在することができる、②それ自体の変わることのない本性・本質を持っている、③永遠に存続する、という三つの性質を持ったものを意味し、西欧哲学の「実体」の意味とほぼ重なっている。したがって、「アナートマン」は「無我」というよりも「非我」であり、「非実体」と約すことが適切である、とインド学・仏教学の権威・故中村元先生なども言っておられる。
P270
もちろん、あらゆるものが実体ではないのだから、自我も実体ではないのだけれど、それは先に述べたような意味での人間の生活に不可欠な機能としての現象的な自我が無いとか、そういう意味での<自我>を無くして<無我>になることが仏教の目標だということではなかったのである。
ところが、従来、日本仏教の流れの中では、存在すべての無我性=非実体性=空性に目覚め、自己絶対化・自己中心性を克服した結果、不要なこだわりがなくなった、高度に成熟したパーソナリティの状態のことを<無我>と呼ぶことが多く、そのために本来の<無我>の意味が曖昧になり、<自我>と対立する意味での「無我になること」が仏教の目標であるかのように考えられ、語られてきたため、理論的にも実践的にも不毛な混乱があった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
【 現象的な自我 】… 外界からの知覚をまとまりのあるものとして認識し、さまざまな記憶をまとまりのあるものとして思い出し、思考し、意思決定をし、特定の立場や役割や所有権をもって行動する、特定の名前を持った主体
【 実体 】… 次の三つの性質を持ったもの
①他の力を借りずそれだけで存在することができる、②それ自体の変わることのない本性・本質を持っている、③永遠に存続する、
【 無我性 】… = 非実体性 = 空性
(自我も含めた)存在すべての無我性=非実体性=空性に目覚め、自己絶対化・自己中心性を克服した結果、不要なこだわりがなくなった、高度に成熟したパーソナリティの状態