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2022年 10月 12日
自然法則 ・ 予測可能性 ・ 自由意志 ・ 古典的(機械論的)決定論と予測可能性 世界は古典的自然法則に従っており、未来は一意に確定している。 初期条件のすべての情報がわかれば、未来を完全に予測することができる。(ラプラスの悪魔) ただし、そのためには初期状態の厳密な値が必要であるが、極めて微少な誤差が、結果に甚大な相違を生じさせることがある。(カオス、バタフライ効果) どんな測定にも有効桁数とういう限界があり、その誤差が予測可能性を限界づける。 また、多数の要素が相互作用する場合、結果を数学的に厳密には解けない、という問題もある。(多体問題) もちろん、世界のすべての情報を得ることなど、現実にできはしない。 法則に従っていても、実際には未来を完全に、確定的に予測することができるわけではない。 ただし、相当に精度の高い予測ができる場合はある。 太陽系の惑星軌道等については、将来の日蝕や月蝕も申し分なく予測できるほど。 地球気候のシミュレーションよる天気予報は、少しずつでも精度をあげてきているようだ。 でも、地震予知ということになると、どうにも絶望的な状況。 だからといって、地震が自然法則に従っていない、というわけではない。 ・ 量子論的(確率的)決定論と予測可能性 世界は量子論的法則に従っており、一意に定まった未来が確定しているわけではない。 量子論的ミクロの世界では、多数の幅のある未来が確率的に決定され、その確率は拡がっていく。 量子の系は波動関数(Ψ)で表され、その時間発展は自然法則により決定され予測可能であるが、 具体的な観測結果ということになると、波動関数のその振幅(複素数)の絶対値の2乗が、その確率を予測するのみである。 位置と運動量等の厳密な測定は技術的にだけでなく、不確定性原理により、原理的にも不可能(一意の明確な値をもたない)である。 さらに、観測行為自体が、観測対象の状態を変えてしまう。 量子論的予測では、近未来の幅のある統計的予測ができるのみである。 ただ、量子論は数学的に極めて精度の高い、高度に成功した厳密な科学であるようだ。 電子機器等の設計・製作にも欠かせない、高度の実用性ももっているらしい。 常識ではなかなかに理解しがたい事態ではあるが、世界がそのようになっているのだとすれば、それをそのまま受け容れるしかないだろう。 確定的な一意の未来予測ができないからといって、法則性までが否定される(自由がある)というわけではない。 自然法則による決定性と、未来の予測可能性は、別次元の話。 ・ 自然法則と自由意志 世界は自然法則に従っている、と科学的世界観は示している。 自然法則を破るものがある、というのが自由意志の主張であるとするなら、これに反していることになる。 自然法則を破る、神仏、奇跡、霊魂、超能力、超常現象、・・・、こういったものがあるとするなら、そこでは、 以上のような科学的世界観が破綻する、か、 それらを科学的に究明して科学的世界観に取り込む、か、 のいずれかになるであろう。 科学は、世界のあらゆる事象がすべて自然法則に従っている、と確証しているわけではない。 実在論や唯物論のような哲学的・形而上学的思弁は、科学的世界観の範疇ではない。 一方の自由意志も、紛れもない実感に支えられているとはいえ、自然法則を破っているという、具体的証拠があるわけではない。 むしろヒトの行動や意思決定は、外部からいろいろ操作されうることが、様々に実証されている。 その意思が生じるに至るに様々な要因があっても、自分ではなかなかそれに気づけない。 ヒトは、自分がなぜそう思ったり考えたりしているのか、何をどうしたりしなかったりしているのか、なぜどうしてそのようにしてきたのか、実はよくわかってはいない。 ただ実感だけでいうなら、例えば大地は、火山や地震はあっても不動であって、超高速で動いているとは実感できない。 実感が、常に当てになるわけではない。 自然法則による説明と自由意志による説明は、事実上両立して、現に普通に述べられている。 ヒトは、進化論的・人類学的・行動経済学的・心理学的・精神医学的・薬学的・生理学的、脳神経学的・・・等の、科学的説明を受け容れながらも、 一方では、自分の自由意志について疑ったりはしないで、それらの説明はどういうわけか、自分には当てはまらないと思っていられる。 自由意志を否定するような言説には直ちに反発する、というのが、むしろヒトのデフォルトの設定のようにも見える。 自己の尊厳を毀損する、侮辱であるかのように。 自分たちヒトは、他の物質や生物とは違った、特別な存在なのだ。 永年に渡る自然選択による生物進化と、発生・環境・経験・発達によって形造られた、 ヒトの身体・脳神経系の構造と機能が、ヒトの行動を支配しているのだとすれば、 それに反するような自由意志の余地はないはずである。 科学的世界観によるなら、それに反するような形での自由意志は、錯覚ないし幻想というしかない。 しかしながら、両者が本質的に矛盾しているとは、あまり表面化しない。 ・ 科学的世界観と両立する自由意志 自然法則に従う世界にも、自由が考えられないわけではない。 奴隷状態からの自由、貧困からの自由、重労働からの自由、 (飛行機等により)空を飛ぶ自由、(ワクチン等による)感染症からの自由、 言論の自由、世間の目からの自由、各種の束縛からの自由、 制約の(少)ない自由貿易、専制者のいない自由主義社会、 他人に直接には支配されない、内心の意思の自由、 物事の決定には、まさにそのヒト自身の体や脳が必然的に関係する、 その点だけを見れば、自律的とは言える、 ・・・・。 そのような意味での自由なら、ありうるだろう。 ただし、これらの自由が果たして、ヒトに本来望まれているような意味での自由意志としては、それを保証するに足る充分なものなのかどうか。 自己という個人の自由意志というものが、たとえフィクション・虚構であるとしても、 ヒトの社会の諸制度等が、その前提のうえに構築・運用されているのであれば、 それらの基礎を掘り崩すのは、おそらくヒトの集団にとっては良策とは言えないのだろう。 現在の社会秩序を崩壊させたくないのであれば、これらをなんとか両立させておく以外に、現実的な途はないのかもしれない。 なんとしても自由意志は守りたい、守らなければならない。 たとえ苦し紛れに見られようとも、様々な理屈をなんとか考え出して、それにすがりつきたくなってしまう。 あるいは、ことさらにこの問題を突き詰めて大騒ぎしたりしないで、言葉を濁してそっとしておく。 憲法9条と自衛隊を両立させておくように。 科学技術の粋を搭載した最新鋭の車、自分の買ったそういう新車に、 神社でお祓い受けようというヒトにも、良識あるヒトは、積極的に科学を説いたりはしないのだろうし。 自由意志や霊性の神話を失ってしまうと、ヒトは意味のある実存的な自己の物語りを、語りにくくなってしまうのかもしれない。 そうなると、結果だけを求めて、社会のルールや倫理を省みない、サイコパス的な目的合理的戦略人の、貪欲や傲慢、 そういうものを礼賛するような方向に、ひたすら向かうようになることはないか。 自然法則に従うだけの世界には、 理想・信念・価値・希望・憧憬・規範・誠実・品格・寛容・共感・節度・矜持・責任・自省・謙虚・・・ のようなヒトの実存的概念は、馴染みにくいのかもしれない。 そうならない歯止めとして、幻想や神話を大切に保存しておくのか。 (✳️過去記事) 『自由意志』https://nbsakurai.exblog.jp/320079/ 『決定論と予測可能性』https://nbsakurai.exblog.jp/320031/ 『「決定論」と「自由意志」(―― は両立する)』 https://nbsakurai.exblog.jp/5576551/ 『意識的な自己の支配は幻想という発想-意識は潜在意識の産物』 https://nbsakurai.exblog.jp/2730577/ 「量子論の解釈問題』 http://nbsakurai.exblog.jp/1189610 そのような神話は、社会の秩序やヒトの実存に、有用・有益なのか、無用・無益か、全体として有害と見るか無害と見るか。 このような問いは、当事者としてのヒトの実践上の(価値)判断にも関わり、その点で科学的世界観の範疇を超えてしまってはいる。 今般、追記1~の記事を書き加えましたが、これは、本文で述べたことを前提とした上で、その内容の一部を拡大して、敷衍したものです。 本文の記事の作成の際は、できるだけ科学的世界観の範疇をはみ出さないよう、またなるべく表現が過激ととらえられないよう、留意したつもりでした。 これは、そういう制約の枠を振り切って、曖昧にしていたところをハッキリとさせ、考えていることすべてを思いのたけ述べてみよう、と試みたものです。 これで、良くも悪くも、自分の考えていることをより正確に客観視できるようになった、ものと思っています。 ( 2023.6 ) なお、ここで「本文」というのは、 ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~
人工物として社会的・文化的・心理的に構築された諸概念の、修正や改善・再設計等を目指すという「概念工学」、 そういう発想での「自由意志」概念の扱いについて、 〇『〈概念工学〉宣言! ―哲学×心理学による知のエンジニアリング―』 戸田山/和久 唐沢/かおり 2019/3/15 P132 哲学者のニコルズは、近年の心理学的研究の隆盛を踏まえて、自由意志論は三つのプロジェクトに分類できると提唱している。 第一に「記述的プロジェクト」は、自由や責任についての素朴な直観のあり方を解明し、またその直観の背後にある素朴な概念や信念を解明することを目指す。(中略) 人間一般が下す判断は、実はどのようなものか、そしてそれがどのような原理に基づいて下されているのかは、経験的に明らかにされるべき心理学的問題である。 それゆえ自由意志の概念や信念にまつわる経験的探求は、記述的プロジェクトの中核にあるべきものだろう。 第二に「実質的プロジェクト」は、そうして明らかにされる人々の概念や信念が正しいのかどうか検討する。 例えば、人々の抱く自由意志概念が非両立的なものであると判明したら、しかし同時にこの世界が決定論的なものだと判明したら、そうした自由意志を信じる人々は誤ったことを信じていたことになるだろう。 そのような検討を行うのが、実質的プロジェクトである。 第三に「指令的プロジェクト」は、以上を踏まえて、われわれの責任実践を保存すべきか修正すべきかを検討する。 もし人々が自由と責任について誤ったことを信じていたとすると、それは責任実践の修正に対して一つの重要な根拠を与えるだろう。 しかし、すべてを考慮したうえで責任実践が修正されるべきかどうかは別問題である。 あらゆる理由や根拠を踏まえて、最終的にどのように責任実践を行っていくべきかを検討するのが、このプロジェクトの目指すところである。 P135 ヴァーガスによれば、現在のわれわれの自由意志概念は不正確でありうるが、それはわれわれの現行の責任実践の核心を否定することにつながらない。 言い換えれば、彼は実質的プロジェクトとしては現行の自由意志概念が不正確だという可能性を受け容れるわけだが、しかし指令的プロジェクトとしては、現行の責任実践を保存できると主張するのである。 このような「ねじれ」が可能になるのは、実質的プロジェクトと指令的プロジェクトの間に、他でもなく概念修正というもう一つのプロジェクトを彼が組み込んでいるからだと言えよう。 それはすなわち、自由意志概念をつくりなおすというプロジェクトである。 ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ① ヒトは素朴に自由意志を信じていて、ヒトの実践に効果を持っているが、その内容は漠然とした曖昧なもので、体系的で一貫した整合性のあるものではない。 ② 科学的世界観によるなら、世界は自然法則に従っていると考えられ、それに反するような自由意志とは両立せず、両立するようなどんな自由意志がありうるのかは不明である。 ③ ヒトの責任実践をどうすべきかというのは、科学によっては答ええない、価値や当為や規範の問題であり、科学的世界観の範疇ではない。 ④ ヒトや社会の実践に役立つように自由意志概念を造り直す、という概念工学というものもやはり、科学の範疇ではありえない。 自由意志というものについて、科学が扱えるのは、 ① ヒトや社会がどう考えてどのようにしているのかという記述的事実、 ② その実質的な概念内容が、科学的・客観的に正しいのか、 というところに留まり、それ以上の ③「実践指令」や ④「概念工学」には及ばない。 自由意志概念についての議論をこのように4つに整理してみると、 ・ 自由意志がないなんて信じがたい、皆が(ヒトの圧倒的多数が)自由意志を信じている(①)のだから、自由意志がないわけがなく、自由意志はある(②)。 ・ 自由意志はヒトの社会や生活に根付いて、なくてはならいものになっている(①)のだから、自由意志は確保しなければならない(③)。 ・ ヒトが考えている自由意志(①)と、客観的・科学的事実(②)が両立しないなら、両立するように自由意思概念を修正すればいい(④)。 このように、さまざま議論があって、そこには混乱も見られるのではないか。 なお、自由意志と責任について、 追記3: 『「自由意志と責任ある主体」という虚構』 また、科学では扱えない問いについて、 補足2: 『ヒトは象使い』 の、『科学では扱えない問い』 ( 2023.11 ) #
by nbsakurai
| 2022-10-12 23:59
| ★ ★ 総 括 ★ ★
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2022年 10月 12日
ヒ ト の 現 状 人類は、そのほとんどの期間、常に移動しながら、果実等の植物採集や狩猟をして生存していた。 ヒトは熱帯のサバンナで、対等・平等な小集団により、狩猟・採集する生物として出発した。 狩猟の技能を向上させ、アフリカを出て各地に拡散すると、その度に、その地の(大型)動物の絶滅を引き起こしてきた。 やがて漁労や農業・牧畜を始め、遊動生活から食料貯蔵・集落定住に移行し、富を蓄積し始め、 さらには分業・組織・階層社会を大いに発達させ、ついには科学技術と大規模な工業生産を急激に発展させた。 その過程で、自然の原生林・森林を大量に伐採し、大規模な都市を建造してきた。 山林を掘削して鉱物を採取し、道路を造り、森林を破壊し、化石燃料を燃やし、大量の製品を製造し、運搬し、プラスチックをはじめ大量の廃棄物を発生させている。 大量の化学物質と大型機械を用いた、生産性の高い大規模な集約的農業は、 増え続けるヒトを飢餓から救ったが、土地と川や海の生態系を、無造作に破壊してきた。 海水の温度上昇と富栄養化・酸性化により、海洋生物の多くの生息地を、消滅させてもいる。 ヒトは地球上の広大な地域を、生物の大半が棲息できない場所に変えてしまった。 魚介類の持続可能性を考慮しない、競争的・大規模な乱獲は、海洋資源を枯渇させつつある。 家畜やペット等を除く、野生の昆虫、魚介類、両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類、霊長類、・・・の数は、激減している。 ヒトの個体数は80億にもなるが、他のホモ属等はみんな滅んでしまい、類人猿ではすべての種を合わせても、数十万程度しか残っていないという。 ヒトは、食物連鎖の頂点に立つ、前代未聞の凶暴な捕食者になった。 大量の牛を殺し、その皮を剥いで逆さ吊りにする、食肉工場。 ヒトのせいで、地球生物の歴史上、6回目の大量絶滅が今、現に起こっている。 ヒトの数が指数関数的・爆発的に膨張してきて、その生産(破壊)活動も、加速度的に増大している。 気候変動、異常気象の嵐、集中豪雨、水害、熱波、大規模な森林火災、海面上昇、氷河の融解・減少、干ばつと砂漠化。 ヒトの生存の基盤となるインフラが、危機にさらされている。 農業適地の減少、土地の劣化、水資源の枯渇、受粉生物の激減、漁業の衰退、・・・は、いずれはヒトを食料危機に向かわせる。 海面の上昇は、やがては地球上の沿岸都市を水没させる。 ヒトは、技術を革新し、生産性を高め、コストを低減し、より効率的に生産高をあげてきた。 科学の進展による、新たなテクノロジーやイノベーションは、 経済社会のよりいっそうの拡大に役立てられ、 組織的に他の生物を殲滅させ、自らの生存の基盤をも蝕んできた。 ヒトが依存している自然の生態系は今、危機に瀕してきている。 ヒトは果たして進歩しているのか、破局に向かっているのか、どう評価すべきだろう。 地球史はすでに、新生代第四紀の完新世から、人新世という、新しい局面にはいっている。 ヒトがそのことに気づき始めてから、すでに数十年が経過しているが、ヒトの社会は大胆な軌道修正ができないでいる。 大企業、政治家、消費者を含めた、社会・経済システムが、一方向に慣性的に動き続けている。 永遠に続く経済成長という幻想、GDPを増やすのが何よりも大事だという思い込み。 経済成長がすべてを解決する、成長がなければ何も始まらない、とさえ考えられているのかもしれない。 ヒトの経済社会の発展・成長というものは、 ある目標・到達点というものがあって、そこまで行きたい、ここまでくれば充分だ、というものではなくて、 どこまでいっても、際限なく拡大していこうとする。 経済活動の規模を拡大し、大いに利益をあげて資産を蓄積し、それを研究・開発等に投資して更なる発展を目指す、 そういう限りない成長、それ自体が目標になっている。 個人的には疑問を感じるヒトがたとえ大勢いたとしても、この流れには抗えない。 むしろその流れにうまく乗った者が、社会的に成功者とされ、大きな影響力を行使しうる。 競争市場という場では、その手段はともかく、勝ったものが正しいとされ、力を得ることになりかねない。 こうした社会の流れのなかで、自ら進んで負け犬にはなりたくないと思えば、 ヒトは常に追いたてられて、長く立ち止まってはいられない。 成長し続けなければ置いていかれ、生き残れないかのように。 他の生物を含めた地球の自然は、成長のために採集・活用すべき、資源とみなされているらしい。 場面によっては、自分の仲間以外のヒトやヒトの労働力も、そうみられる。 その場合のヒトの終極的な扱いは、取替可能な消耗品、ということにになりかねない。 ひとたび経済成長という大目標が打ち立てられて動機付けされてしまえば、あらゆるモノやコトがそのための資源として合理的に動員されうる。 その活動で生じる諸問題に対し、絶滅危惧種の指定(レッドリスト)、気候変動枠組条約(COP)、持続可能な開発目標(SDGs)・・・等の、対応が行われてはいる。 でもそれらは、自らの社会の開発・成長を阻害しない限りで、という限定付きのようだ。 むしろそれさえも、逆に自らの成長のチャンスとして、大いに活用しようとしたりする。 最終的にはテクノロジーやイノベーションで解決すればいい、とも思われているらしい。 何かが技術的に解決されても、おそらくそこで安定することはなく、その上でのさらなる拡大・成長が目指されることになるだろう。 クリーンエネルギーと言われるものを増やしても、全体としては、それを上回る速度でエネルギーの需要が伸びていく。 技術革新で効率が上がっても、それで経済を拡大して成長を目指す限り、資源・エネルギーの消費も拡大していく。 レジ袋の有料化、エコカー、太陽光発電、省エネ家電、リサイクル、・・・、程度では、 何もしないよりはいいと気休めにはなっても、とても追いつかない。 むしろそれで責任は果たしているとして、後は思う通りに振る舞うという、モラルハザードの口実にもなりかねない。 あるいは、そのような社会の動静それ自体が、成長を目指す企業にうまく利用されかねない。 危機は深刻で既に差し迫っており、多少の改善や調整で解決できるようなものでは、ないようだ。 生物進化というものは、当面の生存・繁殖に有利なものが自然選択され続ける、という過程であり、そこでは将来への展望という観点からの評価は、なされない。 その課程をうまくやり過ごせなかったものは、生存・繁殖ができず、子孫を残せないので、 現在生きているヒトはみんな、それをうまくやりとげてきた勝者の子孫である。 遠い将来の深慮展望にたけたものが過去にいたとしても、その時点での当面の生存・繁殖に失敗すれば、子孫を残せず消えてしまっている。 ヒトは、その過程を単に潜り抜けてきただけではなく、他の生物を押し退けて、異常なまでに繁殖し続けてきている。 ヒトの実存や社会の秩序は、その意味では大成功をおさめてきた、と言うべきだろう。 自由意志や霊性の神話は、その意味で社会の秩序やヒトの実存に、有用・有益なものであったのかもしれない しかしながら、以上のような危機の現状をかんがみるとき、全体としてそれらを無害と見るか、有害と見るのがむしろ妥当なのか、疑問は残る。 ヒトは、種々の科学的説明を受け容れながらも、それらの説明は自分には当てはまらないと思っていられる。 自由意志を否定するような言説には、自己の尊厳を毀損する侮辱であるかのように、直ちに反発したりもする。 自分たちヒトは、他の物質や生物とは違った、特別な存在なのだ。 自然法則に従う科学的世界の一部ではなく、その外部に立つ、非物質的な、いわば神聖・不可侵なものなのだ。 そういう前提にたっていれば、他の生物を含めた地球の自然を、ヒトが活用すべき、資源とみなすことも容易であろう。 自分たちを、地球の自然生態系の内部の存在、とは考えない。 それで、当面の生存・繁殖には役に立つ。 いざというときは、地球を捨てて宇宙に飛び出せばいい? そういう態度・姿勢は、本来の自然にかなった妥当なものなのかどうか。 ヒトの実存というのは、基本的には自己という個人、についての問題であるらしい。 自己以外の他者は、オンリーワンの掛け替えのない実存、とは区別されうる。 また社会の統合や秩序というのは、自己の所属する集団、についての問題であるらしい。 ヒト以外の生物はその社会には含まれないし、地球全体のヒトの社会、であることも必然ではない。 社会の成員は、家族・親族・友人・仲間・同郷人・同性・チーム・派閥・組織集団・同階層・同国人・民族・宗教集団・人種・・・等であってもよい。 その集団から外れたものは、他者として、大切にすべき自らの社会とは、区別されうる。 ヒトは、仲間はずれにされると生存・繁殖に失敗しやすいという、永い生物進化の過程を潜り抜けてきた。 ヒトは仲間とは協力しあい助け合っても、仲間でないよそ者とは対立・競争し戦いあったりする。 学校のクラス編成など、無作為のグループ分けでも、同様の対抗の傾向を示す。 ヒトにとって社会とは、自己を中心として、それをどこまで拡大できるか、どこから先を他者とするか、ということであるらしい。 想像上の共同体として、自国までは拡げられるとしても、他の生物まで含めた地球全体というところまでは、どうもムリのよう。 自国の国益のため互いに利用しあうことはあっても、全体のための無私の協力ということになると、なかなかできかねる。 国勢調査という言葉が示しているように、自分たちの仲間が増えて、他の集団より勢いを増すことは、望ましいことなのだ。 大切な自己やその仲間と、そうではない他者や他集団を区別して、後者の利益を損なってでも、抑圧・搾取・強奪してでも、前者の利益を謀ろうとする者もいる。 かつて、経済が成長して利益をあげる者がいれば、それが滴り落ちてみんなが幸せになるという、トリクルダウンなるものが唱えられたことがあるが、 現実にはそうなっておらず、むしろ格差が拡大して二極化し、それが固定化しつつあるように見える。 上位10%の富裕層が世界の富の80%超を保有し、下位の過半数のヒトの富を全部合わせても1%未満だという。 現代日本の子供の10人に1人は、相対的貧困の状況にあり、親ガチャの呪縛から逃れるのが困難であるらしい。 それは自分の人格や能力による自己責任なのだ、と納得させない限り、 経済・社会・制度等への不満や不信の種となり、ヒトビトの間に社会的緊張や分断を造り出し、社会の秩序や統合を揺るがすことにもなりかねない。 アメリカのかつての白人中間層では、アルコールや薬物依存・自殺等により、寿命が縮んできているいるという。 黒人の社会的地位は全体的に低いままで、麻薬犯罪等での服役率も高いらしい。 正社員の企業別労働組合は、非正規社員の社会的状況までは気が回らない。 企業や組織の、信頼を裏切るような不正や不祥事も、発覚してきている。 まずもって謀るべきは自分(たち)の利益であって、無差別のみんなの利益ではない。 また、自分(たち)がいなくなった後の、将来世代のことはともかく、今の自分にたいした不都合がなければ、とりあえずそれでかまわないじゃないか。 生物進化・自然選択によって形造られたヒトという生物種は、そのように行動するようにも、どうもできているらしい。 次のようにしても、生産活動・サービス・経済活動が増え、マネーが動き、利益が上がり、GDPが伸び、経済が成長したことになりうる。 大義名分はともかく、オリンピックや万博等の一大イベントを開催する。 原発事故を起こして、その対策・復旧・廃炉を行う、 SNS上等で節度のない無責任な発言をして、注目を集める、 トラブルが多い社会では、その解決のための司法的対応の需要も増える、 血圧の正常値の基準を厳しくして、より多くのヒトに対応を迫る、 厳密なエビデンスがなくとも、特定検診に力をいれる、 健康不安をあおって、健康食品を売り込む、 年を経るごとに加齢するのは論理的必然なのに、坑加齢を推奨する、 介護の時期を遅らせるよう、介護予防に勢力をつぎ込む、 最大限の資源と技術で、神聖なヒトの命を延命する、 土地や株・絵画や会員権を転がす、 そのものの活用ではなく、金額による換価価値やステータスを追求する、 ブランド戦略を駆使して、高額な商品を販売する、 金融資産を様々に動かして利潤をあげるヒトに、高額の報酬を与える、 株価の動きに一喜一憂し、自社株を騰貴させた経営者に高額報酬で報いる、 株価上昇のための自社株買という、資本にとって不思議・不可解なことをする。 スタートアップも、成長・拡大すると、租税回避等に精を出す。 ヒトの貧窮につけこみ、低額報酬で長時間働くように仕向ける、 目新しい新規な製品で、消費者の注目を引き、需要を造りだす、 大量の製品を素早く効率的に捌くため、精緻で効果的な広告活動に励む、 既にある製品が行き渡ったら、できるだけ速やかに陳腐化させる、 必要以上の衣類を作り、売れ残ったら大量に廃棄する、 廃棄物が増えれば、廃棄物処理の需要も膨らむ、 無償で行われていた家事・育児・ボランティアを、有償で外注する、 地域コミュニティの自助・共助を解体し、企業サービスを活用するようにする、 ・・・。 そのような成長によって、これまでに何が獲得され、今後は何を目指そうとしているのだろう。 ヒトの主観的な達成感や充実感・やり甲斐や生き甲斐・幸福感や満足感・安らぎや落ち着き・肯定感や納得感は、 客観的な数値での評価には馴染みにくく、コスパやタイパの追求では、得られないかもしれない。 科学的な自然法則というものに従う世界の中で、 ヒトが、自己という幻想、自由意志という虚構、霊性という神話に価値を見出し続け、 自己中、唯我独尊、強欲、独善、傲慢ともいうべき態度を取り続けるのであれば、 そういう態度・行動は自然法則・自然選択にさらされ、その結果は明らかであるかもしれない。 限りない偏執的な欲望で、もっともっとと、追い求め続けて暴走していく以外に、途はないのだろうか。 そのような繁栄の最先端をいくような、いわゆる先進諸国において見られる、 出生率の低下・人口の減少という、生物進化の生存・繁殖というドグマに反するようにも見える現象は、何を意味するのだろう。 自らの生存の基盤を蝕んできた報いとして、自然の摂理が働いているのか。 こんな人類社会の現状では、赤ちゃんをもうけ、子孫を残す気にはならないと、潜在意識で暗黙のうちに感じているとか。 それとも、生物進化というヒトの創造主に、ヒトが逆らうという事態が、起きつつあるのだろうか。 人口減少は災いではなく、むしろ、 自然生態系の回復にとっても、他の生物にとっても、ヒトが依存している生存基盤の回復という意味でも、 望ましいことだという見方も、ありうるかもしれない。 特にその最先端をいく日本では、少子・高齢化がこのまますすみ、限界集落が次第に消滅していって、ヒトの社会が縮小していき、 日本列島の自然が、少しずつ回復していくことになるのか。 もっとも、地球全体のヒトの数は、今後もしばらくは増え続けるようだが。 ( 2023.6 ) ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ヒ ト の 近 未 来 何かが根本的におかしくはないか? それでは、世界として、人類として、国として、またヒトとして、一体どのようにすれよいのか。 ヒトの社会の、どこをどのように変革していくべきなのか。 このような問いは、当事者としてのヒトの実践上の(価値)判断に関わり、その点で科学的世界観の範疇を超えてしまう。 事実はどうであるのかという世界認識の課題から、何をなすべきかという当為の規範問題にすり変わってしまう。 現状がどのようであるか、これは事実問題であるが、それすらも合意に達するのが難しい。 自分の都合のいいように、事実を取捨選択したり、歪曲して解釈することは、ヒトに普通にみられる。 どういう政策を取れば結果がどうなるか、ということは事実問題でありうるが、どうすればいいのか、というのはそうではない。 両者は性質や次元の異なる別の課題であり、厳密に分離するよう注意しないと、議論が混乱してしまう。 両者を混同して混乱することは、ヒトには普通にあるようだ。 ヒトや世界はこのようであるという事実の話と、ヒトや世界はそうあってはほしくない、ヒトはこのようであるべきだという当為の話。 片方は根拠を示して科学的検証にかける可能性があり、間違っていたということがありうるが、他方は結局は根拠を示すことができない。 何か根拠を示しても、さらにその根拠は ? とどこまでも問うことができて、最終的な根拠にたどり着くとすれば、 間違いであることが原理的にありえないとされる、宗教や神の信仰・独断的な定言命令にでもすがりつくことになる。 究極的には、これを決して疑ってはいけないという、信念ないし信仰に行き着くしかない。 これはこうだからこうなんだ。当たり前じゃないか。どうしてそれがわからない。 異なる信念や信仰の間を、論理的・科学的・客観的に正しく調整して、 ただひとつの正解、誰もが認める(べき)普遍的な真理や価値・正義や秩序にたどり着く、というような途はない。 そのような普遍的なものがある(べき)はずだと考えるなら、それがもう既に、根拠のない幻想。 絶対の真理を信じ、それを実現しようと、手段を選ばずアクティヴに行動するような者ほど、始末におえないものはないかもしれない。 それぞれが自らの(普遍的 ? )真理や正義をどこまでも主張するならば、どちらにとっても自分が正しく相手が間違っているのだから、 対立・紛争をいつまでも続けることになるしかないが、それを避けようと思うなら、 反対者の知らないうちに、既成事実を積み上げてしまう。 反対者を、何らかの方法で排除する。 詭弁を使ってでも、相手を論破する。 いつまでもどこまでも主張し続けて、相手が諦めて黙るのを待つ。 絶対専制者を設けて、判断を委ね、それに従わせる。 多数決で決めて、少数者を黙らせる。 互いに干渉しないで、距離をとる。 互いに認めあって、自らの唯一性を放棄する。 互いに譲歩しあって、落としどころを見つける。 ・・・・ というようなことがありうるだろうか。 経済・社会を変革するにしても、状況は大規模で極めて複雑で込み入っており、 とても一人のヒトが、理解・対処できるようなものではないし、 多くのヒトがそれどころではなく、そんなことは考えたくもないかもしれない。 80億人にもなる人類が、それぞれの利害を乗り越えて、ひとつの価値、目標に向かって動き出す、 これも、控えめに言っても至難の技だろう。 また、現状の社会・経済状況のもとで成功者として力を持っている者が、その現状の変革に意欲的に取り組む、 これも、期待できそうにない。 ヒトやその社会に、このような問題を充分に理解して、それにうまく対処できる賢さがあるのか、 これも、わからない。 日本では、数十年前から確実に予測されていた少子・高齢化、その根源の探求や想像力はおろか、対症療法的な対策でさえ、満足にできないでいるよう。 なんにでも解決策がある、というわけでもないだろう。 あまんじて受け容れる意外に途がない、ということもありうる。 もちろん、以上のような見方は、間違っている可能性はある。 また、根拠なく物事を楽観視するという、ポジティヴ・イリュージョンも、ヒトには普通にみられる。 だいじょうぶだぁ。そのうちなんとかなるだろう。 それでうまくいくこともあるから、これもひとつのあり方ではあるでしょう。 このままでは持続可能ではないとしても、現世の世代が生きている間(少なくとも100年くらい)はなんとかしのげるか。 別の可能性も考えられなくはない。 既にルビコン川を渡って後戻りはできず、このまま突き進むしかなく、 地球上での生物進化の歴史を、その終わりの今から数十億年後に振り返ってみた時、 そもそもあらゆる生物の種には寿命があり、生じてはいずれは消えていくものではあるけれども、 ホモサピエンスという実に奇妙な種は、大いに繁栄して輝いてるように一時は見えたが、 結局はたった30万年にも満たない短い寿命しかなく、花火のように輝いてはすぐに消えてしまった。 近縁種を含む他の生物を大量に絶滅させ、大層な廃墟や瓦礫を一時的に残しはしたが、結局はとるに足らない種であった。 もっと長期間生き延びた種もたくさんあるのに、どうも図に乗ってちょっとやり過ぎたらしいな。 でもそのおかげで、新たな生物進化の途が開け、ホモサピエンスとはまるで違った、もっと優秀で知的な生物が進化できた。 ・・・というようなことも、可能性としてありうるかもしれない。 ( 2023.7 ) (✳️過去記事) 『当為-何をなすべきで何をなすべきではないか』 http://nbsakurai.exblog.jp/320081 『事実と価値』 http://nbsakurai.exblog.jp/1828183 『進化生物学――科学と価値のあいだ』 http://nbsakurai.exblog.jp/3812068 『事実認識と価値判断』 http://nbsakurai.exblog.jp/3824659 『科学は善悪を問うことができない』 http://nbsakurai.exblog.jp/5857402 『事実とは1』 http://nbsakurai.exblog.jp/319983/ 『事実とは2』 http://nbsakurai.exblog.jp/319988 『事実とは3』 http://nbsakurai.exblog.jp/319993 なお、科学では扱えない問いについて、 補足2: ヒトは象使い https://nbsakurai.exblog.jp/33340931/ の、『科学では扱えない問い』 ( 2023.11 ) #
by nbsakurai
| 2022-10-12 23:58
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