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2006年 09月 02日
『自由は進化する』 ダニエル・C・デネット 山形浩生 NTT出版
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4757160127/ref=sr_11_1/503-7596531-4364769?ie=UTF8 本書はノッケから、次のようなちょっとインパクトのある、挑発的な一文で始まっている。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ P7 人間は責任を持つ存在で、自分の運命の主導者なのだけれど、それはわれわれの本質が実は魂だからだ、という人気のある考え方がある。魂というのは神様に属するなにやら非物質的な不死の代物で、それがいわば霊的な人形遣いみたいに、物質的な肉体に宿ってコントロールするのだそうな。すべてに意味をもたらすのは魂で、それが人間の苦悩、喜び、栄光と恥辱の核心なのだ、と。でも自然科学の進歩のおかげで、物理法則に縛られない非物質的な魂という発想は、もう説得力がなくなってしまった。多くの人は、これが実に恐ろしい意味合いを持つと考えている。これだと人は実は「自由意志」なんか持っていないことになるから、何がどうなってもお構いなしにということになる、と。本書の狙いは、なぜそういう考え方がまちがっているかを示すことだ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ところが中身を読んでみると、私にとってはむしろ穏当なことが書かれており、何か怖いもの見たさ、新奇なもの見たさというような欲求に、応えうるような内容が書かれているわけではない。 この著者については、別の本(たしか『解明される意識』)を、かつて読んだことがあるのだが、テツガクの業界用語、その筋の体裁や話の進め方に満ち満ちていて、私にはきわめて理解しにくく、途中で投げ出した、という記憶がある。何かとてつもなく深遠なことが書かれているような、そんな印象を残して。 この本にはそんなところはなく、著者の記述自体なのか翻訳者の力によるものなのか私には判断がつかないが、グッと砕けた文体になっており、取っ付きやすく分かりやすいという感触である。もちろん一読しただけで全部を理解できたというわけではないが、こんなふうに書かれていると、かつては極めて難解で深遠なことなのかと思っていたことが、実はこんなことだったのかと、何かちょっと拍子抜け、というような印象が残った。 私がこの本から読み取ったことは、次のようなことである。 ・ 「決定論」と、「不可避性」「自由の否定」「選択肢の不存在」「可能性の閉塞」「因果的必然性」は直結しない。それらは別の概念である。 ・ 「決定論」と「自由意志」は、違うレベルのものである。 ・ (物理学的な)決定論と、(行為者の)自由意志は両立する。 ・ 自由意志は、生物進化によって生じ、徐々に成長・発展、段階を踏んで高度化してきて、それはこれからも続く(だろう)。 しかしながらこの本は、 ・ 以上のようなことを、筋道立てて理路整然と述べた というよりも、むしろ、 ・ 著者のこういう主張に反対し、批判する者に対して、反論し、説明し、説得する というところに大きな力点が置かれているようである。 著者の主張にあまり違和感のない私としては、そういう反論部分にはあまり興味がないわけで、著者の主張の詳細について、順に本筋を追って理解したいという私の関心にとっては、それはむしろジャマ、という感じがした。 以下、自分の整理のため、要点と思われる部分を書き出しておくことにする。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 序 P3 その間、わたしは『自由の余地』のきっかけとなりそれを形成したパターンの例――社会科学と生命科学すべての理論化を歪めるとおぼしき隠れた魂胆――をどんどん見つけていった。まったくちがった分野で、まるでちがう手法や研究目的を持って仕事をしている人々が、ある二つの発想についてはまったく同じ形で内心こっそり嫌悪を抱いており、それが持つ意味合いから距離を置こうとしているのだ。その二つの発想とは、人間の意識が奇跡でも何でもない脳の働きの結果でしかないという発想と、脳の持つ能力だって他の自然の驚異と同じく進化してきたものだ、という発想だ。この見方を受け入れまいと必死になるあまり、科学者たちの足は引っ張られて、怪しげな絶対主義が魅力的に見えたり、簡単に乗り越えられるただの小さな溝を底知れぬ巨大な深遠だと重いこんだりするようになる。本書の狙いは、この恐怖に対抗しようと人々が構築した誤った防衛機構を明らかにして、それを解体し、われわれが大切だと思うものについてのもっといい基礎と置き換えることだ。 第1章 自然の自由 P38 人間や人間の心がどう進化してきたかという自然主義的な説明は、伝統的な自由意志の考え方を脅かすように思え、この見通しに対するおびえはこの問題に対する科学的・哲学的探求を歪めてきた。こうした自分自身についての新発見の危険を感じとった人々は、その発見を深刻な形で歪曲してきた。人間の起源に対する新たな知識が持つ意味は、落ち着いて検討すればそれが取って代わるべき神話よりも強力で賢いドクトリンを支持することになる。 第2章 決定論について考えるためのツール P38 決定論に関するわれわれの考えは幻想に歪められているけれど、これはおもちゃのモデル(nb注 ライフゲーム)を使って打ち破れる。そのモデルでは、単純な存在が進化して、危険を避け、自己複製を行なえるようになる、これが明らかにしてくれるのは、伝統的な決定論と不可避性の結びつきがまちがっていて、不可避性の概念は物理レベルに属するのではなく、設計レベルに属するんだということだ。 P41 決定論というのは、「どの瞬間にも可能な未来はたった一つしかない」というテーゼだ。別にさして難しい考え方じゃない、と思いがちだけれど、とてもきわめて深い思想家までこれをまるっきりまちがえるのには驚かされる。まず多くの論者は、決定論というのは不可避性を意味すると思っている。ちがうんだよ。次に、多くの人は「非」決定論――決定論の否定――が行為者たるわれわれに自由とか、動く余地とか、決定論的な宇宙では絶対の持てないものを与えてくれると思っている。これもちがう。第三に、決定論的な世界には本当の選択肢はなくて、選択肢みたいに見えるものがあるだけ、と思われている。これもちがうのだ。えーっ、ホントぉ? いまわたしは、自由意志論の核心すぎて絶対に疑問視されない三つの主題を否定した。読者の多くは、これが冗談か、何か面妖な意味合いでこれらの言葉を使っているんだろうと思うはずだ。いいや。こうしたテーゼが何の議論もなしに持ち出されるという、ありがちな無頓着ぶり自体が大まちがいだというのがわたしの主張だ。 P83 ・ 一部の決定論的世界には、害を避ける回避体がいる。 ・ だから一部の決定論世界では、あるものは回避される。 ・ 回避されるものはすべて、回避可能、つまり可避である。 ・ したがって決定論世界の一部では、すべてが不可避ではない。 ・ したがって決定論は不可避性を意味しない。 P92 決定論のおもちゃモデルは、「モノ」の可能な配置という「莫大」な空間で見ると、一部の配置は他のものより長生きすることを明らかにしてくれる。その長生きの理由は、そのモノたちが害を避けるように設計されているからだ。こうした存在が出現してくるプロセスは、環境から得た情報を使ってありそうな未来の一般的な(ときに個別の)特徴を予測し、情報に基づいた誘導を可能にしてくれる。これは可避性が決定論世界でも実現できることを証明している。つまりはよくある決定論と不可避性との直結はまちがっていることを示している。不可避性の概念は、その源となる概念の回避と同じく、設計レベルに属するものであって、物理レベルに属するものじゃない。 第3章 決定論について考える P92 因果関係と可能性の概念が、自由意思に関する不安の核心にある。分析によって、われわれの日常的な概念は、通常思われているような含意を持っていないことが示される。つまり決定論はわれわれの人生における可能性や因果律についての最も重要な考えに対し、何の脅威ももたらさないのだ。 P95 決定論は人の機会を奪い、過去にさかのぼる因果連鎖の編み目の中に運命を封じ込めてしまうようにみえる。人はたいていこの暗鬱な物の見方を無視している。物事が明日や来年こうなるかもしれないとか、あるいはあれさえこうだったなら事態はこうだったかもしれないのに、なんてことを考えるのにかなりの時間を費やす。つまりこの世界が決定論的ではないと想定しているらしい。 P139 可能性、必然性、因果律についての日常的な考え方は、決定論と矛盾するように見えるけれど、それは錯覚だ。われわれのやることはすべてそれ以外の選択肢はなかったとか、すべての事象に原因があるとか、われわれの性質は固定されているとかいったことを、決定論は意味しない。 第4章 リバータリアニズムの言い分を聞く P139 意思決定に関する野心的な非決定論的モデルを好意的に見てみると、その道を採用している理論化すべてが持っている動機と問題が明らかになる。リバータリアンたちが必要だと主張するものは、非決定論がなくてももたらせるし、非決定論は道徳的なちがいを生み出すような差をもたらさない。 P141 自由意志に関する従来の問題は、決定論が真なら、人間は自由意思を持たないという命題から始まっている。この命題は非両立性を表明したもので、たしかに最初はもっともらしく思える。長い時間をかけて真剣にこれを検討した人の多くが未だにこれを真実だと思っているので、これを全面的に否定している私のプロジェクトに戻る前に、この命題の試運転といこう。この命題の魅力と強み、弱みを見てやろう。 P142 この命題を文字通り受け入れるなら、命題の前半と後半のどっちにこだわるかによって、解釈が二通りに分かれる。 ・ 厳密な決定論 決定論が真なので、人は自由意思をもたない。(*以下、面白いんだけれど、略*) ・ リバータリアニズム 人は自由意思を持っているんだから、決定論は誤りであるはずだ。(*以下、同様に、略*) P194 リバータリアニズムの議論を極力好意的に検討してみたが、責任ある行為者の意思決定のプロセス内で非決定論を置くべき決定的な場所を見つけることはできなかった。定義要件を満たせない以上、非決定論のことはもう忘れて、自由についてのもっと現実的な要件と、その進化の経緯を検討することにしよう。 第5章 これほどの設計はどこから来たの? P194 40億年前、われわれの惑星に自由はなかった.そこには生命がなかったからだ。生命が誕生して以降、どんな種類の自由が進化してきたのだろう? そして進化上の理由――大自然の理由――がどう進化して人間の理由/理性になったんだろうか? P231 進化の過程自体を志向姿勢でとらえると、多細胞生物の設計にこめられた叡智もとてもよくわかる。この観点からなら非ゼロサムゲームでの協力という「選択」の浮遊する合理性を識別できる。こうした非ゼロサムゲームは、進化における研究開発プロセスを導いて洗練された理性的な行為者を産み、機会を認識して行動を起こす生物の能力を伸ばしたのだ。「遺伝子決定論」という見当違いの脅威に背を向けると、自然淘汰による進化がもっと大きな自由を与えてくれることがわかる。だがこれはまだ人間という行為者の自由ではない。 第6章 オープンな心の進化 P231 人間の文化は奇跡ではないし、遺伝子が自分の適応力を増すために提供したたんなる追加ツールでもない。人間が被創造物であると同時に文化の創造者でもあるということを理解するには、文化と人の社会性が生まれた何段階もの進化のプロセスをさぐる必要がある。 P266 人間文化へのダーウィン的なアプローチは、ヒトと、ヒトに近い親戚動物との大きなちがいの説明の概要を描き出せる。文化は進化の歴史での大きなイノベーションだ。それはホモ・サピエンスという種に新しく考えるネタを与えてくれるし、考えるための新しいツールも提供し、そして――メディアと文化は、遺伝的適応性とはまったく独立した適応性を持った、文化複製子という可能性を拓いてくれるので――それを検討する視点も提供してくれる。 第7章 道徳的行為の進化 P266 人間の道徳的な機能の基礎となる社会条件や個人の習慣や態度は、文化自体も自然選択による進化の制約に従わなくてはならないと認識している進化理論家からの分析が必要だし、またそれを受けるようになりつつある。一部の評論家によるおっかない警告にもかかわらず、このアプローチは道徳の理想をひっくり返したりしない。とても必要とされていた支持をもたらしてくれるのだ。 P304 言語と文化を持つ種の社会生活における複雑性は、人間の道徳性の主要部分を備えた行為者が生み出されるような、進化的軍拡競争をいろいろ作り出す。協力が生じる条件を見つけようという関心、罰や脅しに対する感度、評判への関心、誘惑に直面した時に自己抑制を増すような高次の自己誘導方針、他に人にわかるような約束をする能力などが、そうした道徳性の主要部分だ。こうしたイノベーションは、ある具体的な条件の下で花開くのだが、その条件自体もそのイノベーションと共進化するものだ。やがてそうしたイノベーションは、もっと単純なニッチに住む単純な近視眼的な「利己性」にとってかわるようになる。 第8章 あなたはカヤの外ですか? P304 人間行為者というのが、進化の力で形成された多様な競合利害の群れでしかない、という見方が台頭しつつあるが、これは意識を持った自我や魂や自身という伝統的な感覚とはなかなか折り合いがつきにくい。伝統的な見方では、そうした自我などが、心の中の私的な聖域から発する自由な決定を通じ、志向的な行動を意図することになっているのだから。この緊張関係は、議論の多い――そしてしばしば誤解されている――ベンジャミン・リベットの実験でうまく示されており、脳内のプロセスから自己というものがどうやって生じるかをもっと詳しく見れば解決できる。こうした自己と脳に関するよくあるまちがいを正すと、自由意志の見通しに関する一部で人気の出てきた暗い結論もつぶせる。 P338 意識の流れの中にウソの信念の根拠となるものをこっそり混ぜたら、実際にはあなたが思考を操っているのに、相手は自分が「自由な」意志決定をしていると思いこめる。この基本技術は、もう何世紀にもわたって手品師たちには知られていた。最近の手品師たちはこれを心理学的強制と呼んでいて、上手な人がやると驚くほど効果がある。こちらの思い通りに被害者の決断を誘導してもその決断は当人に任されていると各種の方法で思いこませると、その人はコロッとだまされる。あるいは別方向にだまして、自分自身による意志決定でも、自分のせいじゃないと思い込ませることもできる。 P355 人が意志決定を行なうのは、いつ、どこでのことだろう? 人の意識的な意志決定を細かく見ると、時間的な厳密性を追求しようとしたらそれが崩壊して、孤立した無力な自己という幻想が生み出されることがわかる。意志決定の作業が脳内で時間的にも空間的にも広がりを持って分布しているんだということを認識すれば、自己の力も復活するし、道徳的責任の可能性も生まれる。 第9章 自分で自分を自由へと引き上げる P355 自律性の前提としては何が必要だろうか、そしてその要件は本当に満たせるんだろうか? 道徳的な行為者となるには、自分自身の理由にしたがって行動できる必要があるけれども、でもわれわれの理由づけ能力はよく言っても不完全だ。人はまともな道徳的行為者としての自負を保てるくらいの合理性を持っているんだろうか。そしてもしそうなら、どうすればそこにたどりつめるんだろうか。 P398 人間文化は、ものごとの理由をつかまえて、それを自分自身の理性に組み込めるだけの力を持った心の進化を支援してきた。人は完全に合理的な行為者ではないが、われわれが暮らす社会領域は、ダイナミックな相互作用のプロセスを保持し続け、それは人の理性の更新と承認を必要とし、可能にしてくれることで、われわれが自分の行為に責任をとれる行為者になれるようにしてくれる。人の自律性は、因果関係の奇跡的な宙づりなんか不要で、教育と知識の相互共有のプロセスが正真な形で行なわれることにかかっているのだ。 第10章 人に自由の未来 P398 自由への真の脅威は、形而上学的なものではなく、政治/社会的なものだ。人間の意志決定の条件について知識が増えると、新しい統治や法の体系を考案し、みんなでそれに同意しなくてはならない。そうした統治や法体系は、人間の本性についてにせの神話にとらわれたりせず、新しい科学的発見と技術進歩に直面しても堅牢でなくてはならない。人は、自分で望んだ以上に自由になりすぎたんだろうか? 人はいまや、自分自身や子孫がどんな生活を送るかという条件を作り出す能力を、これまでにないほど手にしているのだ。 P401 で、行き着く先はどこだろう? 自由意思をめぐる不安の源として最も強力なのは、物理科学が人のあらゆる行いを、いいものも悪いものも因果的な説明で飲み込んでしまい、魂をチビチビと食い荒らして、やがて賞賛するものも非難するものも、栄誉も尊敬も愛の対象もすべてなくなってしまうんじゃないか、というイメージだ。少なくとも、多くの人にはそう思える。そこでかれは、何らかのバリヤーを張ろうとする。何か絶対的な教義をもって、こうした腐食性の発想を食い止めようというわけだ。これは失敗が運命づけられた戦略で、前の千年紀からの遺物でしかない。自然に対する理解が増したおかげで、こうした防壁は単に厄介を先送りするだけで、しばしば災厄をもっとひどいものにする、ということもわかってきた。(中略) でも時代は変化して、何十年、何百年にわたって充分仕えた方針も古びて改定が必要になる。(中略) 必要なのは、自然のパターンがどう組み合わさっているかについて充分に調べて、そこに介入することで望みの結果が得られるようにすることだ。 P425 わたしが他の多くの思想家の助けを借りて示そうとしたのは、人はそういう神聖不可侵ながら脆弱な伝統を、もっと自然主義的な基盤で置き換えられるし、また置き換えるべきだ、ということだ。決定論と自由との想像上の対立といったしつこい思いこみとか、奇跡を行なう自己だの魂だのがすべての責任を負う部位として存在するという発想からくるにせの安心を手放すのは、おっかないことだ。哲学的分析は、それが根本的には正しい場合でも、それ自体では思考のこんな原動力にはなれない。だから哲学者の書いた本書のもっとも過激な特徴は、それが非哲学者の成果に大きな力点を置いていることだ。 P427 本書でのわたしのねらいは、ダーウィンの「奇妙な理由づけの倒錯」を受け入れれば、道徳や意味、倫理や自由の問題という最高かつ最も深遠な人間思考までずっと組み立てられるんだ、というのを示すことだった。進化的な視点は、こうした伝統的探求の敵であるどころか、その不可欠な味方だ。私は倫理学の大量の業績をダーウィン的な代案で置き換えようとしたんじゃない。むしろこれまでの業績に、適切な基礎を与えようとしている。現実的で、自然主義的で、自然の中での人間の地位に統一的なビジョンの可能性を与える基盤だ。考察してコミュニケーションを行なう動物というヒトの独自性を認識することは、ダーウィンに向かってげんこつを振り上げ、ダーウィン流の見事にまとめられて経験論的に根拠づいた思考体系から得られる洞察を却下するような、人間「例外主義」なんか必要としない。人間の自由がなぜ他の生物の自由より大きいかが理解できるし、この高い能力が道徳的な意味合い――ノーブレス・オブリュージュ――をもつことも理解できる。人間は次に何をするか決めるのに一番いい立場にいる。それはわれわれが最大の知識を持ち、従って未来についても最高の見通しを持っているからだ。未来の地球がわれわれに何を与えてくれるかは、われわれみんなが共にどう根拠づけて先に進むかで決まってくるのだ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ うーーん。 特に反発するところも違和感もないが、何か分かったような、分からないような。 そう言われれば確かにそんな気がするが、果たしてこれでみんな理解され、ホントにこれで一通りの解決なの? 決定論と自由意志は両立するだろうし、両立させる以外におそらく途はないと思う。それに、自由意志を自然主義的に、生物学的に理解しようという発想も理解できないわけではない。けど、この本は、既に得られている知見をあちこちから拾い集めて並べて見せ、それをなんとかうまく組みあわせて見せた、というような印象。 これでツジツマはあってるかもしれないけど、何か、新鮮で驚きのある新知見が提示され、それが説得力ある形で述べられている、というようにはどうも思えない。 こういう”総合”みたいなことが本来的にテツガクのやるべきことなのかもしれないけど、それで詳細が充分に解明され、納得できる形で説明され、”よし、これで分かった”というようには思えない。これはこれでいいけども、なんかどうも、このもっと先が、ずずーっと、あるような、そんな気が。 わたしゃぁ、もっと先が知りたかった。(なんて身の程知らずでワガママな!) ⇒ 自由意志 #
by nbsakurai
| 2006-09-02 01:05
| エリア1 (科学の周辺)
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2006年 08月 06日
『Philotopia28 日曜思想家の館 知の森・日曜思想家談義室』
『知の森』 nbsakurai ( 04/11/27 ) から ---------------------------------------------------------------------- ○ blogを始めて約2月 投稿者:nbsakurai ( 04/11/27 ) 今まで、たとえば、・・・ >華氏911を見てきました。 - T ( 04/08/28 ) #132:0. >タマタマというシアワセ。 - T ( 04/09/09 ) #133:0. ナンカを読ませていただいて、・・・ なるほどなぁ、ウンウン、とか思って、できれば何かレスしたいんだけどなぁと思ってみても、賛同の意を表明したり、感心の意をエールしたりしても仕方ないし、何か発展させることが書けるわけでもないし、かといって細かいあら探しようなことをしてみても仕方ないし、う~ん、ってことで、どうにも形にはなんなくて、どなたかがレスしてくれたら、なんて思って見ていました。 今回も似たような気持ちにあるのですが、でも「blog」といキーワードで、今回はちっとは何か意味ありげに見えることも、多少はカタチにできるかもしんないと思い、やってみることにします。 多くの人が来ていて、明らかに反応がいい。多くの人が僕の文章を読んでいるだろうことはおおよそ確からしい。・・・なんていうのはうらやましいですね。nbのblogはさっぱりです。相当に視野の狭いことをやってるんですから、しょうがないですよね。 「人気blogランキング」がいいみたいなので、nbもやってみることにしました。(~^; でも、nbは布教活動をやっているわけではないので、多くの人に読まれればそれでヨシというわけじゃぁない。何か反応がなけりゃしょうがない。 その反応も、なにか具体性に欠け、抽象的で、でありながらも、なんとなく褒めてある。・・・というのでは、ちょっとnbもしょうがないと思う。 「うんうん、そうだよね。」などと簡単に聞き入れられる・・・それさえもないnbには、うらやましい限りではありますが。 人様の日記だかHPだか論説であるか判然としないものについて、口を差し挟むのはあまり趣味のいいことではない。・・・というようなこともあるので、いきなり議論を吹っかけるようなことはナカナカできにくいでしょうから、最初はそれでも仕方がない、のかもしれませんしね。 相違する意見、または押し進める意見、叩き潰す意見、またはぶちこわす意見を聞きたいのだ。・・・というふうに、nbも考えている。 人の意見を聞き、それにツッコミ、ツッコまれ、叩きのめし、叩きのめされて、自分の意見を形作ってきたのだという自負・・・というようなものは、nbにはありませんが。 しかし、このような文を自分のblogに書き綴るのはまさしく反則であろう。・・・っていうようには、nbは考えておりませんので、書きたいときは書いちゃうつもりです。 忌憚のない意見を言うことは軋轢を産むことに・・・なってもいいと思ってます。実はM さんのblogでそれらしきことを一度やったんですが、現在のところ反応がありません。禁止を明示されればやりませんし、削除されても仕方がないと思いますが、今ではコメントをつけもられない状況になって、無残な姿をさらしています。。 ココでのようなやり取りをblogのような場に求めるのは無理なのだろう。・・・かもしれませんけどね。それならそれでしょうがない、とnbは思っています。 システムとして、blogは議論向きではない、というのはそうだろうと思います。特にnbが選んでしまったものは、コメントの字数制限がドウシヨウもない大きな制約になってる、と感じています。 個人的体験や個人的感情の発露として書かれたblog、内容について真偽などは問いようがない日常の主観的記録、ムラ社会の中を横断しあうblog、・・・そういうのがあってもいいし、格別批判されることでもないとは思う。ただ、・・・ 論説風に纏められた文を巧みに書ける人であるからといって、それに対する反応については感情的対応しかできない人もいる。こういう人を見分けるのはかなり難易度の高いことである。・・・というような点は、確かにちょっと困りものではありますね。また、・・・ 多くの人々の支持を暗黙のうちに取り付けることができる、多くの支持を得やすい「朝鮮人差別の肯定」をしている実に無様な実例・・・を私は見ておりませんが、そういうのには、できれば関わりたくはないなと、無責任なnbは思っています。 そういうのは、人間の常としてフツウにあるんでしょうが、blogに限らず、ネットだとそれが増幅するようなところがあるんではないか、なんて分かったようなこと言ってみたくなりました。 私はこれまでずっと一人でやってきたんで、ネットでの対話はごく最近のことです。この森でも、いろいろ対話をさせていただいて、深化させてくれた・・・という思いはありますが、叩きのめし、叩きのめされて・・・というような感じを、nbは持っておりません。叩きのめされたりしたら、スゴイ嬉しいことなんですがね。 攻撃的に突っ込んだら突っ込み返されかねないという「恐怖心」・・・というようなものを、nbはもっていないつもりでいます。実際にそうなってみなければ、ホントのところは分かりませんが。 で、私としては、火花散るような議論・・・を希望しつつ、それが実現しないからといってガッカリしてやめてしまったりせず、今後も同じように続けていきたいと、とりあえず思ってるわけです。 blogというのは僕の望む場・・・ではなくても、まぁしようがない。 少しずつ考えを整理し、できれば深化・発展させて、自分の納得のいくようにしていきたい。そういう意味で、blogが・・・ 単なるお手軽テキスト更新ツールとしての役割・・・でも、まぁしょうがないかぁ。反応があろうとなかろうと、反応がどうだろうと、自分はどうせこれを続けていくんだろうしナ、って思っています。そしたらいつの日にか、ホントに叩きのめしてくれる相手に出会える?・・・かもしんない。 ―― そんなこと、ナイわね。あるとエエのう。ドッチかなぁ? ---------------------------------------------------------------------- ○ ボケか?ツッコミか? 投稿者:nbsakurai ( 04/11/28 ) >微妙に話が大きくなってますよ(笑) 話は、大きい方がおもしろくありません?って。(^^) >別に僕は誰かと喧嘩したいわけではないんだけれども、よくわからない賛同を得たいわけでもない。そして、自分が何かを論じる際にその論が完成されたものであるとも思っていない。 そうなんですよネェと言うと、よくわからない賛同の表明になりそう。(^^) >反則であろう。」と思うのはなぜかというと、「このblogに書き込みするときはこのような体裁でもって書き込んで下さい。」などと要請しているよーなもんであって、まずなんというか厚かましい。そして恥ずかしい。そして敷居を上げるだけになるのは見えている。と思うからである。 仮に厚かましくたって、敷居が高くなったって、それはしょうがないよな。自分が望むようなツッコミが来ないんじゃしょうがないもん、ってnbなら思います。反則だって、時にはしてしまおうっと。 >何度も叩きのめされて、ようやくこの程度に成長できたと思っております。 やっぱ、うらやましい。 おッ、叩きにきてくれたかと身構えても、よく見るとサッパリ痛くないところが叩かれていたり、nbじゃないものを叩いていたりでね。文章の一部の字句に反応してそれを独自に解釈され、全体の論旨とはあんまし関係のないご自分独自の考えの体系を表明されたりするってこともあるし。 で、その言わば「ちなみに話」がそれ自体で興味が持てるものの場合はいいんだけど、そうでない場合は困惑してしまう。私の言っていることはこういうつもりなんだよと一生懸命に説明しても、なかなかにうまくはいかなくて、そこをクリアするだけで消耗して、ついには根が続かなくなってしまう、ってゆようなことにもなってしまう、ダメなアタシ。 その過程で、人はそういうふうに読むのかとか、自分の舌足らずや説明不足とか、説明や議論の仕方とか、自分の理解・説明の浅さが判明する、っていうようなことはあっても、叩かれて成長した、というような気にはなかなかなることはない。 >くるのはエロサイトやらカジノやらの宣伝ばっかし。 これもまた、ソノスジの人にも、このblogは有望だと注目されているってことで、やっぱ、うらやましい。(^^) >どこかに、いいツッコミいませんかねぇ。。 そうですよネェって言うと、暇人の愚痴の言い合い見たいですしねぇ。 もしnbでよかったらツッコミますよ、って言いたいところなんですけど、nbのツッコミできるエリアはかなり狭くて、「知」「情」「意」のもつれというような話には、ちょっと首を突っ込めない。ツッコミ可能の範囲に入っていても、内容が自分と同意見の方向であると、中身のあるツッコミをすることができないしね。この駄文がいい例ですね。 で、こっからは・・・ >「知」「情」のもつれ。 投稿者:T ( 04/11/27 ) のほうですが、 >触覚で感じたことを言語に精妙に ・・・表わすと、実にいい「指に吸い付くような」官能小説になるんでは?って言ったら、ツッコミではなくてボケですよね。とんでもない方向に理解。(^^) >ところで、「なんで論を講じるんであろ?」という根源的な疑問がある。 考えてみたら、「自分の中の整理整頓の為」ですね。nbの場合。 「自分の内奥にある思想感情知識観念などといったものを他者に理解して欲しいという欲求の発露」という面を全く排除しているとは言わないですけど、そういうものは極力、表には出さないように、少なくとも精一杯の努力はしているみたいですね。 >んで、誰に伝えたいのよさ。 というと、やっぱ、ちゃんと批判してくれる人。 理解してもらいたいのは、理解したうえで批判してもらいたいからであって、理解それ自体が目的なのではない。 >・ある程度理解している人々の理解をさらに深めたい。 >・まったく理解していない人々に少しでも理解させたい。 というような気持ちは、どうもnbにはあまりないか、あるいは、もしかすると抑圧してるんでしょうかね。 自分が分からないこと、疑問に思っていることを、キチンと整理して理解したい、それも自分が納得できる形で理解したい。最終的には、自分が納得できれば、人がそれをどう考えるかは問題ではないっていうような、かなりジコチュウなところが、nbにはどうもあるみたいです。考えてみたら。 T さんには、社会に向かって発言する、っていうような面もおありになるようですが、nbにはそういうものもないみたい。 少なくとも、社会の不合理を正そうとか、人を啓発しようとか、衆生を救済しようとか、社会正義を実現しようとか、戦争をなくして平和をもたらそうとか、社会を少しでもよくしようとか、そいう高邁な目的が根底にあって、それでやっているんではないことは確かですね。 そういう意味では、個人的体験や個人的感情の発露として書かれたblog、内容について真偽などは問いようがない日常の主観的記録、っていうのと、そんなに違わないかもしんない。 >姿の見えない不特定多数に対して文章を書くから、態度が決まらなくて右往左往するのだな。 どうも、姿の見えない不特定多数に対して、nbは文章を書いているみたいです。 ホント、どこかに、いいツッコミいませんかねぇ。 ---------------------------------------------------------------------- #
by nbsakurai
| 2006-08-06 09:45
| 『科学的世界観』のBlog
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